神が降りる
紀元前662年
春、魯が小穀に築城した。小穀は穀ともいい、斉の邑なのだが、斉の桓公が管仲のために穀に城を築かせたようだ。
夏、四年前、楚が鄭に侵攻したため、諸侯を集めた。その際、宋の桓公が斉に対し、先に会いたいと言ったため、斉の桓公と宋の桓公は梁丘の地で会見した。
この頃、虢の莘という地に神が降りたという報告が周にもたらされた。神が降りたというのは神自身が現れたということではなく、その地にいる巫に憑依したのである。
周の恵王は内史・過(内史は官名)に原因を問うた。すると彼はこう答えた。
「国が興る際に明神が降り、その徳を監視すると言います。また、国が亡ぶ際にも神が降り、その悪を観るそうです。そのため国というのは神を得て興り、神によってまた、亡ぶのです。虞(舜の国)、夏、商、周はそれぞれそれを経験しました」
恵王は虢に現れた神が何の神か問うと、彼は少し考えてから答えた。
「昔、先君・昭王は房国から房后を娶りましたが、丹朱(堯の子)のように徳に欠けておりました。そのため丹朱は房后の身を借り、穆王を産みました。これは神が周の子孫の前に現れ、禍福を操った一例です。また神というのは一カ所に降りると、遠くに遷らないとされています。此度の虢に降りた神も恐らく丹朱の神でしょう」
「誰がその神を受けることになるだろう」
神を受けるとは報いを受けると変えてもいいだろう。彼の言う通りならば、丹朱の神は国を亡ぼすことになるということである。その神が亡びをもたらす国とは何であろうか。
「神は虢の地に降りました。虢が受けることになるでしょう」
彼はなぜ虢なのかと問うと内史・過はこう言った。
「国に道があれば神を得て福に会う。淫(乱れている)ならば神を得て禍を受ける。今、まさに虢は荒淫であります。故に滅びないはずはなく、そのため神は虢に降りたのでしょう」
「私はどうすればいいのだろう」
「太宰(王卿または宰相。祭祀をつかさどる官のこと)に命じ、祝(太祝)、史(太史)と狸姓(丹朱の子孫の姓)を率いさせ、犧牲や穀物と玉帛を献上しましょう。神に何ら要求してはなりません。また、祭祀はその神にあった物を用いて行うべきです。神が到った日の祭物が、その神を祀るにおいて、もっともふさわしい祭物です(実は当時は十干によって祭りに用いる物が異なっており、例えば甲乙の日は青い玉と服を丙・丁の日は赤い玉と服等など)」
「虢はいつ亡ぶのだろうか」
「昔、堯は五年に一回国を巡行し、民に臨んだといいます。此度、現れたのはその堯の子です。神の力が発揮する上で、その数を超えることは恐らく無いでしょう。よって虢の亡びまで五年を超えることはないでしょう」
恵王は太宰の周公・忌父に傅氏(狸姓の子孫とされている。周代になって傅氏を名乗ったらしい)および祝と史を率いて犧牲と玉鬯(祭祀で用いる酒)を神に献上させた。
内史・過も太宰に従い、虢に入った。この時、虢公も虢国の祝(祝応)、史嚚を派遣し、神に土地を求めていた。
内史・過は帰国すると、恵王に報告した
「虢は必ず亡びるでしょう。神に対し。誠実に祭祀を行うどころか福を求めていました。神は必ず虢に禍をもたらします。また、虢公は民に親しむことがないのにも関わらず、民の力を用いようとしてます。虢の民は必ず離反するでしょう。誠心誠意をもって、神を祀ることを『禋』といい、仁愛によって民を守ることを『親』といいますが、今の虢公は百姓の財力を用い、己の私欲を満足させ、民に離反させ、神を怒らせて利を追求しようとしてます。虢は亡びます」
己の欲を満たそうとすれば、必ずその報いを受けるものである。
神は莘の地に六カ月いた。
虢公が祝応、宗区、史嚚を送って再び祭祀を行うと神は巫女を通じて、田土を虢に与えることを約束した。しかし史嚚は呟いた。
「虢は亡ぶ。国が興る時は民の声を聞き、亡ぶ時は神の声を聞くという。神は聡明正直かつ一心でありつつも人に合わせてその行いを変える。虢に足りないのは徳であるのに、主公は田土を得ようとしている。果たして、田土を得て何ができるというのだろう」
神の言葉というのは民の無言の声でもある。その考えは古の時代からある考えである。人の上に立つ者は下は民の声を聞き、上から神の声を聞くのが王、君という存在であるとされている。
その声が聞こえなくなった時、その国は滅ぶ。神が降りるというのはこういうことである。
虢公は正にその声が聞こえなくなった人物なのだ。