国の運命はこの掌の上に
一人の男を嵌めるためとはいえ、多くの時をかける必要がある。それをこの優施という男は誰よりも理解している。
彼がいる場所は晋の夫人・驪姫の寝室である。彼がここにいる理由はいつものように彼女と交わるためである。
「あなたの言う通り、君は申生を嫌い始めていますわ」
優施は己の前に裸体を露わにしている女を見ながら思う。
(今、自分は国君の妻を抱いている)
なんと甘美で背徳的な行為であろうか。しかし、彼は彼女との交わりによって得られる快楽よりも遥かに素晴らしい快楽を知っている。
(私は目の前の女を利用し、国を乱している)
その感覚はまるで国の支配者になったような感覚に陥いる。
(今、自分の掌の上に晋という国がある)
芸者に過ぎないはずだった男が今、こうして得られているこの感覚はなんと素晴らしい快楽だろうか。
「それでもたりません。次はこのようにしてください」
彼は彼女を抱き寄せると耳元で囁く。
「なるほど。流石ですわ」
彼女は笑みを浮かべ、彼の首に手を回すと唇を重ねる。彼はそれに答えながら、彼女を押し倒した。
翌日の夜遅く、驪姫は泣きながら献公の部屋に入って言った。
「太子には仁を好み、民を慈しんでいるようですが、これには目的があると聞きました。太子は君が私に惑わされ、必ず国を乱すと言っているのです。国益を口実に君を害すのではないかと心配です。君は健在であるうちにどのような手を打つつもりでしょうか。私を殺してください。たかが妾のために百姓を乱に遭遇させるようなことがあってはなりません」
「民に対し慈しみを与えることができるのに、父を愛さないことがあるか」
「それこそ私が恐れることです。人々が言うには、仁と忠であることとは違うとのことです。親しき人を愛することを仁といいますが、国を治める上で利があることも仁といいます。そのため民の長となる者は私親(個人的に親しい感情)を持たず、大衆と親しくしようとします。大衆の利となり百姓を和すことができるならば主君弑殺も恐れないのです。また、大衆のために私親を棄てれば大衆から歓迎されます。始めは弑殺の悪名を着るかもしれませんが、最後は美名で終わります。後善によって前悪を覆うためです。民は利を追求します。国君を殺して大衆を利するのなら、誰が弑殺を妨害するのでしょう。親しき人を殺しても他者の悪にならないなら、誰も彼から去りません。大衆は利と寵を得て、彼の志が達成することで喜びを得るのであれば、大衆は彼を支持します。惑わされない者はいないのです。例え君を愛したいと思っても、誰もこの誘惑から逃げることはできないのです。例えば、君が紂王とします。もし紂に良子がおり、先に紂を殺していたならば、紂の悪が世に知られることもなく、武王の手を借りず、子孫が廃されなく、祭祀は今も続いていたでしょう。そうなれば紂が善君だったのか暴君だったのか、私達には分からなくなったでしょう(父を殺すことによって後世の利益となることもあるのです)。君はこのようなことを考えたくないとお思いでしょうが、それでいいのでしょうか。大難が訪れてから憂慮しても手遅れではないでしょうか」
献公は恐れを抱き、言った。
「それではどうするべきだろうか?」
「君は引退して太子に位を譲るべきです。彼が政権を得て好きに振る舞える環境を得られれば、君を害そうとは思わないでしょう。よくお考えください。桓叔(成師)以来、誰が親族を愛してきたのでしょうか? 親族を愛さなかったため翼を併合することができたのです」
彼は少し、怒りながら言う。
「位を譲るなどできない。私は武と威により、諸侯に臨んできた。死ぬ前に位を失えば、武とはいえない。子を抑えれないようでは威ともいえない。私が位を譲れば、諸侯は関係を絶つだろう。そうなれば諸侯が我が国を害すことになる。位を失い国を害すようなことはできない。お前は心配するな。私が方法を考えよう」
「ならばこういうのはどうでしょうか? 皋落狄は朝晩、我が国境を侵し、田野で農牧ができない状態となっています。国の倉廩(倉庫)は元々満たされてない上に、このままでは国境が削られる恐れがあります。そこで、太子に討伐させてばどうでしょう。そうすれば太子と民衆の関係が堅固なものか確認できます。もし狄に勝利できないならば敗戦の罪を問いましょう。勝利すれば民衆を用いる力があるということなので、太子は更に貪欲になります。それから改めて対策を考えるとはどうでしょう。また、狄を破れば諸侯を驚かせ、国境を侵す者がいなくなります。食廩が満たされ四隣が服し、国境を安定させるという多くの利があり、しかも申生の様子を探ることもできます」
献公は彼女の進言に喜び、申生に皋落狄討伐を命じることにした。そんな献公を見て、彼女はにやりと笑った。
そのことを知った里克は諌めた。
「太子は宗廟と社稷の祭祀を奉じ、朝晩の主公の食事を見守るものです。故に冢子(太子)というのです。主公が国外で行動すれば太子は留守を守り、留守を守る者がいれば主公に従う。国君に従うことを撫軍、国内を守ることを監国と言うのが古に定められた制度であり、軍を率いる者は謀をめぐらし、軍を指揮しなければならないのです。これは主公と正卿の任務であり、太子の任務ではありません。軍は国命によって動きます。太子が命を発する時、主公の意見を仰いでいれば指揮官としての威厳を失います。しかし国君の意思に逆らい勝手に命を出せば不孝とされます。だから、後継ぎが師を率いないのです。主公がその任官の原則を棄て、太子が軍を率いても威厳がないという状況では役に立ちません。皋落狄は既に迎撃の準備をしていると聞きました。計画を中止するべきです」
「私には複数の子がいる。誰を後継にするかは決めてはいない」
この献公の言葉を聞き、彼は驚いた。つまり、申生は太子の座から外すと言ったも同然ではないか。しかし、彼はその動揺を抑えながら、献公の元から離れた。
その後、里克は申生に会った。申生は彼に問うた。
「私は太子の座を廃されるでしょうか?」
申生という人は聡い人である。しかしながらそれにも関わらず、己の命を軽視する人でもある。
(さて、どのように言うべきか)
彼は悩んだ。はっきりと献公の言葉を伝えるべきだろうか? それとも…‥
「主公は太子に曲沃の民を治め、軍を指揮することを命じています。これらがうまくいかないことを憂いており、なぜ廃位する必要があるのでしょうか? そもそも。子は己が不孝であることを恐れるものであり、後継者に立てられないことを恐れないものです。己の行いを正し、人を責めることがなければ、難から逃れることができます」
彼は申生にあなたはそのままであれば良いと言ったのである。彼にはどうしても献公の言葉を伝えることはできなかった。それが敬愛すべき申生という人に対する思いであったのであろう。
「あなたのお言葉、感謝到します」
申生は彼に拝礼した。そんな彼を見て、里克は後に献公の言葉を伝えておけば良かったのではないかと後悔することになる。