智瑤
この話から一気に趙氏と智氏の戦いへ行きます。
紀元前458年
この年、晋の出公が斉に出奔した。
何故、そのような事態になったかと言えば、当時、晋の領地は智瑤によって趙、韓、魏の三家と共にかつて范氏と中行氏が領有していた地を分割して自分の邑にしていた。
それを怒った出公は斉と魯に四卿(知・趙・韓・魏の四氏)の専横を訴え、討伐の兵を請うたのである。
ところが討伐を恐れた四卿は逆に出公を攻撃を仕掛けた。
出公は斉に出奔したが、道中で死んでしまった。
かつて、晋の昭公(出公の曽祖父)の少子・雍は戴子と号していた。戴子は忌を産み、忌は知伯と親交があった。しかし忌は早死にした。
出公の出奔後、智瑤は晋公族も併合して支配下に入れようと思っていたが、まだその時ではないと考えなおし、忌の子・驕(昭公の曾孫)を国君に選んだ。これを晋の哀公という。
しかしながら智瑤は范氏と中行氏の故地も領有し、晋国内で最強の勢力を擁するようになっており、晋の政治は全て彼によって決定され、哀公には発言権がなかった。
晋の実権を握っている智瑤が衛を攻撃しようとし、太子・顔(智瑤の太子)を衛に亡命させた。様子を探るためである。
いくら他国を調べるためとはいえ、自分の子をしかも後継者になるだろう子を出すというのが、彼の考え方の独特さであろう。
衛の大夫・南文子は衛の悼公に言った。
「太子・顔は君子であり、寵愛を受けている人物です。大罪がなければ出奔することはないでしょう。何か理由があるはずです」
衛は国境に人を送って警備の兵にこう伝えた。
「車が五乗を越える者を受け入れてはならない」
太子・顔の受け入れを拒否するという意味である。智瑤はそれを聞いて、舌打ちすると太子・顔を戻らせた。
しかし、諦めの悪い智瑤は衛に野馬四頭と白璧一つを贈った。衛を油断させるためである。
悼公はこれを受け取って喜び、群臣も祝賀した。しかし南文子だけは憂色を浮かべた。悼公が彼に問うた。
「国中が喜んでいるにも関わらず、あなたはなぜ憂色を浮かべているのか?」
南文子が言った。
「功績がないにも関わらず、賞され、力を労してもいないにも関わらず、礼遇されたのです。慎重になるべきです。野馬四頭と白璧一つは小国が大国に贈る礼です。しかしそれが大国から贈られてきたのです。国君はよくお考えになるべきです」
悼公はこの言葉を国境に伝えて警備を強化した。
衛に兵を進める準備をしていた智瑤は、国境の警備が厳しいのを知り、
「衛には賢人がいるようだ。私の謀が知られてしまった」
と言い、兵を還した。
中山に夙繇(「厹由」。または「仇首」)という国があった。智瑤は以前から夙繇を攻略したいと思っていたが、道がなかった。
そこで彼は大鐘を鋳て夙繇に贈ることにした。大鐘は横に並べた二台の車に乗せられた。しかし、道が無いため、これを送れないことを夙繇に伝えた。
夙繇君は大鐘を受け入れるため、崖を削り谷を埋めて道を造ることにした。すると赤章蔓枝がこれを諌めた。
「『詩(詳細不明)』にはこうあります。『準則があって始めて国を安定できるものだ』我が国がなぜ智瑤から礼物を得られるというのでしょうか。智瑤という人物は貪婪で信がございません。我が国を攻撃したいのに道がないから、大鐘を造り、車を並べて主公に送ろうとしているのです。主公が崖を削り谷を埋めて鐘を迎え入れれば、その後ろに続く兵をも招き入れることになりましょう」
夙繇君は彼の諫言を聞かないため、彼は再び諫めると、夙繇君はこう言った。
「大国が我が国と誼を通じようとしているのだ。汝がこれに逆らうのは不祥である。それ以上言うな」
赤章蔓枝はため息をつき言った。
「人臣でありながら不忠不貞であったら罪である。しかし忠貞であっても用いられなければ、遠くに去ってもいいはずだ」
彼は馬車の轂を削って去った。轂は車輪の中央にある支柱が突き出た部分である。これを削ったというのは、険しい山道を奔ったことを表す。
赤章蔓枝は衛(斉)に亡命した。その七日後、智瑤によって夙繇は滅ぼされた。
「私の代攻略は駄目で、これは良いのだな」
趙無恤は吐き捨てるように智瑤による夙繇の攻略の報告を聞いた。
「主公によって流された血は数人ですが、智瑤によって流された血は数え切れないほどです。主公とは違います」
そう言ったのは、趙氏の宰を勤めている張孟談である。
「血が流れた量で比べることはやめよう。そんなもので比べる方が間違っている」
趙無恤は目を細める。
「私は代を攻略するために姉上もその子供も殺したのだ。人を殺す残酷さは私も智瑤も変わらぬ。私が腹立たしいのは、やつは自分の残酷さを美学などいうものに昇華していることだ」
やつは自分の行いを全て美しいものだと考えている。美しい自分が行うことは全て美しいのだと彼は言うのである。
「あんなもののどこが美しいというのか。本当に美しいというのは……兄上のことだろう」
彼は兄・趙伯魯を思い出しながら、そう呟いた。