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春秋遥かに  作者: 大田牛二
最終章 春秋終幕
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国君と臣下の対立

 昨日、ファンタジーの短編を書いたのですが、評価ポイントが八ポイント入ってました。嬉しいと同時に、この作品だと始めて評価のポイントが入ったのは去年の三月だったなあとしみじみと思いました。


 ともかく、短編もこの作品にも評価頂きましてありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

 紀元前469年


 五月、魯の叔孫舒(叔孫州仇の子)が兵を率いて越の大夫・皋如と舌庸(または「后庸」)および宋の司城・楽茷(子潞)と会した。


 前年、出奔した衛の出公しゅつこうを帰国させることが今回の会の目的である。

 

 衛の公孫彌牟はこれを知り、自分自身で出公を迎え入れようとしたが、公文要が反対した。


「国君は愎(頑固で剛情)であり虐(暴虐)でもございますので、暫くしたら民を害すでしょう。そうなったら、民はあなたと和睦できなくなりますぞ」

 

 ここで下手に出公を受け入れたところで地獄しかないのだ。

 

 越軍は衛郊外の守備を破って略奪を行った。衛軍が城を出て戦ったが、敗北してしまった。越軍に従っている出公は褚師定子(褚師比の父)の墓を暴き、平荘(墓陵の名)の上で死体を焼いた。


 公孫彌牟が王孫斉(大夫・王孫賈の子)を送って個人的に皋如と話をさせた。王孫斉が言った。


「あなたは衛を滅ぼすおつもりか。国君を帰国させたいだけですか?」

 

 皋如は答えた。


「我が君の命は他にはない。衛君を入れるだけである」

 

 王孫斉の報告を聞いた公孫彌牟が群臣を集めて言った。


「国君は蛮夷を率いて国を討伐している。国は滅亡に瀕している。迎え入れようではないか」

 

 しかし群臣は、


「迎え入れるべきではない」


 と言って反対した。

 

 公孫彌牟は、


「私が国を出れば益になるというのならば、北門(越軍と出公は城南郊外にいる)から出ることを許してほしい」


 と言うと群臣は、


「国を出る必要はありません」


 と言った。


 公孫彌牟は頷いた。


(群臣が主公を支持しないのならば、大丈夫だ)

 

 公孫彌牟は越に厚い賄賂を贈ってから、外城と内城の門を大きく開き、出公を迎え入れることにした。但し、城壁には兵を配置して厳重な警備の態勢を見せた。

 

 結局、出公は恐れて入ることができず、越等の軍は賄賂を受け取ったため撤退を開始した。

 

 衛は悼公とうこうを立てた。悼公は荘公そうこうの庶弟にあたる公子・黚(または「虔」)である。公孫彌牟(南氏)が相になった。

 

 衛は城鉏を越に譲ることにした。城鉏には出公が住んでいる。出公は恐れ、


「これは期(衛の司徒)が招いたことだ」

 

 と言った。彼は司徒・期に直接手を下すことができないため、夫人(出公の正妻。司徒・期の姉。出公に同行している)に怨みがある宮人に命じて夫人を苦しめさせた。

 

 後日、司徒・期が越を聘問した。出公はそれを襲って幣物を奪った。

 

 しかし司徒・期が越王・勾践こうせんに報告したため、勾践は幣物を取り戻すように命じた。司徒・期は徒衆を率いて取り戻した。

 

 出公は怒って司徒・期の甥にあたる太子(出公と夫人の間にできた子)を殺した。

 

 彼が城鉏から使者を派遣し、子貢しこう(孔子の弟子)に弓を贈って問うた。


「私は国に帰ることができるだろうか?」

 

 子貢は稽首して弓を受け取ったが、


「私には分かりません」


 と答えた。しかしながら彼は公人ではなく私人の立場で使者と話をしてこう言った。


「昔、衛の成公せいこうが陳に出奔した時は、甯武子と孫荘子が宛濮で盟を結んで国君を迎え入れました。献公けんこうが斉に出奔した時は、子鮮と子展が夷儀で盟を結んで国君を迎え入れました。今、衛君はまた出奔されましたが、国内に献公の時のような親族がいるとは聞いたことがなく、国外に成公の時のような卿がいるとも聞いたことはございません。だから私にはどうして帰国できるのか分からないのです。『詩(周頌・烈文)』にはこうあります。『人がいることほど強いことはない。人がいれば四方が帰順させることができる』もしも人材がいれば、四方が主とします。国を得るのも難しくはありません」

 

 結局、出公は衛に戻ることはなく、越で世を去ることになった。






 ある日、宋の景公けいこうが工人に弓を作らせた。弓は九年経ってやっと完成した。景公が、


「なぜこれほど時間がかかったのか?」


 と問うと、工人はこう答えた。


「私が主公に再び会うことはありません。私の精はこの弓のために尽きたからです」

 

 工人は弓を献上して帰ってから三日後に死んだ。

 

 景公は虎圈の台に登り、弓を持って東に矢を射た。すると矢は西霜(または「孟霜」)の山を越え、彭城の東でやっと止まり、石梁(呂梁。地名)に落ちたが、残った勢いで矢羽まで地面に突き刺さった。

 

 そんな不思議な矢の逸話を持つ、景公には子ができず、公孫周こうそんしゅう(宋の元公げんこうの孫・子高しこう)の子・得(または「特」。後の昭公しょうこう)とその弟・啓を公宮で養っていた。二人のどちらを後継者にするか彼は決断ができていなかった。

 

 当時、皇緩が右師を、皇非我が大司馬を、皇懐(皇非我の従兄弟)が司徒を、霊不緩(公子・囲亀、字は子霊の後代)が左師を、楽茷(楽溷の子)が司城を、楽朱鉏(楽輓の子)が大司寇を勤めており、六卿三族(皇氏、霊氏、楽氏)が共同して政治を行っていた。

 

 政令は大尹(国君の寵臣。または外戚。名は不明)を通じて景公に伝えることになっていたが、大尹はしばしば景公に正確な報告をせず、自分の希望や欲求に基づいて君命と称した政令を発していた。


 そのため国人は大尹を憎むようになった。

 

 司城・楽茷が大尹を除こうとしたが、左師・霊不緩が止めた。


「そのままにして彼の罪を満たしてやれば良い。権勢が重いのに基礎(徳)がなかったら必ず倒れるからだ」

 

 十月、景公が空沢(空桐、空桐沢)で遊びに行くと、その数日後、景公は連中(館の名)で死んでしまった。

 

 大尹が空沢の甲士千人を指揮し、景公の死体を奉じて空桐(空沢)から国都の沃宮(宋の内宮)に入った。そこで六卿を招き、偽ってこう言った。


「下邑(郊外)で戦事が起きたと聞きました。国君は六子(六卿)と共に計を謀ろうと思っています」

 

 六卿が到着すると、大尹は甲士に命じて六卿を脅迫し、


「国君に疾病がございます。国君の寿命は長くありません。後嗣がはっきりしていませんが、国君が死んでも乱を起こさないことを誓ってください」


 と言った。

 

 六卿は大尹を信じて少寝(小寝。諸侯が朝廷から退いてから休憩する場所)の庭で盟を結び、


「公室に不利となることはしない」


 と誓った。

 

 大尹は啓を後継者に立て、景公の霊柩を大宮(祖廟)に置いた。

 

 三日後、国人が景公の死に気づいた。

 

 司城・楽茷が国人に宣言した。


「大尹は国君を惑わし、専権して利を貪ってきた。今、国君が疾(病)でも無いにも関わらず死に、死んでからそれを隠したのは、間違いなく大尹の罪である」

 

 この頃、景公の養子・得が夢を見た。後継者になった啓が頭を北にして寝ており、盧門(宋東城の南門)の外に出ていた。


 頭を北にするのは死体を置く時の方向で、門の外にいるのは国を失うという意味である。


 得は烏(または「鳥」)になってその上に棲み、咮(嘴)は南門に、尾は桐門(北門)にあった。即位して南面するという意味である。

 

 得は言った。


「私の夢は美しい。必ず国君に立つことができるだろう」

 

 大尹が知人と謀って言った。


「私は盟に加わっていないから放逐されるだろう。改めて盟を結ぼう」


 盟を結んだのは六卿だけで、大尹は参加しなかった。

 

 大尹は祝襄(祝は官名。襄は名)に載書(盟書)を作らせた。

 

 この時、六卿は唐盂(恐らく宋都の近郊)におり、協力を誓って盟を結ぼうとしたところだった。そこに祝襄が載書を持って到着し、皇非我に報告した。皇非我は楽茷、門尹・楽得、左師・霊不緩と謀って言った。


「民は我々に附いている。大尹を追放しようではないか」

 

 皇非我等は国都に帰って家衆に武器を配り、国中を巡行して言った。


「大尹は国君を惑わし、公室を虐げている。我々に協力する者は、国君を救う者である」

 

 人々は、


「協力します」


 と言って従った。

 

 これに対して大尹も国内を巡行して言った。


「戴氏と皇氏は公室に対して不利を行っている。私に協力する者は、富貴を手にすることができるぞ」

 

 人々は、


「無別」


 と言った。「無別」というのは「差がない。違いがない」という意味である。


 つまり、大尹は他者が公室に対して不利な事を行っていると非難しているが、大尹も公室に不利を行っているため変わりがない」ということである。

 

 戴氏と皇氏が宋公・啓を討とうとしたが、楽得が止めた。


「いけません。彼は公(景公)を虐げて(国君の位を奪って)罪を得ました。我々まで公(国君。啓)を討てば、我々の罪は更に大きくなるでしょう」

 

 戴氏と皇氏は国人の譴責が啓ではなく大尹に向かうようにしむけた。大尹は啓を連れて楚に奔った。

 

 こうして得が即位した。これを宋の昭公しょうこうという。司城・楽茷が上卿となり、


「三族が共に政事を行い、互いに害すことはない」


 と誓った





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