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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第一章 周王朝の失墜
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魯の恵公

紀元前729年


 宋の宣公(せんこう)は病になると、弟の()を招き、言った。


「父が死ねばその息子が継ぎ、兄が死ねば弟が継ぐと言う。これは世の中の常識である。私は弟のお前に地位を譲る」


 宋という国は周が倒した商王朝の遺民たちの国であり、商王朝は兄から弟への兄弟での王位継承がなされており、宣公はこれに倣い弟に継承しようとしたのだ。彼には与夷(よい)という太子がいたにも関わらず。


 和は再三これを辞退したが結局は宣公に押し切られる形で彼が亡くなると即位した。これを穆公(ぼくこう)と言う。


 彼は兄のこの行為をとても感動し、自分も兄のようにありたいと思った。






 紀元前727年


 鄭の京城の大叔たいしゅくこと(だん)は周辺地域に兄・荘公(そうこう)と自分の命令に従うように命令するようになった。そのため自分たちの国の主と段の二つの命令に従わなくてはいけなくなった国民はどちらに従えばわからず、混乱状態に陥っていた。


 これを憂いて公子・(りょ)こと子封(しほう)が荘公に諫言した。


「今、我が国では二つの命令が出されています。これは一国の中に二つの国があるようなものでございます。一国の中に二つの国があったはならず、許されることではございません。国君は如何なさるおつもりなのでしょうか、もし大叔に国をお渡しになさると言うのであれば、私はあちらに移りたいと思います。与えないのであれば早く討伐致しましょう。これ以上国民を動揺させてはいけません」


 荘公は子封の諫言を聞かず、


「気にしなくとも良い、段は自ずと自滅する」


 その後も段は荘公の治めている地域にまで手を出し、自分のものにするようになっていった。人々はその行いに顔をしかめつつ、何故主が彼を除かないのかと思っていた。そのため子封が再び諫言した。


「もうよろしいのではありませんか。これ以上、領地が増えると人望が大叔に集まるようになってしまいます」


「不義(ここでは主君への忠義)であり、不親(兄に親しまないこと)の者に人心が集まることは無い。そのような者がいくら領地を増やそうともやがて自滅する」


 荘公は取り合わない。子封は内心ため息をつき、荘公に拝礼してから荘公の部屋から出た。そんな彼に近づいたのは宰相の祭仲(さいちゅう)である。


「子封殿、どうであった」


「主君はお聞きにならない。宰相殿、あの方に何か動きはないか?」


 子封が尋ねたあの方とは荘公と段の母である武姜(ぶきょう)のことである。祭仲は彼女の周辺に間者を放っている。


「動きは今のところ無い。だが必ずや動きはあるはずだ」


「動き始めた時、主君は決断することができるだろうか?」


 子封は荘公の母・武姜への複雑な思いを知っている。そのためもし,武姜が段に協力する動きを見せた時迅速に動くことができるのだろうか。できなければ国の崩壊を招くかもしれない。それを彼は憂いているのだ。


「君は必ずや対処することができると信じるしかない」


 そう祭仲はそう言いつつも不安は隠せていない。彼らは不安を抱えながら別れた。







 紀元前724年


 曲沃きょくよく荘伯そうはくが翼を攻めて、孝候こうこうを殺した。しかし、翼の人々は彼を追い払い、孝候の息子である(げき)を立てた。これを鄂侯(がくごう)と言う。


 しかし、荘伯は諦めていない。


 紀元前723年


 曲沃の荘伯が前年に引き続き翼を攻めた。このことから曲沃の国力が以前よりも増していることが分かる。


 荘伯は翼を攻めたが公子・(ばん)に邪魔され、撤退した。


 「まだ、攻略できなくとも必ずや攻略してみせる」






 この年、魯の国君である恵公(けいこう)が亡くなった。


 恵公は国君としてはあまり良い君主ではなかった。


 宋の宣公の父・武公(ぶこう)の頃である。彼に一人の娘が産まれた。彼女は仲子ちゅうしと言い、彼女の手に魯の文字が浮かび上がっていた。それを見た周りの者は、


「この娘は魯に嫁ぐだろう」


 と言った。


 そして時が経ち、周りの者たちの言う通り仲子は魯の恵公の息子である息姑そくこに嫁ぐことになった。


 彼の容姿は良く、礼儀作法に何ら問題もなく恵公の息子達の中でも優秀な方であった。嫁ぐ相手としては最高に近い人物である。


(良かった……この方ならば虐げられることはないだろう)


 彼女は魯の文字が書かれた手を見て思った。しかし、運命の悪戯というのはあるもので、彼女は息姑に嫁ぐことはなかった。なんと義父になるはずの恵公の妻になったのである。


 何故と彼女は声を上げたくなったが、彼女は恵公に抱かれた。己が願わない者に嫁ぐ、それもまた、当時において珍しくないことではある。


 しかし、なぜこのような事態になったと言うと、彼女がまれに見る美貌の持ち主であったためである。そのため惚れてしまった恵公は我慢できず、息子から奪ってしまったのだ。


 このことが原因で宋との関係も悪くなり。それにより、黄という地で両国は兵を交えるほどであった。


 一方の仲子を父に奪われた息姑の怒りは図り知れないものだっただろう。だが彼はそれを表に出すのを我慢した。これにより親子の関係は冷え切ったが、そのまま時は過ぎた。


 彼女は恵公との間にいんという子が生まれ彼が太子になっていた。しかしながら恵公が亡くなった時点で允は幼過ぎた。


 これでは国を治めるには不十分であると考えた魯の大夫たちは、允が即位する年齢になるまでの間だけ年長者の息姑を立てて代わりに即位させて政務を行わせることにした。


 彼は当初こそ、驚き断ったが即位した。これを魯の隠公いんこうという。隠とは正式に即位していないことを示す。


 この即位の時、隠公と仲子は顔を合わせているはずだが彼らがお互いその時どう思っていたかは分からない。


 彼の即位したこの年の次の年紀元前722年を魯の隠公元年になる。国君の即位の翌年を元年とするのが当時のルールである。そして、この年から孔子(こうし)の「春秋」の記載が始まることになる。そのためこの年から春秋時代とする説もある。


 ここでなぜ孔子はこの隠公元年から記載を始めたのかという疑問が生まれる。孔子は周公旦(しゅうこうたん)を尊敬していたという。そのため幼い允の代わりに政務を行うことになった隠公をしゅう王朝初期の幼い成王(せいおう)を支えた周公旦と姿を重ねたのだろうか。だとすれば隠公は孔子に周公旦に次ぐ人物であると言われたも同然のことになるが果たして彼は周公旦に及んだかどうか……


 それは天のみが知る。



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