鄭の厲公
秋、鄭は洛邑の東に位置する成周を攻めた。そこで宝物を奪い、立ち去った。
鄭が成周を攻めたのは鄭に出奔している恵王がうるさいためである。
この宝物を取った時、不思議なことが起きた。宝物の一部が蜮という害虫になったというのである。この害虫は沙を放つことができ、それが中ったものは身体が動かなくなり、発熱するという。その症状になると体内から沙を取り出す必要がある。
そんなやつがいきなり出てきたため鄭の兵は怯えてしまったということもあり、鄭の厲公は軍を退かせたのである。
しかし、このように鄭が洛邑に迫る中、子頽と五大夫たちはそのようなことを知らないとでも言うのか、安楽とした生活を起こっていた。季節が変わり、冬になった頃、子頽は五大夫を宴に招いた。その宴で彼は彼らに楽を奏でてあらゆる舞を見せた。
それを知り、厲公は虢公・虢叔に会い言った。
「『時ならぬ哀楽には禍が到る』と言う。しかるに子頽はひたすら歌舞を楽しみ、禍難を喜んでいる。司寇が刑を執行した際は、主君は楽舞を廃して食事を減らすものだ。それなのに禍難の中にあって、喜ぶべきではない。そもそも王位簒奪よりも大きな禍はなく、禍を前に憂いを忘れれば、必ず大きな憂いが子頽に訪れるだろう。今こそ、王を我らの手で送り込みましょう」
「その通りだ」
彼らは恵王を洛邑に戻すことを話し合った。
紀元前673年
春、前年に引き続き、厲公と虢叔は弭で会見し、恵王を洛邑に入れる準備を話し合った。
夏、彼らは洛邑を攻めた。
厲公は以前と違い策を特に用いず、南門を恵王と共に攻めた。一方の虢叔は北門に周り、攻め立てた。
彼らの攻撃に晒され、洛邑は耐え切れなくなり、彼らの侵入を許した。
宮中に突撃した鄭と虢の兵たちは宮中の兵士たちを一方的に虐殺する中、原の荘公の兵と共に宮中の中を駆ける。
「子頽が逃走する前に殺さなくてはならない」
「主よ。こちらに子頽を見つけました」
「よくやった、向かうぞ」
原の荘公が向かうとそこには身体を震わせ、隠れている子頽がいた。
「そこに居られるのは子頽様で間違いはありませんかな」
「お前は、原君か」
彼は目の前に現れたのが原の荘公と知り、安心したように言った。荘公は周の卿である。彼なら王族である自分を殺さないと思ったからであろう。
「勘違いなさっているようでございますが私にとっての主はあなたではありませんので」
彼は剣を抜くと子頽を肩から斜めに切り捨てた。子頽の栄華もこうしてあっさりと終わった。
「主よ。五大夫たちは鄭と虢の兵にて殺されたとのことです」
「そうか。これで乱は鎮圧されたか」
彼は剣を鞘に収めながらほっとした表情で言った。
こうして、恵王は復位することができた。
この乱の鎮圧を祝う意味もあり、厲公は西門で宴を開き、恵王を招いた。
彼は恵王を招くためにあらゆる楽舞を催し、楽しませた。恵王は此度の功を称えて、彼に鄭の先君・武公の頃に渡した虎牢以東の地をあらため授けた。
この時、厲公は宴の中でちらりと目を虢公を見ると恵公に言った。
「以前、王が虢を巡幸した際、虢公に酒泉の地を与えたとか」
かつて、恵公が虢に巡幸に行った際、虢公によって、玤の地に王宮を立てたためそれを褒めて与えたのである。しかし、そのことを知っていた彼は先君に与えた地をあらためてもらっても嬉しくないと思ったのである。そのため宴の中、そのように言った。これはひとつ間違うと恵王の機嫌を損ねることになるが彼は宴の酒により、酔いが回っていた。
「そうであったかな。良し、鄭君には鞶鑑(帯の付いた鏡)を与えよう」
「感謝致します」
彼は恭しく拝礼する。それを見て、原の荘公は顔を歪めた。
「『時ならぬ哀楽には禍が到る』と鄭君は子頽と五大夫に対し、言ったそうだが鄭君もまた五大夫たちの悪い部分を真似ている。きっと災いがあるだろう」
荘公はそのように呟いた。
厲公は宴が終わり、翌日には鄭へと帰国した。
帰国した厲公には満足感があった。彼は恵王の復位を助け、信用を得た。これにより、きっと恵王は自分を覇者と認めると思ったのである。彼にとっては覇者になるための手段として、恵王の復位を助けたのである。
(後は同じように信用を受けている虢公さえ除けば。私が……)
彼は明るい未来に思い笑う。
(しかし、王もけちであるな。このような物しか寄越さないとは)
彼が欲しかったのは鞶鑑ではなく、土地である。
(まあ、流石は王室にあった物だよくよく見れば素晴らしい物である)
彼は鞶鑑を手に取り、眺める。すると、鞶鑑に異変が起こった。急に鞶鑑の形がまるで粘土のように形を変え始めたのである。
そのため彼は鞶鑑を手から離した。鞶鑑は音を立てて落ちた後も姿を変え続ける。そして、徐々にその形はある物へと変わり始めた。それを見て、彼は驚いた。
「蜮だと」
そう鞶鑑は蜮に姿を変えたのである。そんな彼に向かって、蜮は沙を放った。
彼はそれを避けきれず胸に中ると胸を掻き毟るように胸を抑えると倒れこみ、やがて身体が痙攣し始めた。
「まだ、このようなところで死ぬわけにはいかない。いかないのだ……」
手を伸ばしたまま彼は絶命した。
己の主に何らかの異変を感じた兵たちが来たがそこには絶命した厲公と鞶鑑だけであったと言う。
厲公の死後、後を継いだのは息子の文公である。
「父の死を諸侯に伝えよ」
「御意、しかし、死因は如何のように伝えるべきですか」
「病死で良い」
顔をしかめながら彼は言う。確かに父の死は不可解で、しかもその表情は病死の者が見せるようなものでは無かった。
(だが、そのまま伝えるわけにはいかない)
使者を周辺諸侯に出した後、彼は喪に服し始めた。
その数日後、使者が戻ってきた。
「無事に報告しました」
「よくやった」
「あの少し報告があります」
「何だ」
「実は……」
使者が話し始めると段々と文公は不快な表情を浮かべた。使者の話しは以下のようである。
恵王から厲公に鞶鑑を下賜したことを知った虢公は恵王に同じように何らかを下賜するべきと言ったのである。それに答え、恵王は彼に爵(酒器)を下賜した。
(鞶鑑よりも爵の方が高価でないか)
父の方が恵王の復位に協力したにも関わらず、虢公の方を評価するのはどういうことなのか。百歩譲って、虢公を評価しなくてはいけないとしても、父と差を付けるのはどうなのか。彼は恵王という人に恩知らずで公平な評価をする人ではないと感じた。そのため鄭は次第に周から離れていくことになる。