晋の暗雲
驪姫は優施の助言通り、申生に対し、親しく接しながらも献公には申生について讒言を繰り返した。そうしていくと次第に献公も申生に疑いを持つようになる。
それが続くと優施は寝室で共に横になっている彼女に囁く。
「次は公子たちを君より、遠ざけましょう」
「如何にしてそれを行うのですか」
「言葉というのは一人だけが言うよりも複数の人間が言うことで力を増すものです」
彼はそう言うと、彼女に耳打ちする。すると彼女は微笑む。
「なるほどやってみましょう」
献公には寵臣というべき者たちがいる。梁五と東関嬖五の二人である。彼らの性質を一言で言うのであれば阿諛の臣である。そんな彼らに驪姫は賄賂を渡して、献公に対して次のように言わせた。
「曲沃は君の宗邑(宗廟がある邑のこと)であり、蒲と(南北の)二屈は辺境の要地ですのでそれらの地に守り手を置くべきです。宗邑に守り手がいなければ民は畏敬せず、国境に守り手が居なければ戎の野心を抱きます。戎に野心が生まれれば民は政令を無視し、国の憂患の事態となります。もし太子が曲沃を、重耳と夷吾が蒲と屈の守り手となれば、民に威信を示し、戎を恐怖させ、君の功績を高めることができましょう」
更に彼らは続けて言った。
「あの狄の広漠な地が晋に帰すればそこに都邑を造ることができましょう。それにより晋を領地を拡大しましょう」
献公は彼らの進言を喜び、夏に申生を曲沃に、重耳を蒲に、夷吾を屈に住まわせた。他の公子たちも辺境に送り、残ったのは驪姫と妹とその子供である奚斉と卓子である。
梁五と東関嬖五は驪姫と組んで共に申生や諸公子たちの讒言を繰り返した。人々はそんな彼らを「二五耦」と称した。つまり、二人の五が晋室を耦耕して損なったという意味である。
そんな彼らの言葉により献公は申生や諸公子を嫌うようになり、申生の廃位を考え始めた。
これを知り、史蘇は大夫たちに言った。
「晋の乱の本がこうして生まれた。主公が驪姫を夫人に立てたその時、民衆の不満は頂点に達した。昔の聖王が起こした戦争は、民衆のために害を除くためだった。そのため民衆は喜んで聖王に従ったのだ。しかし今、主公は自分のために民衆を動かしている。民衆は外と戦っても利を得ることなく、内に対しては主公の貪欲さを憎む。このようにして、主公は上下の離心を招いている。そして、その驪姫は男児を産んだ。これは天命なのだろうか。天は晋に対する禍を大きくし、民は現状に不満を抱いている。これが乱の本になるだろう」
この史蘇の言葉を聞き、やがて献公が申生の廃位を考えていることを知り、里克、丕鄭、荀息が集まり、話し合った。
国の混乱を一番恐れている里克が言う。
「史蘇殿の言が的中しつつある。我らは如何にすべきか」
「君に仕えている以上、我々は力を尽くして政務に励み、君命には逆らわないものである。君が立てる者に臣足る者は従うだけだ。何を疑う必要があろうか」
そう言ったのは筍息である。彼は如何なる時でも臣は君に従うという考え方を持っている人物である。
それに対して、言を上げたのは丕鄭である。
「君に仕える者は義に従い、惑いに追従することはないものと聞く。惑いは民衆を誤らせ、民衆が誤れば徳を失う。徳を失うことは民衆を棄てることと同じことである。民衆に何故、主が必要なのか。それは義によって民衆を治める必要があるからだ。義は利を生み、利は民を豊かにする。なぜ民衆と共に居ながら、その民衆を棄てるのか。義を大切にするのであれば、太子を換えてはならない」
彼は申生の廃位をはっきりと非難したと言っていい。また、臣足る者は間違いを正すためには行動すべきと考えている。
最後に里克が言った。
「私には天に与えられた才も無ければ、見識もない。だが、惑いに従おうとは思わない。静観しよう」
ここで下手に動くべきではない。下手に動けば、国に大きな乱をもたらすかもしれないと彼は主張したのである。彼の意見により、彼らは別れた。
このように静観することを選んだ大夫は多かった。だがある日、曲沃で武公の蒸(冬祭)が行われることになった。しかし献公は病と称して出席せずに代わりに奚斉を出席させた。
国君が代理を立てる時は、大抵太子が代わりを務めるもの。しかし、ここではそれを覆す行いがなされた。これに思わず、申生に対し、声を上げたものがいる。その者の名を狐突という。彼は元々、晋よりも北の種族。狄の出身である。
「伯氏(長子のことここでは申生のことでもある)が出席しないにも関わらず、奚斉が廟にいる。貴方様は己の安泰を考えないのですか」
これは明らかに悪意がある行為である。また、その悪意が向けられているのは申生なのである。
「かつて羊舌大夫がこう言っていた。『君に仕える上では恭敬である必要があり、父に仕えるには孝順でなければならない』。君命を受け、動かないことを敬、父の意思に従うこれを孝という。君命に逆らえば不敬、勝手に行動しすれば不孝。これ以外に何を考える必要があるのだ。そもそも父の愛から離れたのに賞賜を得るのは不忠。人を廃し、己を立てるのは不貞。孝、敬、忠、貞は君父が肯定する品徳である。それらを棄て、己の地位を謀ることは、孝から遠く離れる行為。だから私はここに留まる」
申生という人は不思議な人で己の危機よりも父のことを第一に考えている。親に孝を尽くす。これは儒教が現れるよりも以前からある考え方である。しかし、ここまで極端なのは少ない。
「太子……」
彼はその言葉を聞いてからは黙り込んでしまった。
彼を説得できなかった狐突は廊下に出た。もう辺りは真っ暗である。しばらく歩いた先に郭偃が歩いてきた。彼が郭偃を横切ると
「太子が主の言葉を受け入れなかったのか」
顔をこちらに向けながらそう言う郭偃を狐突は無視するように歩き出す。
「待て、待て、私はお前に聞きたいことがあるのだ」
立ち去ろうとした狐突に郭偃がそのようなことを言ってきた。
「何ですか」
狐突は仕方ないとばかりに言う。
「今、大夫たちは晋に起こる乱を予感し、どの公子がそれを鎮めるのか。連中は考えている」
事実である。大夫たちはどの公子が生き残るのか、考えていた。そして、どの公子に自家の子を付けるべきか考えた。家を保ち、あばよくば寵愛を受け、もし支援した公子が国君となれば高位を得るかもしれないという打算もある。
「そんな中、最も人気のないのは公子・重耳である」
重耳の元には家を継ぐ資格を有しない。三男や四男などが多かった。はっきり言えば死んでも構わない子を重耳の元に行かせている。その一方、申生の元にはそういった存在は少ない。
「だが、主はそんな公子・重耳の元に二人の息子を送っているのはなぜだ」
狐突には狐毛、狐偃という二人の子供がいる。その二人を自分が仕えている申生ではなく、重耳に仕えさせている。
「天命があるからだ」
彼は少し、黙った後に一言言うと郭偃に背を向け、立ち去った。
「天命か……なるほど、天命か」
郭偃は空を見た。そこには大きな満月があった。