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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第三章 天下の主宰者
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晋の二軍

 しんには一軍(兵士12500人で一軍。小国は一軍であることが普通)しかなかったが献公けんこうは二軍に拡大させた。これは晋がそれだけの国力を有するようになったと考えて良く、また、それを誇示したいという献公の意思が見える。


 献公が上軍を率い、太子・申生しんせいが下軍の将として任命された。趙夙ちょうしゅくが献公の戎車(指揮用の戦車)を御し、畢万ひつまんが車右になった。


 国君が一軍を率いて、もう一軍を太子が率いる。一見、問題のなさそうなこの人事だが、ここに大きな問題があると感じた者がいた。士蔿しいである。彼は諸大夫たちに言った。


「太子とは国の継承者である。恭しく継承されることを待てば良く、官位は必要ない。されど、今、主公は太子に曲沃きょくよくの地を分け与え、官に就かせた(下軍の指揮官に任命されることは卿に任命することと同じ)。これは太子を国に継承者ではないとみなしたことになる。主公を諫めて意見を確かめなければならない」


 彼は献公の元に出向き、言った。


「太子を下軍の将に任命するのは相応しくありません。取り消すべきです」


「下軍とは上軍の補佐の役割である。私が上軍におり、申生が下軍で補佐をする。何ら問題はない」


「下は上の補佐にはなりません」


 献公がその理由を聞くと、彼は答えた。


「補佐とはという言葉に言い換えることができます。貳は人の体と同じです。上下左右は心と目によって動くため用いても体が疲れることはなく、体の利となります。左右の腕が交互に物を持ち挙げ、左右の足が交互に地を踏むことで心と目を助けるため、行動して物を操ることができるのです。されどもし、下が上を持ち、上が下を持てば、交互に動かすことができず心と目に背くことになります。これでは物を操ることができません。そのため古の軍には左右両軍を持ち、互いの不足を補うようにしていました。しかし、下が上を補佐するようになれば、下に不足が生まれてもすぐ補うことができず、下が失敗しても上は助けることができません。軍が動く時は鐘鼓や旗が必要としますが、編制を変えることでそれらを乱せば軍に隙が生まれます。隙ができれば敵の侵入を招き、敵が侵入すれば援けることもできません。敵が志を得れば我が国の憂いとなります。下軍が上軍を補佐する軍制では、小国を侵すことはできても大国を制することはできないでしょう」


 彼の弁論の上手さは申生が下軍を率いる問題を戦を行う上で問題が起きることを説明することで戦好きの献公に申生が下軍を率いる問題を言ったことであろう。だが……


「私が己の子の編制をしたのだ。汝が憂いることではない」


 彼は己の子に軍を任せているのだから問題ないと言い出した。彼にとってもはや申生は太子ではなく、複数いる子の一人でしかないと感じ始めている。


「太子は国の棟梁でございます。棟梁としての地位があるのにも関わらず、兵を指揮させるのは危険です」


「太子の重責は軍を率いることよりも重い。それを軽減させているだけである。危険ではあるかもしれないが大害はない。」


 献公にはもはや彼の言葉は届かなくなっていた。彼は退出してからこう言った。


「太子が即位為さることはないだろう。太子の制度を改めるだけで困難を考えることなく、重責を軽くするも危険を心配しようとしない。主君には既に別の考え(太子廃立)があるのだろう。例え太子が戦で勝ったとしても、それが原因で害されることになる。もし勝てなければ、その罪を問われるだろう。勝っても負けても禍から太子は逃れることはできない。勤勉に務めても尚、認められないくらいならば、逃げた方がましだ。そうすれば主公は望みを叶え、太子も死から遠ざかって美名を後世に残せるだろう。呉太伯(周王室の先祖・古公亶父ここうたんぽの長子で弟に位を譲って呉の長になったとされている人物)のようになってもいいではないか。諺にもある『心に傷が無ければ家が無くとも心配することはない』というではありませんか……」


 彼は涙を流した。自分の才を見出した敬愛するべき主が国が間違った道に行こうとしている。それを止めることのできない無力さに泣いた。


 これを聞いた申生は言った。


子輿しよ(士蔿のあざな)は私のために謀ってくれている。忠臣である。しかし人の子たる者、父の命に逆らうことを恐れ、名声を得られないことを恐れないという。また人の臣たる者、自らが勤勉ではないことを恐れ、俸禄を得られないことは恐れないという。私は能力もないにも関わらず、君に従う機会を得た。これ以上、何を望むだろうか。私の徳は呉太伯に遠く及ばないのだから」


 彼ほど父より与えられる仕打ちに対しこれほどの態度を持つことができるだろうか? 歴史には説明しずらい生き方、考え方をするものが多くいるがこのような人物はその中でも随一の奇妙な人である。






 献公と申生は軍を率いてこうかくといった小国を滅ぼした。


 このうち霍は申生によって占領された。しかし凱旋した申生には曲沃に城を築いて与えたが、彼に対する讒言はますます多くなることになる。


 霍との戦いで趙夙が将として功績を上げ、霍公・きゅうせいに出奔した。


 この年、晋に旱があったため卜ってみると『霍太山の祟り』と出た。そこで献公は趙夙を斉に派遣し、霍公を呼び戻し、霍公を霍国の主に戻し、霍太山の祭祀を行なわせると晋は豊作になった。


 献公は功績を認め、趙夙に耿の地を与え、大夫に任命した。

 

 また、耿との戦いで活躍した畢万には魏の地を与え、大夫に任命した。


 郭偃かくえんはそのことを知ると言った。


「畢万の子孫は大きくなるだろう。万は満たされた数を表す字だ。魏は高大な名を表している。彼に始めて与えられた賞賜が魏というのは、天の意思であろう。天子は兆民を治め、諸侯は万民を治める(民の数は兆民>万民)。名が大きく、数が満ちている。故に魏には多くの人が集まるだろう」


 畢万には逸話がある。以前、畢万が晋に仕えることを占った時のことである。しゅうの大夫・辛廖しんびょうが言った。


「これ以上の吉はありません。あなたの家は必ず繁栄するでしょう。人が集まり堅固であり、安定して武威がある。これは諸侯の卦です。公侯の子孫(これは畢万を指している。彼は周の文王の弟である畢公・こうの子孫で彼の子孫は国を失い夷狄や中原で庶民になっていた)は先祖の地位に戻ることができるでしょう」


 彼の子孫はこれを信じて、与えられた魏を氏とした。土地の名を氏にするのは珍しくなく、良くあることである。


 この戦に活躍した趙夙と畢万の子孫は大きく時代に関わっていくことになる。


 歴史から消えようとする者がいれば現れようとしている者もいる。これが歴史の可笑しさであろうか。

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