志の大きさ
夏、冬に積もっていた雪はすっかりと溶けたこの季節。荀息が晋の献公に進言した。
「虢を攻めるべきです」
「虢を攻めるとお主は言うが我が国と虢には虞がある。我々が虢を攻めるには虞を通らなければならない」
「承知しています」
「ならば、お主はどのように虞に道を借りるとういうのだ?」
古の時代から、他国に自国の道を貸すというのは聞いたことがない。それだけ、道を貸すという行為は国を危機に陥させる行為である。そのため簡単に許すだろうか?
「虞に屈地の馬と垂棘の璧を与えることで道を借ります」
「それらは私の宝だが?」
「もしも虞の道を借りることができれば、外府(外の倉庫)で一時的に宝物を保管するようなものです」
彼の策は面白いと思ったが、はたして、その策が成功するかというと疑問に思った献公は問うた。
「虞には賢臣・宮之奇がいる」
そのことは荀息もそれは理解している。
「大丈夫です。宮之奇は惰弱なので主に対し、強く諫めることができない人物です。また、彼は幼い頃より、虞君の傍で育ったため、関係が親しすぎます。例え諫言しても虞君は聞き入れないでしょう」
君主と臣下には距離感というものがある。近すぎれば、馴れ合ってしまい。諌めても聞き入れなくなることが起きるものである。
親しき仲にも礼儀という名の距離感は必要なのだ。
「良かろう。やってみよ」
「感謝致します」
荀息は虞に向かった。
「晋の使者が何のようですかな?」
虞君が尋ねると荀息は答えた。
「以前、冀が無道にも、顛軨の峠を通って、虞の鄍邑の三門を攻撃した際、我が国は貴国のために冀を討伐しました。今、虢が無道にも、塁壁(出城)を築き、我が国の南境を侵しました。虢討伐のために道を貸していただきたいのです」
彼はそう言うと、屈地の馬と垂棘の璧を献上した。
虞君はこれを大層喜ぶと道を貸すことに同意し、先導まで用意すると言った。
荀息は感謝の意を表すと、密かに笑みを浮かべた。
彼が下がった後、虞君と彼の話を聞いていた宮之奇が諌めた。
「他国に安易に道を貸すなど断じてなりません。今からでも遅くはありません。拒否するべきです」
「別に構わぬだろう。道を借すぐらいは良かろう」
「なりません。君は道を貸すことで不利益を被ることになります」
彼は散々諌めたが、虞君は聞く耳を持つことはなかった。
それをじっと見ていた男がいる。男の名は百里奚という。
「賢臣と名高い宮之奇殿が諫められないのでは、私が諌めても無理であろう」
彼はため息をつくと肩を落として、その場を立ち去った。
この百里奚という男は少し変わった経歴を持っている。
彼の出身地は楚、または許と言われている。彼は斉に仕官するために斉に行った。そこで公孫無知に仕えようとして、友人の蹇叔に止められると次に周の子頽に仕えようとするも、これも蹇叔に止められた。
その後、虞に至って、彼は虞に仕えることになった。この時も蹇叔が止めたが彼はそれを振り切って、虞に仕えた。
ここで注目すべきは彼が仕えようとした公孫無知と子頽は乱を起こした人物であり、決して良質の人ではないことであり、また、その最後も碌な事になってない人物たちでもある。そう考えるとこの男の人を見る目は致命的なほど悪い。だが、彼は才能をもった人物ではある。
彼はふと、友人の言葉を思い出した。
(誠の志とはそう簡単に叶うものではないのだ。そして、君と私の志もまた、そういった志であるはずだ。それにも関わらず君は安易に己の主を選ぼうとし、満足しようとしている。考え直すべきだ)
(志か……)
自分にとっての志とはなんだったのだろう。彼は虞に仕えてからそう思うようになっていた。決して、虞で悪い扱いを受けているわけではない。だが、己の友の諌めの言葉を振り切ってまで虞に仕えたというのに満足することはなかった。
(私の志とは……名君の元で己の才を天下に示し、己の名を歴史に残すというものであったはず……)
しかし、今の自分はどうだろうか……虞君は決して、名君と言える人物ではなく、自分の才を示すこともできてない。
(だが、その志が苦しかった。何より……)
彼は宮中を出て、東の方角を見る。そして、かつて斉にいた時の光景を思い出す。
あの時、彼は己の才を示すために斉に趣き、公孫無知に仕えようとして、蹇叔に止められてからしばらくのことである。
彼と蹇叔の目の前を車が横切った。その車の主は管仲であった。
(車に乗る管仲を仰いでみた時、その男の大きさに驚いた……私と管仲の間に天地ほどの差を見た)
彼は管仲が目の前に横切った時、初めて挫折したのである。それ以来、己の持っていた志の大きさに彼は苦しんできたのである。
(もしかしたら、私はその苦しみから解放されたかっただけだったのかも知れない)
彼はそのように思いながら、宮中を後にした。
晋は虞に道を借りることができたため、軍を虢に向けて、出兵した。
軍を率いるのは荀息と里克である。
「まさか、本当に道を貸してくれるとはな」
里克は驚きと共に荀息の策に感嘆する。
「あれほど苦労したからな」
彼は里克にそう言った。
晋軍は虞の軍と合流すると、虢の下陽を攻めた。虢はまさか、晋が虞を通って、侵攻するとは思ってはいなかったため、虚を突かれた形となり、敗れ、下陽は陥落された。
下陽の地は黄河の北に位置する地であり、虢はこの戦で負けたことで黄河の南に移ることとなった。
献公はこの勝利を喜び、荀息の功績を称えた。そして、下陽に瑕父と呂甥を派遣し、ここを守らせた。
しかし、彼はこれだけで満足してはいない。
「次は虢を滅ぼして見せる」
彼はからからと笑った。