屈完
「諸侯連合は陘山にまで侵攻しました」
この報告に楚の人々は動揺し、宮中は大混乱に陥った。
「こうなれば決戦あるのみです」
「左様でございます」
闘章、蔿呂臣らがそう主張する。
「しばし、交渉を続けるべきです」
そんな中、子文が反対する。
「交渉は既に行い、失敗しているではないか。もはや交渉の余地はあるとは思えん」
「まともに戦を行えば、例え勝利したとしても我が国の被害は大きくなる。そうなる前にこの戦をやめるべきである」
この喧騒に似つかわしくない男がいた。この男の名を屈完と言う。
「進言致します」
彼は楚の成王に向かって、大声で言った。
「私は令尹の意見に賛成です。交渉をするべきです」
「交渉が上手くいくとは思えないにも関わらず、使者を出すことは無駄である」
闘章が嫌味っぽく言う。
「私は上手くいくと考えています」
しかし、それに対し、自身を持って彼は言う。
「その理由を述べよ」
「はっ、説明させていただきます。そもそも、諸侯連合は我らを討伐するという名目で我らを攻めているにも関わらず、何故、陘山までにしか侵攻しないのでしょうか?」
諸侯連合ほどの軍容ならば、そのまま侵攻できるものはずである。それにも関わらず、陘山でその侵攻を止めた。
「諸侯連合の兵が多いために動きが遅いだけではないか?」
「確かにその可能性もあります。しかし、私の考えは違います。私は諸侯連合の内部に何かあったのではないかと考えています」
「何かとは何だ」
「それはわかりません」
闘章らはこれを聞いて、笑った。
「そのようなことで貴様は国の大事を決めよと言うのか」
彼らは口々に彼を非難した。
「静まれ」
罵り合いに発展した宮中に対し、成王が言った。
「屈完よ。使者を出すとして、誰に任せるべきだ」
「もし、王にこれはと思う者が居られないのでしたら、私に命じてください」
彼は頷き、彼に命じた。
「ならば、屈完よ。汝を使者に命じる」
「お受けします」
国の運命を背負い、彼は諸侯連合の元に行った。
その頃、諸侯連合は召陵に退いていた。そして、諸侯連合の空気は暗かった。
「許君の様子はどうだ」
斉の桓公が管仲に尋ねる。
「もう、今日が峠だと聞いております」
「そうか……」
諸侯連合の空気が悪い理由として、許君が病に倒れていたのである。そのため彼らは楚への侵攻を止めていたのである。
そして、今日。許の穆公は世を去った。太子・業が立った。これを許の僖公と言う。
許君が亡くなったことにより、彼の遺体を許に返さなければならない。そのためには楚から退却しなくてはならない。しかし、ここで退却しては今までの努力が水の泡となってしまう。
「ここで引くわけにはいかない」
「されど、許君のご遺体を国に返すべきです」
管仲としては、ここで許君に対しての行いを誤ることで名声を失うことのほうを恐れている。
そのような状況の中、屈完がやって来たのである。
「楚の屈完が斉君に拝謁いたします」
彼が稽首して言う。
「表を上げよ」
「感謝致します」
「して、此度は何の用で参られたのかな?」
「我が君は、諸侯との戦いを望んではおらず、講和を望んでいることをお伝えに参りました」
(講和……天は斉を祝福してくれている)
管仲としては講和は願ってないことである。ここで諸侯との講和を実現すれば、此度の出征にも意味をもたらすことができる。
「主公よ」
彼は桓公に目配せする。
「楚の使者よ。少し、相談させていただけたい。明日、お答えする」
「承知しました」
彼は桓公の元を離れ、使用人に客人用の陣幕へ案内された。
「屈完様。どうやら、許君が亡くなれたようです」
彼の配下が彼にそう伝えた。
「であるか……これで可能性が高まったな。後は私の言葉が斉君にどれだけ届くかどうか……」
屈完はそう呟いた。
翌日、斉の桓公は彼と馬車に乗せた。
「此度はあなたにこれをお見せしたい」
彼は屈完に目の前の光景を見せた。そこには、諸侯たちの依然として立派な軍容が広がっていた。
桓公が事前に命じていたのである。
(斉君は我らとの戦を諦めてない)
彼はそう感じた。すると桓公が言った。
「諸侯が兵を出したのはただ私一人のためではない。先君たちが築いた友好を継続させたいと考えるためである。あなたは我々と関係を修復したいと思わないか?」
「我が国の社稷に福をもたらしながら、我々を許容させていただけるとは、まさに我が君の願いです。」
彼がそう言うと桓公は手を広げ、言う。
「このような立派な兵を誰が防ぐことができようか。彼等が城を攻めれば、落とせなぬ城などないだろう」
(楚とはいつでも勝てる。戦えたくないならば、こちらに有利な講和をしろと言うのか)
屈完は彼の言葉を聞いて、そのように思った。
(ここで答え方を間違えば、戦になるな)
彼は覚悟を決めた。
「あなた様が徳をもって、諸侯を従えるのならば服さぬ者はいないでしょう。されど、武力によって従えようとするならば、我が国は方城を城壁とし、漢水を堀としましょう。そうなれば、例えあなた様の兵が多くとも役には立たないでしょう」
彼の言葉を聞き、桓公はむっとした表情を浮かべた。彼の言葉は言い換えれば、楚が本気で戦えば勝てると言っているようなものである。
(徳は武に勝るか……)
桓公は彼の言った『徳をもって、諸侯を従えるのならば服さぬ者はいない』の部分を思いながら、管仲にも同じようなことを言われたのを言った。
(賢人の言葉とは共通することがあるのか……)
このような賢人のいる国は侮れない。
「屈完殿。あなたの言葉は見事である。もし、あなたが講和に応じれば我らは退くとしよう」
(これが斉君か……)
彼は桓公の打って変わった態度を見て、驚いた。そして、これが覇者と言われる男かと思った。
「感謝致します」
感動に包まれながら、彼は言った。
こうして、斉の桓公と屈原を代表として、中原諸侯と楚との間に講和が結ばれた。
屈完が帰国すると、成王は彼を褒め称えた。