歴史の深淵
早ければ明日に戦国時代を舞台にした『夢幻の果て』を公開すると思います。
杖をつきながら一人の男が歩いていた。その後ろから慌てて、別の男がやって来る。
「先生、こんな夜に何をなさっておいでですか」
「散歩をしている」
「夜は道が暗く散歩には適しませんよ。それに先生は目が見えないのですよ。危険すぎます」
杖をついて歩いていたのは、左丘明である。
彼は数日前、『春秋』の注釈を完成させていた。内容は魯の哀公の年までであり、孔丘が筆を折った後のことまで書かれている。
「目が見えなくとも道は見えている。心配するな」
「しかし」
左丘明は夜空を見上げた、
「星は綺麗か?」
「星ですか……ええ、今日はとても綺麗に見えます。まるで星が川に流れるようです」
「そうか。そうか」
左丘明の頭の中で、満天の夜空が広がる。そして、その一つ一つの星の輝きは人の姿となって見える。
「聖人の作った国が滅びかけたが、聖人の残された徳が国の滅びを止めた。されど国は一人で立つ力はなかった。それによって天下は大いに乱れた」
周王朝が力を無くしたことで、この乱世は始まった。
「乱れたこの秩序を回復しようと諸侯は盟主を立てることで、保とうとした」
周王に代わって、諸侯をまとめる覇者の時代。
「しかし、それも長くは続かず、南の楚の台頭もあり、国々は自国のことを考える時代になった」
諸国が互いを互いに牽制しあう時代。
「やがて国の権力は国君から卿、大夫、士へと下降を始めた。それを何とかしようと政治改革に乗り出したものたちも多かった」
名宰相の時代。左丘明は笑う。
「それでも乱世は続いた。礼は失われ、大地は荒れ果て、権力者たちは自分のことばかり考え、民は怨嗟の声を上げた。そして、願いながらも諦めた。かつての聖人の時代はもう戻ってこないのだと。そんな中、荒野となった大地に一人、志という旗を掲げた男がいた」
彼はかつての聖人の時代を取り戻そうとした。全ての者が礼を理解した時代にしようとした。
「だが、男のことを誰もが受け入れようとはしなかった。それでも男は諦めなかった」
男は旅をした。それでも受け入れられなければ、書を残し、自分の志を残そうとした。
「男には彼を慕う弟子たちがいた。男は弟子たちに志という旗を託すことにした。託す上で、彼は自分の志が正確に伝わらないことを恐れた」
左丘明はまた、笑う。
「そして、正確に伝えるため、男は私に志を託して世を去った。全く友人とはいえ、大変な仕事を押し付けられたものだ」
そうは言いながらも彼は楽しそうであった。
「この乱世はいつまで続くだろうか。何年経てば、この乱世は終わるのだろうな。十年だろうか。百年だろうか。二百年だろうか」
どれかにしろ乱世という暗い夜のような時代は続くだろう。もしそれが終わりを告げる時代になろうとも、何度も同じような乱世は訪れるかもしれない。いや乱世でなくとも自分の想像できない時代となっているかもしれない。
「それでもあやつみたいに何とかしようと立ち上がるものがいるかもしれない」
乱世を憂い、人々の苦しみを憂い、世界を変えたいと願う者が出てくるだろう。それが人だと彼は思う。
「しかし、そんな者たちが乱世の中を訳も分からず、飛び込めば、何もできずに終わるだろう。そんな彼等が、もしあれを読んで、その助けとなるというのならば、良いのだが……」
暗い夜道を歩く者たちに道を伝えるこの満天の空に広がる星々のように、あるいは大きな月のように。
「私は偉大な先人たちの言葉や行動を書くことで、それを示したかったのだが、どうだろうか」
「先生の書物は読み手に勇気とは何か、正義とは何か。乱世で生きるということは何かを教えることでしょう」
「だと良いのだがなあ」
左丘明は弟子の言葉に目を細める。
「さあ、先生。屋敷に戻りましょう。寒いでしょう」
「ああ、そうだな。そうしよう」
左丘明は屋敷に戻った。
左丘明という人物は『春秋左氏伝』、『国語』を書いた人物だと言われている。『春秋左氏伝』は孔子の書いた『春秋』の注釈書である。しかしながら儒教の始祖である孔子が書いた『春秋』に注釈を加えることができる人物でありながら、その生涯は謎に包まれている。
そもそも彼について具体的な記述に関して、ほとんどない。
『論語』においては公冶長篇にて一回、孔子によって褒められる記述があるのみであり、次に彼の名が出てくるのは『史記』である。その『史記』では、『春秋左氏伝』(正確には『左氏春秋』と書かれている)と『国語』の作者であることが書かれ、目が見えないことが述べられているのみである。
先秦文献では、『論語』のみが左丘明の存在を伝えているが、他の書物では左丘明の名が出てくるのは前漢以降であり、それらの書物においても『春秋左氏伝』、『国語』の作者であることが書かれるのみであり、彼の経歴などに関しては述べられていない。
そもそも孔子の『春秋』に注釈を加えることができるほどの人物でありながら、なぜ左丘明の名が出てこないのか。春秋戦国期において多くの諸子百家が現れたにも関わらず、彼の名は出てこない。
儒教であれば、彼の書いたものに対する批評もできたはずであり、その他の思想家たちであれば、儒教批判を行う上で、彼の『春秋左氏伝』や彼の言動などを利用することはできたはずである。
それでも彼の名だけは残って、彼の言葉や経歴といった生涯に関しては何一つ触れられることはなかった。その一つの要因として上げられるとすれば、孟子の存在が関係しているかもしれない。
彼は儒教が戦国時代の初期において衰退している際、儒教を再び盛んにした人物である。同時に彼によって魯の春秋は孔子の『春秋』であると歴史書としての位置づけを明確された。
そう彼は『春秋』の歴史書としての位置づけを始めて果たしたのである。しかし、彼は『春秋左氏伝』や元々あった魯の史官が書いたであろう魯の春秋も他国の春秋も認めなかった。
そこには『春秋左氏伝』も含まれていた可能性がある。つまり、彼によって左丘明は歴史の深淵の中に落とされてしまった可能性があるのである。
しかしながら『春秋左氏伝』と左丘明の名だけは残った。何故だろうか?
『春秋左氏伝』だけであれば、前漢の劉歆の存在が大きいだろう。彼が文献の整理をしている時に見つけ、『春秋左氏伝』の内容の整理を行ったことで、世に広められたのである。
この『春秋左氏伝』の名が良く出てくるのは後漢に入ってからである。しかし、その使われ方には特徴的なところがあった。
後漢王朝は一言で言えば、儒教国家であった。しかし、儒教国家であると同時に儒教の腐敗が見えた時代でもあった。そのため儒教の正しいあり方を模索しようとした者たちがおり、彼等によって『春秋左氏伝』の名が使われることが多かったのである。
つまり、『春秋左氏伝』は正しさの証明として、使われたのである。
そして、三国時代という乱世になると、皆、これを読むようになった。春秋時代における乱世のあり方から乱世で生き残る術を学び取ろうとしたのである。
西晋の時代に入ると、杜預によって、『春秋』と共に一つにされ、注釈が加えられ、『春秋左氏伝』の名は高まることになった。
さて、正しさの証明として使われたと述べたが、それは決して良いことだけに使われたわけではない。時に悪事を行った際の正当性の証明に使われることもあった。
これほど『春秋左氏伝』が活用されたにも関わらず、作者である左丘明のことは謎のままにされた。しかし皆、彼のことを無視にはできず、彼の名だけを書いた。
彼の生涯が不明であることの答えは歴史の深淵の中にあるのだろう。しかしながらその答えは歴史の深淵を覗き込んでも中々見えてこない。
左丘明だけではない。彼の他にも歴史の深淵の中に多くの者たちがいることだろう。もしかすれば、私たちの知っている人物たちよりも遥かに有能で、魅力的な人々もいるかもしれない。しかしながら私たちは歴史の深淵の中に至った人々のことを知ることができない。
それにも関わらず、実に皮肉なことにその歴史の深淵にいるであろう左丘明の『春秋左氏伝』によって私たち後世のものたちは春秋時代に起きた出来事に触れることができているのである。
彼によって私たちはどれほどの出来事や人物を知ることができただろうか。
そもそも人が歴史に名を残すには一体どういう条件が必要なのだろう。
勝者であることだろうか。しかし、敗者の中には勝者よりも煌びやかな輝きを持つ者もいる。
英雄であることだろうか。しかし、英雄とは思えない人の名まで歴史には描かれている。
多くの人々を幸福にすることだろうか。しかし、多くの人々を不幸にした者が名を残すことがある。
私たちの中にも誰が歴史に名を残し、残らないのか。
歴史の深淵というものはこういうものなのかもしれない。歴史の深淵のなんと深いことだろうか。魅力的なことだろうか。
私たちは今日も歴史の深淵を覗き込む。そして、その深淵に私たちは何を見るのだろうか……
ご愛読ありがとうございました。
物語を彩った春秋時代の人々、読者の皆様に多大なる感謝と敬意を込めて。
大田牛二