欲深き者
楚に侵攻していた諸侯連合は楚との講和をもって、退却を決めた。
諸侯たちは退却の前に斉の桓公に進言した。
「此度、楚との講和がなりました。この目出度いことがありましたので、もう蔡君をお許しになられたら如何でしょうか?」
「諸侯の願いは良くわかった。蔡君は開放しよう」
こうして、蔡の穆公は開放された。
諸侯連合は退却するため、鄭と陳の国を通り、帰国しようとしていた。
この鄭と陳の臣である。申侯・伯と轅濤塗が密かに会った。轅濤塗は彼に言った。
「これほどの大軍が陳と鄭の間を通り、凱旋すれば、我々両国は疲弊することになる(陳と鄭が諸侯の大軍のために食糧・物資を供給しなければならないため)。私はこう考えている。東方の道を回り、東夷(東の蛮族)に武威を示しながら海を沿って凱旋するなら安全であるし、我らが両国は疲弊しなくとも良い」
彼がこの提案をしたのは、斉と鄭に対し恩を売って、己の主からも褒美をもらおうとしていたのである。
(わざわざ、このような辺境の地に来たのに、何ら旨みが無ければやってらんないじゃないか)
そのため彼はこのようなことを思いついたのである。さて、これを行う上で鄭の文公の寵愛を受けている彼にこの話しを通しておこうと考えたため、彼に話した。
「うむ、その通りだ。轅濤塗殿。私たちが斉君にこれを持ち掛ければ、斉君は同意するだろう」
轅濤塗は彼の言葉を喜んだ。
「よくわかってくださった。伯殿。では、あなたは私の後に進言していてくれ」
彼は桓公の元に出向き早速、東巡について進言した。
彼の進言に桓公は喜び、同意した。
(これで斉にも鄭にも恩が売れた)
また、斉君の喜びようであれば、斉君の彼の印象は良いはずであり、そのことは彼の名声、権威に繋がる。
(陳と斉の関係を強化すれば、君は大層喜ばれるだろう。もしかしたら、私は卿の位を与えられるかもしれない)
彼は輝かしい未来に思いを馳せていたが……
彼が桓公に進言して、しばらく経った後、彼に驚くべき状況が起きた。
諸侯連合が鄭と陳を通る道を選んでいたのである。
「どういうことだ轅濤塗」
陳の宣公が彼に向かって言った。
「わかりませぬ。私が進言した時は大層喜ばれておりましたので……」
そこに突然多くの兵が現れた。
「なんだ」
「我らは斉軍である。此度、我らが主を誑かした罪によって、陳の大夫・轅濤塗殿を捕らえに参った」
「彼は進言しただけであろう。誑かしたとはどういうことだろうか?」
確かに轅濤塗は進言しただけとも言えており、結局、同意するかは桓公次第のはずである。
「この者は東の道に多くの敵がおり、沼地も多く、交通に不便である。それを知りながらこの者は進言し、斉だけでなく他国にも被害をもたらそうとした。斉は盟主として、許すわけにはいかないのである。よって、轅濤塗を捕らえさせていただく」
「そ、そのようなつもりはさらさらありません。誤解でございます」
「問答無用」
斉の兵は彼を捕らえて行った。
(何故だ)
彼はそう叫びたかっただろう。しかし、わからないのは何故、彼が進言した時は喜んでいたはずの桓公の意思が変わったのかである。
(私の進言を知っているのは……やつか)
申侯・伯のことを思い浮かべた。彼には進言することを伝えており、それを覆させたのは彼であると考えたのである。
(おのれ、許さんぞ)
彼が怒りを表わにしている中、申侯・伯はほくそ笑んでいた。
「そろそろ、あの男が捕らえられた頃かな」
轅濤塗のことを思い浮かびながら、思った。
彼も轅濤塗と同じように遠征から、利益を得ようとしていた。そんな中で彼に轅濤塗が話を持ちかけたのだ。
この話を彼も面白いと思ったが、彼としては轅濤塗の言う通りにするのが、癪であった。そこで彼を踏み台にすることを思いついた。
彼は轅濤塗が桓公の元を離れたのを見てから謁見し、進言した。
「陳の大夫である轅濤塗が東方の道を行くよう言っておりましたが、今回、諸侯が出征してから長い時間が経っております。東方の道をわざわざ通って、もしも敵に遭遇すれば疲弊した諸軍では役に立たないのでしょうか。陳と鄭の間を通れば物資も食糧も軍靴も両国が提供しましょう。この道を選ぶべきではないでしょうか?」
そこまで言って、間を空けると彼は続けた。
「東方には東夷の他に、東方の道はであり、沼地もございます。とても行軍なさるところではございません。轅濤塗は斉君だけではなく。多くの諸侯にも被害を与えようとしています」
桓公はこれを聞き、轅濤塗に怒りを表わにすると共に彼の進言に喜び、これを入れた。
そして、彼への褒美として、虎牢の地を与えた。
(やつを嵌めてやった)
彼は高笑いを上げた。
秋、諸侯が帰国した後、斉の桓公は江と黄の兵を率いて、陳を攻めた。轅濤塗の罪を問うためである。
よほど、轅濤塗のことが癇に触ったようである。
更に十二月、桓公は魯の公孫茲こと叔孫戴伯(叔牙の子)に斉、宋、衛、鄭、許、曹の軍を率いさせ、陳を攻めさせた。
この中の斉軍を率いているのは、陳完である。
桓公が陳への復讐心もあるだろうという起用である。
(命令を受けたために来たが、母国のこのような姿を見ると何かしら思うところはあるな……)
諸侯の兵により、ぼろぼろになっている陳の地域を見ながら、彼は思った。そこに配下の兵がやって来た。
「陳完様。我らの陣に陳からの使者がやって来ました」
「ほう、陳からか……」
(元々、陳にいたから私を頼ったか)
彼は苦笑した。自分を追い出したくせに自分たちが危機に陥れば自分を頼ろうとする。その虫の良さを笑ったのである。
「良かろう。ここに呼べ」
兵は敬礼してから、立ち去り、しばらくすると戻ってきた。
「連れてきました」
「入らせよ」
兵によって、陳の使者が彼の陣幕に入れられた。使者を見て、彼は驚いた。
その陳の使者とは懿仲、彼の義父にあたる人物である。しかし、彼の髭は白く、身体はふらふらであった。
「義父上殿」
彼はそんな懿仲を肩を掴み、今にも倒れそうな彼を支える。
「椅子を持って来い」
陳完は兵に命じると懿仲を見て言う。
「まさか、再び会えるとは思っていませんでした」
「私もだ、完殿」
彼は兵が椅子を持ってくると座らせる。
「義父上が参られたのは、講和のためでしょうか?」
「そうじゃ」
「しかし、斉君のお怒りは相当なものですよ」
「完殿は斉君の寵臣のお一人でございましょう。何とかなりませんかな」
彼は黙った。彼は確かに桓公の寵愛を受けている。だが、彼は今まで桓公に対して諌めの言葉を、意見もあまり述べていない。また、彼が陳の出身であることも知っている。そのような者の言葉を聞くだろうか。
「頼む完殿。もう、我が国はあなたに縋るしかないのです」
彼は椅子から降りると深々と稽首する。そんな姿を見て、陳完は言った。
「わかりました。なんとか説得してみせましょう」
「感謝致します。完殿」
彼は涙を流して言う。陳完は彼の肩に手を添える。
「あなたが私を匿い、斉に行かしてくれたことへの恩返しです」
陳完にはこういう義理高さがある。彼は斉に戻り、陳と轅濤塗のことを許し、講和するよう求めた。最初、桓公は聞かなかったが、彼はこんこんと説得し、遂に陳と斉の間に講和をもたらせた。
そして、轅濤塗は開放された。
(絶対にあの男は許さん)
彼は開放された後も怒りに燃えていた。