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春秋遥かに  作者: 大田牛二
最終章 春秋終幕
551/557

この世で最も成長の遅い植物

 紀元前456年


 智瑤(ちようの勢いは止まることはなく、晋においての事実上の実力者は彼となっていた。


 彼はある日、壮麗な室(屋敷)を建てた。

 

 夕方、家臣の士茁が来ると、彼は言った。


「我が室は美しいだろう」


 彼は様々なものを美しいもので揃えるところがある。

 

 士茁が言った。


「美しいことは美しいのですが、私は恐れも抱いております」

 

 智瑤が、


「何を恐れている?」


 と問うと、士茁は答えた。


「私は筆を持って主に仕えています。志(記録。古書)にはこのような言葉がございます。『高山は峻原(高く険しい地)で草木が生えず、松柏が成長する地はいつも陰になっているために土が肥えない』今は土木(建築)が勝っていますが(立派な建物が建てられていますが)、私はこれが人を不安定にさせるのではないかと心配なのです」


 豪華な屋敷と人心を懐柔させることが両立できないものであると彼は言うのである。


 しかしながら彼の驕りは止まらない。


 彼は自分の他の三卿に領地を差し出させようとしたのである。先ず彼は韓氏に領地を譲るように要求した。


 韓虔は拒否しようとしたが、それを段規が諫めた。


「いけません。智瑤は利を好み、しかも剛腹な人物です。土地を求めて来たにも関わらず、これを拒否すれば、必ずや韓に対して兵を加えましょう。逆に韓が土地を与えれば彼はそれが当然なことだと思い、他の卿にも土地を要求することでしょう。その時、他国が要求を拒否したら、必ず兵を向けます。その間、韓は患難から逃れて事態の変化を待つことができます」

 

 韓虔は彼の意見に頷き、万家(万戸)の邑を智瑤に譲ることを約束した。

 

 喜んだ智瑤は魏氏にも土地を要求した。魏駒は拒否しようとすると、趙葭が諫めた。


「彼は韓にも土地を求め、韓は既に譲ったのです。魏にも要求したにも関わらず、魏が拒否すれば、魏は内部の強盛を過信して外に智瑤の怒りを買ってしまいます。彼は魏に対して兵を用いるでしょう。土地を譲るべきです」

 

 魏駒も、


「わかった」


 と言って万家の邑を智瑤に譲ることにした。

 

 智瑤は喜んだ。


「皆、よくわかっている」


 彼は自分のような者にならば、皆、喜んで土地を渡すものだと本気に思っている。土地を渡さないものは馬鹿だと思っている。


 智瑤の領地では特に問題が起きたことがない。そのため領地運営に自信があったというのも彼がそのように考える理由であろう。


 それ以上に彼の自尊心の現れでもある。


 彼は次に趙にも人を送った。










『無恤よ。この世でもっとも成長の遅く、最も枯れやすい植物を知っているか?』


 かつて父・趙鞅ちょうおうにそのようなことを言われたことがあった。趙無恤ちょうむじゅつは言葉の意味がわからなかった。


『わからぬか』


『はい』


『ふん、ならばもっと具体的に話そう。その植物は先ず、芽が出るのに、とても時間がかかる。一年経って、芽を出すことがあれば、何十年経っても芽を出すことはない』


 そんな植物があるのものかと趙無恤は思ったが、黙って聞いた。


『やっと芽を出したと思っても育てることを怠れば、直ぐに枯れてしまう。成長するめで、ここから先、何十年もかかることがあるのだ。それも一代、二代、三代、もっと世代が変わっても中々育たない』


 趙鞅は彼を横目で見ながらしゃべる。


『しかし、その植物が成長し、大木となれば、その恵みは数多の者に行き届き、如何なる暴風雨をも防ぐ大木となるのだ』


 父がそう語るのを趙無恤は不思議な感覚で聞いていた。


『その植物の名は……』


 昔、父が自分に聞かせた話を思い出しながら趙無恤は陳情の処理を行っていた。そこに臣下が報告に来た。


 智瑤から蔡(「藺」の誤りと言われている)と皋狼の地を譲るよう要求してきたというものであった。


(既に韓氏も魏氏も領地を渡したか)


 彼等の狙いはわかっている。智瑤からの驚異から逃れるためにその動向を見守っているのである。


 一時的な驚異を逃れるためならば、智瑤へ領地を差し出す方が良いだろう。


「そこまでしてまで、私はあの男の下にいなければならないのだろうか……」


 しかし、ここでの決断によって、父と兄が受け継がせたこの家の運命を決めてしまう。二人の思いの重さを知っているだけに彼は悩んだ。


「私はどうすれば、良いでしょうか」


 誰も答えてはくれない。自分で決めるしかないのである。頭に浮かぶのは、土地を譲る自分に対して、見下すような目を向ける智瑤の姿が思い浮かぶ。


「父上、兄上……」


 彼は決断した。






「断る。そうやつは言ったのだな」


 智瑤は苛立ちながら、臣下に言った。


「左様でございます」


「常々愚かな男だと思ってはいたが、ここまでとは思わなかった」


 それを聞きながら、智果ちかは、


(本当に愚かとだけでこの男を断じて良いのだろうか)


 と思った。


 趙無恤は韓氏と魏氏が領地を譲ったことによる狙いにも気づけないほどの無能でもなければ、無謀な男でもない。


 しかし、彼はただ一人、智氏に逆らった。


(舐めていると手痛い目に会いかねない)


 だが、趙氏との決戦は避けることはできない。誰よりも智瑤が望んでいるからである。

 

 彼の考え通り、智瑤は韓氏、魏氏と結んで趙氏への攻撃を行うことを宣言した。


「やつの醜い顔を首だけにして、美しく殺すことにしよう」


 智瑤はぎらぎらした目でそう言った。









 智瑤への領地割譲を拒否した趙無恤は智氏らによる侵攻が開始されることを聞いても驚くことはなかった。


「このような決定はしっかりと臣下とお話になるべきではなかったのですかな」


 張孟談がそう言うが、趙無恤は首を振った。


「私自身の考えで、決断するべきだと思ったからだ」


「重要な決断はしなければなりませんが、そこまで背負うことはないのですよ」


 彼の言葉に張孟談はため息をついた。


「それよりも今のことだ。智瑤という男は、他者に対して表面上は親しくしても、心中ではいつも見下している。彼は三回、使者を送って韓氏と魏氏は要求に応じたが、私だけが要求を拒否した。兵が私に向けられるのは間違いないとはいえ、私はどこにそれと相対するべきか?」

 

「かつて董安于とうあんうは先君の才臣として生涯にわたって晋陽を治めてこられ、また、尹鐸もその統治にならって行った政教(政道・教化)はまだ残っています。主は晋陽に赴かれるべきでしょう」


「晋陽か……良かろう。そこに行くとしよう」

 

 延陵王えんりょうおう(延陵生)に車騎を率いさせ、晋陽に先行させて、晋陽に向かった。

 

 晋陽に到着した趙無恤はこの地にいる女子供や老人たちなど、民衆の避難を行うように指示を出しながら、城郭や府庫(兵器や物資の倉庫)、倉廩(食糧の倉庫)を巡視した。


(城郭はしっかりとしているし、食料も沢山ある。ただ、矢が足らないな)

 

 趙無恤はこれらを見てから張孟談に言った。


「城郭は修築され、府庫も倉廩も満たされている。しかし矢が足りない。どうすれば良い?」

 

 張孟談はこう言った。


「董子が晋陽を治められた時、公宮の垣(壁)は全て狄・蒿・苫・楚(狄は「翟」と同じで雉の羽。蒿・苫・楚は植物)で作られ、その高さは一丈余もあると聞いております。主はそれを集めて使うべきです」

 

 趙無恤は公宮の壁を壊して矢を作った。箘簬(矢を作る良質の竹)よりも丈夫な矢ができた。


(想定されたものであったのだろうか?)


 彼はそう思いながら言った。


「矢は足りたが、銅が少ない。どうするべきだろうか?」

 

 張孟談は言った。


「董子が晋陽を治められた時、公宮の室(部屋)は全て煉銅の柱を使ったと聞いております。それらを集めて用いれば銅に余りができましょう」

 

 趙無恤は頷き、銅を集めさせた。


「これらは事前に用意されていたのだろうか?」


「そうだと思います」


「董安于も尹鐸も流石だ」


「ええ」


 そんなことを話しながら、広場に来るとそこには民衆が膝をつき、頭を下げていた。


「避難するよう命じていたはずだ。早く避難されよ」


「趙氏の当主様でございますか?」


 民衆の代表として一人の老人がそう言った。


「そうだ」


「ここがこれから戦場となるとお聞きしました。それは本当でしょうか」


「そうだ。だからこそ、皆に避難するように命じたのだ」


「我らは避難しません」


 老人の後ろから声が上がった。


「そうです。私たちも戦います」


「どうかお願いします」


 口々に共に戦いたいと民衆たちが言い始める。趙無恤は驚きながら言う。


「ここは戦場になるのだ。もしかすれば、私もここにいる者たち皆が、死んでしまう戦なのだぞ」


「だからこそ、私たちも戦いたいのです」


 老人は言った。


「この地に住まう者たちは皆、趙氏の歴代の当主の御恩を受けてきました。その御恩を今、お返ししたいのです」


「お前たちの気持ちはありがたい。されど」


 趙無恤はその先の言葉が言えなかった。ここにいる誰もが共に戦うという強い意思を持っていたのである。彼は膝をつき、彼等に向かって頭を下げた。


「今回の戦、私はなんとしても智氏に勝ちたいと思っている。汝らの力を、命を貸してくれ」


 晋陽が揺れた。趙無恤にはそう思えた。


 民衆が力強く立ち上がり、足を踏み鳴らし、拳を上げた。


「趙氏に、ご当主に勝利を」


 歓声が上がった。


 その歓声を見ながら趙無恤は思う。


「父上、これが父上のおっしゃられた植物なのですね」


 趙氏の歴代の当主が、趙氏が集めた臣下たちが、何代も掛けて、水を肥料を、丁寧に育てていったもの。


『この世で最も成長の遅い植物のその名は「徳」という』


 父の言ったその植物は正にこの晋陽の地で大木となり、ここに訪れようとしている驚異から守ろうとしている。


「なんと大きな大木でしょう。父上、兄上、先祖の方々。感謝致します」


 趙無恤は天に向かって、頭を下げた。



 この数日後、後世に言う。晋陽の戦いが始まった。



 

 




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