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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第三章 天下の主宰者
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晋の武公

 冬、周の単伯ぜんはくが斉の桓公かんこう、宋の桓公かんこう、衛の恵公けいこう、鄭の厲公れいこうけんで会盟を行った。宋が服従したためである。


 紀元前679年


 春、斉の桓公は前年に続き、宋の桓公、衛の恵公、鄭の厲公、陳の宣公せんこうと再び鄄で会盟を行った。


 周の単伯ではなく、斉の桓公がこの会盟を主導したこともあり、彼は諸侯から覇者として認められ、覇を唱え、諸侯の盟主となった。


 夏、そんな斉に文姜ぶんきょうが入った。


「今さら何の用だ」


「魯と斉の友好をより良くするための使者でしょう」


「そうだろうかあれがな」


 管仲かんちゅうの言葉を聞いて、斉の桓公は自分の髭を撫でる。彼にとっても文姜は妹である。しかし、彼女は兄・襄公じょうこうと関係を持ち、愛し合っていた人である。そんな彼女にとって自分は仇の一人ではないか。仇であろう自分たちに態々友好を深める使者としてやってきたのだろうか。


「取り敢えず迎えなければなりません」


「お前に任せる」


「御意」


 管仲は拝礼して答えた。



「遠路遥々ようこそ。文姜様」


「宰相殿、お出迎え感謝致します」


 文姜は笑顔で管仲に拝礼する。


(このような方であったかな)


 管仲は彼女を見てそう思った。彼の印象としては美しいものの無表情で人としての暖かさというものを見せない人という印象であった。だが、今の彼女からはそう言った感じを受けなかった。


(憑き物が落ちたようにも見える)


「この度、斉と魯との関係を友好を深めるため参りましたわ」


「左様でしたか」


 彼は部屋に彼女を案内し、侍女に茶を出させる。


「こちらに戻られはしないのですか」


 魯では肩の狭い思いをしているだろうと考え提案した。


「いえ、戻りませんわ」


 彼女は管仲の申せを断った。


「左様ですか」


「えぇ」


 ある意味彼女なりの兄を奪った斉に対する抵抗なのかもしれない。以後彼女は魯と斉の架け橋となっていく。



 秋、斉、宋、邾はげいが宋に背いたために攻めた。


 諸侯が郳が攻めている間に鄭が宋を攻めた。厲公は内心、斉の桓公を覇者と認めてはおらず、そのため認めている宋に兵を進めたのかもしれない。


 紀元前678年


 前年、攻められた宋を中心に斉、衛が鄭を攻めた。


 鄭の厲公は復位したことを楚に通告していなかった。この時代、国君が変わった際は諸侯に知らせるのが礼であった。


 そのため楚はそれに怒り、秋、鄭を攻めたうえれきにまで達した。


 このように周りから攻められている厲公は粛清に明け暮れていた。


 九月、彼は雍糾ようきゅうの乱に関わった。正確には祭仲さいちゅうに味方した公孫閼こうそんあつは処刑にし、強鉏きょうそを刖(足を切断する刑のこと)の刑に処した。


 因みに公孫閼こと子都しとは鄭の荘公そうこうの寵愛を受けた美男子であり、潁考叔えいこうしゅくを殺した人物である。どれだけ時を経とうとも報いを受ける時は受けるようである。


 これを恐れ、共叔段きょうしゅくだんの孫である公父定叔こうほていしゅくは衛に亡命した。


 厲公は三年後、言った。


「共叔段の子孫を絶えさせるわけにはいかない]


 その年の十月に帰国させた。十月にしたのは十は満数字だから縁起がいいという理由である。


 十二月、斉の桓公、魯の荘公、宋の桓公、陳の宣侯、衛の恵公、鄭の厲公、許君、滑君、滕君が幽の地で会盟し、鄭と講和した。



 その頃、北方ではある国が滅んだ。いや、正確に言えば統一されたと言った方が正しいだろうか。


 曲沃の武公ぶこうが翼の晋侯・びんを攻め滅ぼしたのである。祖父の代から続く戦いに決着がついた。


 彼はこの戦で手に入れた宝物を周の僖王きおうに献上した。王はこれをとても喜び、虢公かくこうを派遣し、彼に正式に一軍を指揮する権利を与え、晋侯とて認めた。以後彼を晋の武公とする。


 しかし、晋の武公の晋統一を散々阻んだ周が何故こうもあっさりと認めたのだろうか。


 その答えは晋の武公には後ろ盾がいるのである。その後ろ盾になっている人物を周の大夫・蔿国いこくと言う。


 以前、晋の武公は夷を攻めて、周の大夫・夷詭諸いきしょを捕らえたことがあった。蔿国は彼を救うために武公に謁見し、説得した。武公は彼の言葉に動かされ、夷詭諸を釈放した。


 しかし、夷詭諸は蔿国のおかげで釈放したのにも関わらず、彼に対し、返礼しなかった。そのため蔿国は激怒し、周で乱を起こした。周は彼の乱を鎮圧する力は無い。


 蔿国は武公に使者を出した。その使者に伝えさせた。


「私と共に夷を攻め、占領しよう」


 武公はこの提案に乗り、夷に侵攻し夷詭諸を殺した。それ以来、蔿国と武公は手を携えるようになったのである。


 この時、周公・忌父きほかくに出奔した。


 彼は翌年、呼び戻し、卿士に戻した。


 南でも一つ、国が滅んだ。楚がとうを滅ぼしたのである。


 弱国を滅ぼし、強国になっていく。強国になった国が衰退し、弱国になる。そんな乱世の理に従い各国は戦乱の中を生きていく。


 紀元前677年


 春、鄭が斉に入朝しなかったため、斉は鄭を攻め、鄭の厲公の子の叔詹しゅくせんを捕らえた。


 鄭の厲公は依然として斉の桓公を覇者とは認めず、逆らっているようである。確かに以前の鄭であれば覇者に相応しい、国であった。しかし、今の鄭はそのような力は無く。また、厲公は数多の臣を切り捨てている。そんな国では覇者にはなれないのである。


 因みに囚われの身であった叔詹は秋、斉から脱出し、魯に逃走する。


 夏、斉で不幸な事件が起きた。


 遂で名門の家柄だった因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏が斉の守備兵を宴に招いて、彼らを酔わせた後、殺したのである。


 この報を聞いて、桓公は涙を流した。


「武で得た土地は失い安いか」


 桓公はそう呟くと兵を遂に派遣し、因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏らを殺した。


 この年、二人の国主が死んだ。その一人は晋の武公である。遂に念願の晋統一から、早い死であった。晋の統一を果たすために祖父・成師せいしから彼に到るまで、彼の一族は戦いに身を投じて来た。正に乱世という時代を駆け抜けた人物であった。そんな人が世を去った。


 彼の後を継いだのは息子の詭諸きしょである。これを晋の献公けんこうという。彼こそ、晋を大いに発展させた名君にして、滅ぼしかけた男である。


 さて、もうひとりの国主は周の僖王である。彼は後世において、文王ぶんおう武王ぶおうの制度を勝手に改変し、華麗な装飾を作らせ、宮殿を増築させ、車馬が豪奢だった。そのため孔子が誹ったとされる人である。


 彼の後を継いだのは息子の恵王けいおうである。


 紀元前676年


 春、虢公かくこうと晋の献公は朝見した。彼らを恵王はもてなした。この時、恵王は彼らに酒を勧めることを許し、それぞれに玉五対、馬三頭を与えた。この行為は礼に外れるとして王は非難されることになる。


 虢公と晋の献公、そして、鄭の厲公れいこうは周の恵王の后をどの国から迎えるかを相談した。鄭の厲公は斉の桓公を覇者と認めず、己が覇者となるという野望を持っているそのため彼は周に近づくことで覇者となろうとして、周に近づいたのであろう。


 彼らの話し合いにより、周の卿士である原の荘公そうこうを陳に派遣し、后を招くことにした。この招かれた后を恵后けいごうという。


 恵后が招かれた頃、楚の文王は危機的状況に追い込まれていた。

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