張孟談
晋陽の戦いにおいて、軍に従っていた智氏の一族らも殺され、これ以前に智氏とは別族になっていた智果だけは助かった。
晋の智氏が亡んでから、趙氏、韓氏、魏氏の三氏によってその土地が分けられることになった。
段規が韓虔に言った。
「成皋の地を取るべきです」
「成皋は石溜の地(石ばかりの地)だ。私にとっては役に立たない場所であるぞ」
韓虔は旨みの無い土地だと言って彼の進言を退けようとした。段規は言った。
「それは違います。一里の地は千里の権(土地の支配権)を動かすことができると申します。これはその地に利があるからです。また、万人の衆は三軍を破ることができると申します。これは敵の不意を突くからです。主が私の言を用いれば、韓は鄭を取ることができましょう」
彼の言葉に従い、韓虔は成皋の地を取った。後に韓は鄭を占領することになる。この成皋から始まったことである。
かつて智瑤に長児子魚という士が仕えていた。しかし彼の生前に子魚は関係を絶って晋を去っていた。
三年後、東の越に向かおうとした時、子魚は智瑤が殺されたと聞いて御者に言った。
「車を返せ。私は彼のために死ぬ」
御者は止めた。
「あなたが智瑤との関係を絶って既に三年になっています。今、戻って彼のために死ねば、属(関係)を絶ちながら別れていなかったことになりますぞ」
長児子魚は首を振って言った。
「それは違う。仁者には余愛がなく、忠臣には余禄がないものだ」
仁者は全ての愛を人に与えるために愛が余らず、忠臣は余分な俸禄を受け取ることがないという意味である。
「私は智瑤の死を聞いて心が動かされた。心はまだ智瑤にあるのだ。余禄を私に加える者は今も活きている。私はそれに身を委ねるつもりである」
この自分に俸禄を与える者というのは生き残った者、つまり智氏を滅ぼした趙氏等の勢力を指す。
趙氏等から俸禄を受け取れば、忠臣ではなくなってしまうため、趙氏等に会って智瑤に対する忠心を示し、死ぬつもりだという意味である。
子魚は晋に戻って死んだ。
趙無恤が論功行賞を行った。
晋陽の戦いにおいて五人が功を立てた。しかし趙無恤は高共一人を賞の筆頭にした。群臣が驚き言った。
「晋陽の存続は、張孟談の功によるものです。しかし、彼には大功がありません。なぜ賞の筆頭とするのでしょうか?」
趙無恤はこう答えた。
「晋陽の包囲において、私の社稷も国家も危機に陥り、群臣には驕侮の心(軽蔑・軽視の心)が生まれた。しかし彼だけは君臣の礼を失わなかった。だから彼一人を筆頭にするのである」
これは戦に活躍した者だけを優遇しないという意思表示であろう。
また、この時、最大の功績を上げた張孟談は趙宗(趙氏の地位)を固め、封疆(領土)を拡大し、五百(五覇。春秋時代の覇者)の功績を発揚してから、趙鞅の教訓を趙無恤に語って言った。
「先の国君の政治にはこのような言葉がありました『五百(五覇)が天下を治めることができたのは、主が臣を制御し、私が主を制御することがなかったからである。よって、列侯(諸侯。国君)になるべき尊貴な者を相位(大臣)に置いてはならず、将軍以上の地位にある者を近大夫(親近の大夫)にしてはならない』今、私の名は既に広く知られ、身も尊くなり、権力は大きく民衆も服しております。私は功名を棄て、権勢から去って民衆から離れたいと思います」
臣下の座から退くということである。
趙無恤は悲しそうに言った。
「それは何故だ。主を補佐する者はその名が広く知られ、功が大きい者はその身が尊ばれ、国を任せられた者は権を大きくし、信忠を持つ者は衆が服すものだ。このようであるから先聖は国家をまとめ、社稷を安定させることができたのだ。あなたはなぜ去ろうとするのか?」
張孟談は首を振り言う。
「主公が話すのは功を成す時の美でございます。私が話しているのは、国を維持する時の道でございます。私は今まで事の成就を観察し、往古の故事を聞いてきましたが、天下の美とは共通しているものです。臣下と主の権力が等しくなるという美が存在したことはございません。前事を忘れなければ、後事の師とすることができます。主公がこのことを善く考えないのなら、私が力になることはできません」
張孟談は別れを決意した悲しみを抱いた。
趙無恤は張孟談を家に帰らせた。帰ってから張孟談は三日間家に籠って床に臥した。その後、人を送って趙無恤にこう問うた。
「晋陽の政を臣下(張孟談)が行わなかったらどうするつもりでしょうか」
趙無恤は、
「死僇(殺戮、死刑)しかない」
と答えた。張孟談は言った。
「左司馬(張孟談)は国家に仕えて社稷を安定させ、死から逃げることなくその忠を成就させました。主公は同意してくださいませ」
趙無恤は彼の意思は固いと思い、
「あなたは自分の事を行え」
と言って去ることに同意した。
張孟談はこうして去った。趙氏の危機を救いながらも自ら厚遇・厚賞を棄てたため彼は名声を得た。封地と政権を返し、尊貴な地位から離れ、負親の丘で農耕を始めた。
人々はこれを、
「賢人の行い、明主の政」
と称して讃えた。
智氏を滅ぼした趙無恤は晋の大夫・新稚狗(新稚が氏)に狄を討伐させ、左人と中人(どちらも地名)の二邑を取った。
遽人(駅卒)が報告に来た時、彼は食事をしようとしていた。戦勝の報告を聞いた趙無恤は恐れを顔にした。
侍者が問うた。
「狗(新稚狗)が大事を成したにも関わらず、主公に喜びの色がないのは何故でしょうか?」
趙無恤はこう答えた。
「徳が純(専一)ではないにも関わらず、福と禄が共にくることを幸(幸運)という。幸は本当の福ではない(徳がなければ本当の福は訪れない)。徳がなければ雍(福禄がもたらす和と楽)を得ることできず、雍は幸によってもたらされるものではない。だから恐れるのだ」
趙無恤は智氏を滅ぼしてから酒を飲み、五日五夜に渡って杯を置かなかった。
彼は侍者に言った。
「私は本物の邦士(国士。国の傑出した士)だ。五日五夜に渡って酒を飲んでも全く疲労を感じることがない」
すると優莫(俳優・芸人。莫は名)が言った。
「主公は頑張ってください。紂にまだ二日及びません。紂は七日七夜酒を飲まれました。主公は今日でまだ五日目です」
紂王と言えば、国を滅ぼした暗君の代名詞である。趙無恤は酔いながらも恐れて問うた。
「私は亡ぶのか?」
優莫はニコリと笑い言った。
「亡びません」
彼の言葉に対して趙無恤は問うた。
「紂に二日及ばないだけであるのに、それでも滅亡を待たないというのか?」
優莫はこう言った。
「桀・紂が亡びましたのは、湯王・武王に遭遇したからです。今の天下は全て桀であり、主公は紂でございます。桀と紂が世に並び立っているのですから、互いに亡ぼすことはないでしょう。しかしながら危険であることは確かです」
彼の言葉に趙無恤は笑った。
「なるほど皆、桀・紂の類か」
趙無恤は無茶な飲酒を控えるようになった。