息嬀
北の晋に美女がいるが南にも美女がいる。その美女は年を得てもその美しさは決して、衰えていなかった。その美女の名は息嬀という。
彼女は楚の文王の夫人であり、夫の死去は宮中で静かに暮らしていた。そんな彼女を好色な目で見つめるものがいる。文王の弟で、令尹の子元である。彼は女性の好みは兄と似ており、彼もまた、彼女に惚れており、関係を持ちたいと考えていた。
そんな彼は彼女を誘惑するために宮殿の傍で館を建てて、万の舞を披露し誘った。
(嫌な男)
彼女はそのことを知り、彼を嫌悪した。彼女は決して文王を心の底から愛していたわけではない。だが、己の兄の妻を欲しがるとは何と浅ましいことか。
(まだ、あの方の方がましだわ)
文王のことを思い浮かべつつ、どうするか考えた。ここで変に拒絶すれば恨みを買うかもしれない。と聡い彼女は考えた。
(こういう男は自ずと自滅する)
そんな男の末路に巻き込まれたくない。ならば、あの男の自滅を早めるとしよう。
彼女は急に泣き始めた。周りの侍女はこれに驚き駆け寄る。もちろんこれは嘘泣きだが、彼女はこういう演技は上手い。
「先君がこの舞を挙行する時は、戦の準備のため。ところが今、令尹はこれを仇讎に対抗するために用いるわけではなく、未亡人足る私の傍で挙行するとは。可笑しくありませんか」
侍女を通じて、それを子元に知らせると彼は言った。
「夫人が仇敵を忘れていないにも関わらず、私は忘れていた」
その言葉もまた、侍女を通じて、彼女に知らされた。
「そうですか、下がっていいですよ」
侍女を下がらせると笑った。
「これであの男は戦を起こすでしょう」
秋、子元は車六百乗を率い、鄭を攻めた。闘御彊、闘梧、耿之不比が先陣を努め、闘班(闘御彊の子)、王孫游、王孫喜が殿を務める。
桔柣の門(遠郊の門)を攻め落とし、その勢いのまま全軍の戦車で鄭の純門(外城の門)に攻め入って逵市(大路の市)に至った。
この状況の中、鄭は奇策を使う。内側の門を閉じなかったのである。
「如何いたしますか」
闘御彊が聞いた。このまま攻め入るのは容易いことである。しかし、敵に対し門を開けるだろうか。罠の可能性もある。
子元は悩んだ。しかし、罠を警戒し。楚の言葉で命令を出して城から出て、郊外に陣幕を立てた。陣幕に戻った彼は言った。
「鄭には人材がいるようだ」
その後、彼の元に間諜がやって来て、報告した。
「報告します。鄭を救援するために斉、魯、宋が援軍を向かわせました」
流石に楚といえども鄭に加えて、三カ国を相手取るのはきつい。そのため子元は退却を命じた。楚は夜の内に退却した。
実はこの時、楚を恐れて、鄭は桐丘に遷ろうとしていた。つまり、後もう少しで楚は鄭の都を取れていたのである。
それを止めたのは鄭の間諜である。
「楚の陣営に烏だけがいます」
陣営に人がいれば烏だけがいるということはありえない。そのため鄭は桐丘に遷ることをやめた。物事は何事も表裏一体なのだろう。
さて、楚に帰還した子元が気を落としたということはなく、まるで大勝でもしたかのように戻ってきた。事実、この戦で楚が中原の真ん中に位置する鄭に攻め込んだのは楚の勢力がそこまで及ぶようになったということである。それに諸侯たちは恐れた。故にとても早く鄭を救援するために駆けつけたのであろう。
このように楚の力を示しただけでも良いのである。そのため彼は責められることはなかった。そして、彼は調子に乗って、息嬀に会うために王宮に住むようになった。そんな彼を見て、彼女は。
(馬鹿な男)
戦でそこまで結果を出していないのにも関わらず、無断で王宮に住む。愚かとしかいいようがない。また、この男はそのことを諌めた闘射師こと闘廉を、令尹という立場を利用して捕らえ、手枷を付けた。
これに不快に思ったのは成王である。また、彼だけではなく、大夫たちも子元の行為に不快に思った。現在、彼は上にも下にも憎まれているのである。
(だが、まだ除くのは早い)
もっと、憎まれるようにすべきと考えるためである。
「王をこちらに招きなさい」
侍女に命じ、成王を連れてこさせた。
「母上、何の用でしょうか」
彼にとって、母という人は無口、無表情の人であり、怖い印象を持っている。また、兄を殺した後は自ら会おうとはしていなかった。そのため彼は母に呼び出され、緊張していた。
「あなたは令尹を除くことを考えていますか」
彼女は回りくどい言い方をせず言った。
「はい、考えています」
そのため彼も正直に答える。
「まだ、時期尚早です。おやめなさい」
「なぜですか」
(まさか母上は令尹と通じているのか)
通じているとは、男女の関係のことである。
「まだ、あの者への憎悪は満たされていません。時間を掛け、皆が皆憎んでいる状況にしなさい。そうすればあなたを非難するものはいないでしょう」
今、子元は上も下からも憎まれているがまだ令尹としての力を持ち、彼の一派はまだいる。彼らの心さえ離れた時、仕掛けるべきなのだ。
「それにあなたが用いたいと考えている者はまだ実績が少なすぎます。実績を積ませてから用いましょう」
成王には以前より、用いたい人物がいた。その人物を令尹にしたいとまで思っている。
「なるほど。母上の教えに従います」
「物事というものは早急に事を進めれば良いというものではありません。時として、静観するときも重要ですよ」
彼は母に拝礼した。