豫譲
雨が降り敷ける中、豫譲が歩いていた。
『お前の剣は誰よりも美しい剣だ。お前は生きよ。生きて、その美しい剣を残せ』
豫譲の主が残した言葉である。
「なぜですか。なぜ、そのようなことをおっしゃられたのですか」
彼は剣を抜き、地面に指す。
「なぜ、その時に共に死のうと言ってくだされなかったのか」
自分の剣を褒め、国士として優遇してくれた唯一の方であった。その人のためならば、死を恐れる共に死んだであろうに。
「なぜ、生きろとおっしゃられたのか」
彼の慟哭は雨の中、響いた。
三晋が智氏の地を分割した後、趙無恤を褒め称える声が溢れた。
何せ、あれほどの逆境から逆転したということも大きかった。しかし、そうやって褒め称える者たちは皆、彼に媚びて良い役職を得ようというものばかりであった。しかも誰もがかつては智瑤に媚びていたものばかりである。
智瑤を怨んでいた流石の趙無恤もこの状況には辟易していた。
(こういう連中ばかりだ)
そんなある日、趙無恤に献上したいものがあると言う男が謁見してきた。
男は頭蓋骨に漆を塗って飲器(酒器)にしたものを献上してきた。趙無恤は怪訝そうな表情を浮かべながら、
「その頭蓋骨はなんだ?」
と聞くと男は、
「智瑤の頭蓋骨でございます」
と答えた。趙無恤は一瞬、目を見開いたが直ぐに表情を戻し、
「ほほう。近くにもって参れ」
それを自身の近くに持ってこさせた。
「これは中々……」
彼は持ってこさせたそれを見ながら目を細める。
(一歩間違えれば、私もこうなっただろう)
あの戦はそれほどにぎりぎりの戦であった。同時にその戦を行った好敵手の姿に彼は哀れみを覚えた。
「後で褒美を取らせよう」
彼は男を下がらせると臣下を呼び言った。
「あの男を始末しておけ」
「はい」
臣下が去ると趙無恤は呟いた。
「実に不愉快だ」
「聞いたか」
「なんだ」
豫譲はどこに行くあてもなく歩いていると村人が話し込んでいるのを聞いた。
「趙氏の当主が智氏の頭蓋骨に漆を塗って飲器にしたそうだ」
「本当か」
「本当も本当、相当恨んでいたんだなあ」
(智瑤様……)
彼等の話しを聞いた彼に大きな悲しみと怒りを覚えた。彼は山中に入ると剣を抜いた。
「いくら恨みがあろうともこれほどの目にあの方は受けるべきであっただろうか」
智瑤は剣に映る自身の顔を見た。
『美しい』
己の主の最初の言葉。
『ご老人。美しいな。老いてなお、美しい剣技だ』
始めて最初に自分の剣技を褒めてくれた言葉。
『ああ、今後もあなたの美しい剣技を見ることができるのですな』
忠誠を誓った時の言葉。
(あなたは多くの言葉を私に下さりました)
あれほど自分のことを知ってくれた人がいただろうか。否、いなかった。
「士は己を知る者のため死に、女は己を悦ぶ者のため容貌を正すという。私は智氏の仇に報いなければならない」
(あなた様は生きろとおっしゃられました。されど、あなた様の恩義に身命を賭して報いなければならないのです)
彼は趙無恤に近づくため、姓名を変えて刑人(罪人。奴隷)となって匕首(短剣)を隠して趙氏の宮に入り込むことにした。
「この姿を見れば、智瑤様は美しくないとおしゃられるだろうが」
それでもここまでしなければ、近づくことはできない。
智瑤は厠の掃除(原文「塗厠」)を担当することになった。
(ここで趙無恤を殺す)
彼は暗殺の機会を待った。
ある日、趙無恤は厠に行こうとした。その時、心動(動悸)を感じた。
「うん?」
「どうかしましたか?」
近臣がそう聞くと彼は胸に手を当てながら、何でもないと言いつつも、
「厠に何か嫌な予感がする」
その時、近くに控えていた延陵王が立ち上がった。
「直ぐにでも調べましょう」
彼は臣下を率いて、厠を調べた。
「何も以上がありません」
「掃除をしている者を捕えよ」
延陵王がそう指示し、掃除している者たちが集められた。彼はその者たちの顔を眺めていくうちに、知っている顔を見た。
「お前、豫譲だな」
豫譲は潜ましていた短剣を取り出したが、彼の首元に延陵王の矛が突き出される。
「何のつもりでここに来た」
「主の仇に報いるつもりだ」
延陵王は彼を真っ直ぐ見据えながら、臣下に彼を縛るよう命じた。
趙無恤の近臣これを聞き、彼を殺すように勧めたが趙無恤は首を降り言った。
「智瑤は既に死に、後嗣がいるわけでもない。それにも関わらず、この者は仇に報いようとしている。真の義士というべき男であろう。私が注意して彼を避ければいいだけのことである」
こうして豫譲は釈放された。
「生きろというのか」
釈放された彼は山中に至り、剣を見つめる。
「天よ。これを恩情だと申されるのでしたら、感謝します。されど、私などに構わなくとも結構でございます」
豫譲は趙無恤の暗殺をあきらめず。全身に漆を塗って癩病を装い、髭や眉を剃って市で食物を乞う生活を送った。
妻が会っても豫譲だと気がつかないほどであったが、声を聞いてこう言った。
「状貌は私の夫に全く似ていないにも関わらず、声はとても似ています。これはどういうことでしょうか」
妻の言葉を聞いた豫譲はまだ、甘かったかと思い、炭を呑んで声を嗄れさせた。
彼の妻の話しを聞いて、豫譲を探していた友人が路上で、彼に気がつくと泣いて言った。
「あなたの道は困難で、しかも功を成すのが難しいものだ。あなたを志士というのならその通りであるものの、知士だというのなら間違いと言えるだろう。あなたの才をもって趙氏に仕えれば必ず近くに置かれる。そうなればあなたが欲することを実行するのも難しくはない。なぜ自分をこれほど苦しめる真似をするのか。このようにして仇に報いるのは、苦難が多すぎるのではないか」
友人の言葉に豫譲は笑って答えた。
「あなたの意見は、古くからの知人(智氏)のために新しい知人(趙氏)を裏切り、旧君(智氏)のために新君(趙氏)を襲うことであり、それに従えば、君臣の義を大いに乱すことになる。私がこうしているのは君臣の義を明らかにしたいためだ。委質(忠誠を誓うこと)して臣下になりながら、主君を殺す機会を求めたら二心を持つことになる。私がやろうとしているのは極めて困難なことである。しかし敢えてこうしているのは、後世、天下で人の臣になりながら二心を抱く者を辱めるためである」
彼の言葉を聞き、泣きながらお前のことは誰にも言わないと言ってから去った。
後日、趙無恤が外出した。そのことを友人が知らせた。
「友よ。感謝する」
豫譲は先回りして、橋の下に伏せて趙無恤が来るのを待った。
趙無恤が橋まで来た時、馬が突然驚いた。これに驚きながら趙無恤は、
「豫譲がいる」
と言った。その言葉を受け、延陵王は橋の周りを探った。そして、橋の下を見ると突然、豫譲が飛びかかった。
しかし、予想していた延陵王は矛で彼の剣を受け止める。
「豫譲。お前の剣をあの日、受けてから少しは成長したんだぜ」
「ふん、小僧が」
豫譲は彼に向かって、蹴りを入れ距離を離してから剣を突き出した。それを間一髪、避けて延陵王は以前よりも低く足元を素早く払った。しかし、それを豫譲は飛び上がり避ける。
その瞬間、彼の足に短剣が刺さった。延陵王が片手で、短剣を投げたのである。
短剣が刺さったことで、豫譲は着地できず、地面に倒れ込んだ。そして、その首元に延陵王の矛が当てられる。
「卑怯とは言わないんだな。あんた」
「武人足る者、主君の命を守れるのであればそれは名誉だ。何せ、この豫譲から己の主君を守ったのだからな。誇ると良い」
延陵王は彼の言葉に目を細めながら、彼を縛るよう臣下に伝えた。
豫譲が趙無恤の前に出されると彼は言った。
「あなたは范氏と中行氏にも仕えていたと聞いている。智瑤が范氏と中行氏を亡ぼしたにも関わらず、あなたはその仇に報いず、逆に智瑤に委質した。その智瑤も既に死んだが、なぜ私に対する仇だけがこれほどまで深いのか」
豫譲は言った。
「私は范氏と中行氏に仕えましたが、范氏と中行氏は衆人として私を遇しました。だから私も衆人として報いたのです。一方、智瑤様は国士として私を遇しました。だから私も国士として報いようとしているのです」
趙無恤は嘆息した。
「豫譲よ、あなたは彼のために行動し、既にその名を成すことができたのだ。私も一度はあなたを放ったのだから充分だろう。自分でも考えてみよ。私があなたを再び放つことはできない」
彼は兵に豫譲を包囲させた。
豫譲は笑って言った。
「明主とは人の義を覆い隠すことがなく、忠臣は名を成すためなら命を惜しまないものです。あなたは以前、寛容によって私を放ちました。天下はあなたの賢を称えております。よって今日、私が誅に伏すのは当然のことです。しかしあなたの衣服をいただいて剣で撃つことをお許しください。それができれば死んでも悔いはございません」
趙無恤は彼の義に感心し、剣を彼に返して家臣に命じて衣服を持って来させた。そして、服を持って直接、渡そうとしたのを延陵王は前を塞ぎ、首を振った。
それを見て趙無恤は延陵王に渡した。そして、彼は服を豫譲に投げ渡した。
豫譲は大きく息を吐いた。最後の望みとして、趙無恤が近づくことに期待したが、それもならなかった。彼は剣を抜いて三回跳ねてから剣で服を瞬時に切り刻み、天に向かって言った。
「やっと智瑤様のために仇を討つことができた」
それを見た趙無恤は思わず言った。
「美しい剣技だ」
その言葉に豫譲は笑った。
「私の剣技を美しいとおっしゃられたのは、あなたで二人目だ」
彼は言い終わると剣に伏せて自尽した。
趙無恤は感嘆の声を上げた。
「天下一の義士とは彼のことか」
趙の士はこの忠心に殉じた豫譲の話を聞いて皆、涙を流したという。
次回、最終回。




