成風
紀元前660年
春は雪解けの季節、そのため軍を動かす季節でもある。虢公は軍を動かし、犬戎と戦い、渭汭で破った。
この戦い後、彼は夢を見る。その夢に神が現れた。
夢の中で顔に白い毛が生え、獰猛な虎のような爪を持った神が鉞を持ち、宗廟の西側の屋根の上に立っていた。虢公は恐怖を覚え、逃げ出した。すると神が言った。
「逃げてはならない。天帝(古代中国の神話における最高神)が我に命じた『晋に汝の門を襲わせよ』と」
その言葉を受け、虢公は神に稽首したところで目を覚ました。この夢にどのような意味があるのかを知りたくなった彼は史嚚を招き、この夢を占わせる。その結果、史嚚は言った。
「主君の言う通りならば夢に現れた神は蓐收(西方の神)といい、天上の刑神にあたる方です。天が定めたことはそれぞれの役割の神によって達成されます」
つまり、天帝は刑神に命じ、晋に虢を攻撃させる。という意味である。
しかしながらこの占いを戒めにせず、虢公は史嚚を捕え、国民にこの夢を祝賀させた。
これを知った虢の大夫・舟之僑は一族を集め言った。
「世の多くの君子(知識人)が虢はもうすぐ亡ぶだろうと言っているが、今、始めて私はその道理を知ることができた。主公は神の戒めを受けても尚、己を律することはなく、大国(晋)の侵攻を国民に祝わせた。これでは神より与えられるだろう罰を軽減できるわけがない。大国と小国の関係はこう言われている。『大国に道があらば、小国は大国に入る。これを服という。小国が驕慢ならば、大国が小国に入る。これを誅という』と、民は主公の強欲さを嫌っているためにその命令に従おうとはしない。今、主公はその夢を吉として祝っている。しかし、これではますます傲慢になるだろう。天は主公から鏡を奪い、己の姿を見せなくさせ、その欠点を増長させている。民が主公のあり方を嫌い、天は国君を惑す。大国が誅伐に来ても、主公の命令に従う者はなく。公族が衰弱すれば諸侯が遠のく。内外が親しくないにも関わらず、誰が援けるというのだ。このまま国が滅ぶのを待つのは忍びないことである」
舟之僑は一族を連れて虢から晋に出奔した。
魯で政変が起こり、慶父が正当なる後継者であった子般を殺し、魯の閔公を即位させたが、彼を廃そうとする者、慶父を除こうとするする者はいなかった。
理由としては閔公の母が正室であった哀姜の妹の子であり、斉との関係を重視することを考えると彼が魯の国君となることは悪いことではないのである。そのため慶父が実権を握っていても文句を言うものは多くなかった。特に魯の重臣である臧孫辰が何も言わないことも大きい。
そのためこのまま斉との関係を重視し、慶父が閔公を支え、魯の運営を行っていれば何ら問題は起こらず、かつて、隠公を殺した羽父のように生を全うしていたのではないだろうか。
それを誤らせたのは慶父の欲と哀姜の彼への愛である。
彼女は慶父との関係を一層深めているうちに彼を国君として、自分はその后になることを望むようになった。
彼女は彼に閔公を殺し、自分が国君となったらどうかと言った。元々、野心家である慶父は彼女の言葉を受け、彼は己の野心を大きくし、閔公を殺すことを考えた。
しかし、ただ単純に殺せば良いというものではないことは彼とて理解している。また、己が手にかけては外聞も悪い。そこでその実行人を用意する必要がある。
実行人に選ばれた男の名を卜齮という。彼は以前、閔公の傅(教育係)に自分の土地を奪われ、それを知りつつ閔公は止めようとはしなかった。そのため閔公を憎むようになった。
八月、閔公が宮殿の門を通ろうとした時、卜齮は彼を襲い、殺した。
慶父に勝手に擁立され、彼の野心によって殺された。あまりにも哀れな人である。決して性質の悪い人でもないだけに惜しいことだ。
「ついにこの時が来たか」
季友はこのことを知り、動いた。彼は成風と彼女の子である公子・申を連れ、邾に逃れた。
これは慶父による暗殺から逃れるためと陳との交渉を邪魔されないようにするためである。彼は陳の支援を受けることで魯で公子・申を立てることを考えていたのである。その交渉により、陳に移動した。
一方、閔公が亡くなり、慶父が国君になると思われていたが、実際は魯の人々がそれを非難し、抵抗していた。
「何故ここまで反対するのだ」
彼は政治というものを理解していない。閔公の時は斉との関係を強化できる存在であった。しかし、彼は哀姜と通じているとて、斉との関係を強化することはできないだろう。魯の人々はそう考えていた。
その空気を作っていたのは臧孫辰である。彼は斉との外交に力を尽くしてきた。そんな彼にとって、慶父の行為は容認できるものではない。
九月、魯の人々は慶父を謀殺しようとしたため、彼は恐れて莒に逃れた。哀姜は邾に逃れた。
季友は陳の支援の元、魯に戻り、公子・申を即位させた。これを僖公という。
季友、成風、臧孫辰は集まり、これからの魯について話し合った。
「臧孫辰殿には宰相の位に就任していただき、斉との関係強化に尽力していただきたい」
「承知した。斉との関係については私に任せてもらおう」
「後は、莒に逃れた慶父のことですが……如何いたしますか?」
「莒に賄賂を渡し、引渡しを要求すれば良い」
「人選はどうするかな」
「公子・魚は如何でしょう」
「あの者は慶父に近がったが……私情を挟まないだろう」
「では公子・魚を莒に送りましょう」
こうして、莒に公子・魚が送られた。
莒は彼に賄賂をもらい、慶父を捕らえ引き渡した。公子・魚は密という地で彼を殺そうとした。
「私とお前は親しくしていたではないか。それにも関わらず、私を殺すのか」
慶父は命乞いするが、
「国事の前に私情を挟むわけにはいかない」
彼は涙を流しながら拒否した。
その涙を見て、彼は助かる道はないことを悟り、自害した。
「慶父が死んだ。これで魯は安定するだろう」
「そうですね」
季友と成風の二人は並んで月を見ながら話す。
「あなたにはより良くしてもらった。感謝する」
「いえ、私はあなたを信じただけですので」
彼女のその言葉を聞き、彼は以前から疑問に思っていたことを聞いた。
「何故、私などを信じたのですか?」
彼女は季友が陳に出奔した時も付いてきた。その決断は用意ではなかったはずであろう。成風はじっと季友の目を見て、答えた。
「あなたには天命がある」
「天命……」
天命とは本来、天下に大業を行う人物に下るものであるはずだ。それを自分などに下るだろうか?
「あなたは産まれる前、『その名は『友』といい。君の傍に仕え、両社の間で公室を輔ける。季氏が亡べば魯は繁栄しない』、産まれた時は、「父のように貴く、国君のように敬われるだろう」と言われた。あなたに天命がある証拠でしょう」
そうだろうか? 自分もその話しは聞いたがそのようなことはないと考えていた。
「あなたは謙虚です。故に必ずあなたの子孫は栄華を誇ることでしょう。だから、私は一世一代の大博打に出たのです」
亡命する貴族に味方し、己の子を連れて行くといく決断は中々のものである。
「なるほど……あなたは私が見てきたどの女性よりも知恵と勇気を持っている」
彼は成風をそう称えた。