対立の始まり
紀元前464年
晋の智瑤が三卿と共に三年ぶりに鄭を攻撃した。
晋軍が到着する前に、鄭の駟弘が言った。
「智瑤は愎(頑固で剛情)で勝利を好む男だ。我々が早めに下手に出れば、彼は兵を退くだろう」
駟弘は城外の南里を守って晋軍を待った。
智瑤が南里に入ると、鄭軍は少し抵抗しただけで撤退した。晋軍は鄭軍を追いかけ、桔柣の門(鄭の城門)を攻め立てた。
鄭軍が晋の士・酅魁塁を捕虜にした。卿の地位を与えることを条件に帰順を誘ったが、酅魁塁は拒否した。鄭は酅魁塁の口を塞いで殺した。
「おのれ、鄭めが」
酅魁塁は智瑤の軍において勇猛な人物として知られており、智瑤は大いに憤った。晋軍が鄭の城門を攻撃する前に、智瑤は趙無恤を呼びつけ、
「城門に入れ」
と命じた。
(やれやれ感情的になっておられるようだ)
趙無恤はこう応えた。
「主がここにおられます」
主というのは智瑤を指している。元帥がここにいるのならば、自分が先に入ることはできないという意味である。
(力攻めを行うべきではない)
趙無恤はそう考え、鄭と交渉して土地を得るべきと提案した。城門を下手に攻めれば、被害が大きくなるからである。
しかし、智瑤は、
「悪(容貌が見にくい)なうえに勇気も無いというのに、なぜ趙氏の跡を継げたのか?」
と彼を罵った。智瑤は戦というものは兵同士でぶつかり合い、殺し合うことにこそ意味があると考えている。そのためそう言った詐術のような真似を好まなかった。
かつて趙無恤が代を攻略した時にそのやり方に反感を持ったこともあり、彼のことを嫌っていたというのもあった。
趙無恤はあまりにも真っ直ぐな悪感情の篭った言葉を向けられ、ムッとして言った。
「恥を忍ぶことができるからでしょう。趙宗(趙氏の宗族)を害すことはございませんからなあ」
「ふん、恥を忍ぶだけでは、意味がなかろう」
「恥を忍ぶことができずに人の上に立つこともできないのでは?」
智瑤は鼻で笑うと、
「容姿だけでなく、なんと心根もねじ曲がった男か。実に美しく無い」
と彼を蔑んだ。
「美しさは人の上で立つことと関係がないかと思いますがね」
「何を言うか。人に立つべきものは美しくなければならない。その美しさに触れ、人々は美しに倣うようになるのだ。そして、敵対する醜きものを駆除すれば、人もこの世も皆、美しくなることだろう」
(自分に酔っている)
趙無恤は目の前の男の言葉を聞きながらそう思った。
「醜き連中はそれを早く自覚し、自分から進んで死ぬべきなのだ。そうは思わないか」
智瑤は彼に微笑みを向ける。その笑みのなんと醜悪なことかと趙無恤は思った。
「自覚できないものはどうなされますか?」
「戦場で華麗に、美しく死を与える」
(こいつの、こいつの自分勝手な美学によってどれほどの人が殺されるのか)
趙無恤は目の前の男に唾を吐きつけたいのをぐっと我慢し、背を向けた。そして、呟いた。
「自分に都合の良い死を美しいと言っているだけではないか」
「何かおっしゃられましたかな?」
どうやら自分の言葉を聞こえなかったようである。そんな時、ふとある言葉が蘇った。
『謀に長けし者は礼を知らねばならぬ』
父・趙鞅の言葉である。
(なるほど、これはこの男のようになるなということか)
趙無恤はそう思った。そのまま彼は智瑤の陣幕を出た。
鄭の城門を攻め立てると鄭が講和の使者を出したため、鄭の九邑を晋に差し出すことで合意した。
討伐後、智瑤は衛を経由して帰国した。智瑤、韓虔(または韓虎。韓不信の孫。韓庚の子)、魏駒(魏曼多の子、または孫)の三卿が藍台(地名)で宴を開いた。
趙無恤は鄭討伐中に疲れたと言って、宴に参加しなかった。
宴の席で智瑤が韓虔に戯れ、韓氏の相である段規を辱めた。彼は鄭で謀反した共叔・段の子孫であることを言ったのである。
それを聞いた大夫・智伯国(智氏の一族。「智国」)が彼を諫めた。
「主は警戒しなければ必ず難を招きますぞ」
智瑤は言った。
「難とは私から人に発するものである。私が難を与えないのだから、誰も難を興すことはない」
智伯国はその言葉に首を振り言った。
「それは違います。郤氏には車轅の難がありました」
車轅の難というのは、郤犨が長魚矯と田地を争い、長魚矯の父母・妻子を捕えて車轅に縛りつけたことがあった。後に郤氏は長魚矯等によって滅ぼされることになったのである。
「趙氏には孟姫の讒がありました」
孟姫というのは趙武の母・趙荘姫のことである。趙嬰斉と趙荘姫が私通したため、趙同と趙括が趙嬰斉を追放した事件があった。後に趙荘姫が趙同と趙括を讒言したため、二人は晋の景公に殺されることになった。
「欒氏には叔祁の愬がありました」
愬というのは訴えの意味で、欒盈の母の欒祁は家人の州賓と私通し、欒氏の家産を浪費したため欒盈に討たれることを恐れて逆に欒盈を讒言した。欒盈は出奔することになり、後に滅ぼされた。
「范氏と中行氏には亟治の難がありました」
「亟治」は「函冶」とも書き、范皋夷の邑のことである。范皋夷は范吉射の側室の子であったが、寵を得ることがなかったため、乱を起こして范氏を乗っ取ろうとした。これが原因で范氏と中行氏は滅亡に追い込まれた。
「これらの事は主も全て知っておいでのはずです。『夏書(尚書・五子之歌)』にはこうあります『一人が三人に対して過ちを犯せば、(または頻繁に過ちを犯したが)、怨みが明らかになるのを待っていてはならない。怨みが見えないうちに考慮するべきである』また、『周書(尚書・康誥)』にはこうあります『大切なのは怨みの大小ではないのだ』君子とは小事にも気を配ることができるから、大患がないのです。今、主は一宴において人の君と相を辱め、しかも警戒せずに『誰も難を興さない』とおっしゃられております。これでいいはずがございません。誰でも人を喜ばせることができ、惧れさせることもできます。蜹・蟻・蜂・蠆といった小さな虫でも人を害すことができるのです。君・相ならなおさらではありませんか」
しかし智瑤は諫言を聞き入れなかった。
この年、越王・勾践が死んだ。子の鼫與(または「鹿郢」)が即位したと。
勾践は最後の言葉は、
「范蠡と一緒に政治を行いたかった」
というものであった。真実かどうかはわからない。しかし、范蠡の妻子を大切にしたのは、事実である。
春秋時代、最後の覇者が世を去った。