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春秋遥かに  作者: 大田牛二
最終章 春秋終幕
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越王・勾践

遅くなりました。

 八月、魯の叔青しゅくせいが越に行った。始めて越に派遣した使者である。

 

 越の諸鞅しょうが答礼として魯を聘問した。

 

 呉を平定した越王・勾践こうせんは兵を率いて淮水を北に渡って、斉・晋といった中原の諸侯と徐州で会した。また、貢物を周に贈って勤王の態度を示すなど、積極的に中原へ影響力を与えるようになった。

 

 周の元王げんおうは使者を送って彼に胙(祭祀で使う肉)を下賜し、伯(覇者)に任命した。

 

 勾践は淮水を南に渡ってから、淮北の地を楚に譲った。

 

 また、呉が宋から奪った地を宋に返し、魯には泗水以東の地百里四方を与えた。

 

 越が長江から淮東にかけて兵威を振るいつつも、そのように土地の返還を行ったため、諸侯は勾践に祝賀の使者を出した。

 

 勾践は霸王(伯王)を号した。


 また、彼は呉に大勝して九夷を兼併することになったが、勾践は南面して立ち(南面は天子・国君を意味する)、群臣に命じた。


「私の過失を聞きながら私に報告しなかった者は、その罪を正すことにするだろう」

 

 勾践は尊位に立ってからも自分の過失を聞けなくなること(諫言警告がなくなること)を警戒できたのである。

 

 そんなある日、彼は一つの訴訟を裁き、無辜の者に刑を用いてしまったことがあった。


 冤罪を知った勾践は龍淵(名剣の名)を持って自分の股(腿)を刺し、自分に対する罰を示した。血は足にまで流れたという。

 

 これを聞いた越の将兵は命をかけるようになった。



 

 


 紀元前471年


 四月、晋の出公しゅつこうが斉を討伐しようとして魯に出兵を求めた。

 

 晋が魯に言った。


「かつて、臧孫辰ぞうそんしんが楚軍を率いて斉を討ち、穀を取った。臧孫許ぞうそんきょも晋軍を率いて斉を討ち、汶陽を取った。我らは周公(魯の祖)の福を求め、臧氏の霊(福)を請いたいと願っている」

 

 この晋の要請に、魯の臧石ぞうせき(臧賓如の子)が兵を率いて晋軍と合流し、斉の廩丘を取った。

 

 同行していた晋の軍吏が兵器の修繕を命じ、進軍を続ける準備を行った。

 

 斉はこれに危機感を抱いたが、斉の大夫・萊章は言った。


「晋の国君は地位が下がっており、その政治は暴虐である。昨年、既に勝利したにも関わらず、今また都(邑)を奪った。天は晋に多くの物を与えている。これ以上進むことはできないだろう。晋が進軍するというのは言(大言。偽言)である。すぐに撤兵することになる」

 

 果たして、晋軍は引き上げた。

 

 晋は臧石に活きた牛を贈りました。晋の大史(太史)が魯に伝えた。


「我が君が軍中にいるため(国君も従軍している戦地なので)、牢礼(犠牲の礼)が基準に達していないことを謹んで謝罪致します」



 

 二年前に越が邾の隠公いんこうを帰国させたが、隠公の無道は改められず、越は隠公を捕えて帰り、公子・何(太子・革の弟)を立てたが、やはり無道だった。

 

 この無道というのが具体的に何だと言われると恐らく、越に朝貢しなかったことを指すのだと思われる。



 

 魯の公子・けい哀公あいこうの庶子)の母(妾)は哀公に寵愛されていた。哀公は夫人(正妻)に立てたいと思い、宗人(礼官)・釁夏に夫人に立てる時のしきたりを報告させた。しかし釁夏は、


「そのような礼はございません」


 と答えた。哀公は激怒し、


「汝は宗司であり、夫人を立てるのは国の大礼ではないか。なぜその礼が無いというのか」

 

 釁夏は答えた。


「周公と武公は薛から夫人を娶られ、孝公と恵公は商(宋)から娶られ、桓公以下は皆、斉から娶られました。このような礼ならございます。しかし妾を夫人にするというのなら、そのような礼はないと申し上げたのです」

 

 哀公は反対意見を聞かず、妾を夫人に立てて公子・荊を太子にした。魯の国人は哀公を嫌うようになった。


 閏十月、哀公が越に入った。

 

 哀公は越王・勾践の太子・適郢と関係を深めた。国での人気の無さを越王の力を傘になんとかしようとしたのである。


 適郢は娘を哀公に嫁がせて多くの地を与えようとした。

 

 哀公に同行していた公孫有山はそれを知ると、使者を送って季孫肥きそんひに伝えた。季孫肥は公室が復興して越と共に自分を討伐することを恐れた。


 そこで彼は、諸稽郢を通じて越に賄賂を贈ることにした。


 諸稽郢はそれを受け取った。太子ともあろうものが、他国に土地を与えてやるなどあってはならないと考えたためである。


 その結果、婚姻も土地の割譲も中止された。










 左丘明さきゅうめいは『春秋』への注釈を付ける作業を続けていた。


 そこに久しぶりに客人が来た。


子貢しこう。よく来たな」


 左丘明は彼を歓迎したが、子貢は元気がなさそうな声で答えるのみであった。


「どうした。元気が無いようだが?」


 彼が子貢に尋ねると子貢は俯きながら言った。


「私は孔丘こうきゅう先生の弟子失格かもしれません」


 いつも堂々としている男が弱気な発言をしているのを聞き、


(珍しい。この男でも落ち込むことがあるのか)


 と思った。


「どうしたというのか?」


「実は……」





 子貢は衛に仕官しながら、商売をし、各国を見て回っていた。立派な四頭の馬で馬車を率い、立派な服を着ながら旅をし、国を訪問すると各国は彼を大いに歓迎した。


 そんな彼が魯に来た。


(懐かしいものだ)


 孔丘の元で勉学に励んでいたことを思い出していた。彼は各国を回りながら、孔丘の名声を高めていた。


 例えば、陳子禽ちんしきんが子貢に問うた。


仲尼ちゅうじ(孔丘の字)はどうやって学んでこられたのでしょうか?」

 

 子貢はこう答えた。


「文王と武王の道はまだ果てておらず、人の世に伝わっております。賢者はその大きな道理を知り、不賢の者も小さい道理を知っておりますので、文王と武王の道はどこにでも存在しているのです。だから先生が学べないはずはなく、常師(特定の師)を必要とすることもないのです」

 

 陳子禽がまたしても問うた。


「孔丘がどこかの国に行けば、必ずや、その国の政治を把握できていたといいますが(その国の政事に関与したといいますが)、これは自ら教えを求めるからでしょうか。それとも人々が自然に教えるからですか?」

 

 子貢が言った。


「先生は温(温厚)・良(善良)・恭(恭敬)・倹(倹朴)・讓(謙譲)によって得ているのです。先生の求め方というのは、他者の求め方と異なるかもしれません。ですが、先生には五徳があるので、教えを求めなくても自然に人から与えられるのです」


 という風に彼は孔丘のことを人々に伝えていた。


 そんな彼はふと、ある人物のことを思った。


原憲げんけんはどうしているだろうか?」


 原憲は字は子思といい、孔丘の弟子であった。彼は元々魯の人ではなかったが、孔丘が死ぬと魯に住むようになった。


(様子を見に行ってみるか)


 彼は懐かしさを覚えながら、原憲に会うことにした。そこで彼は人生最大の悔いを残すことになる。





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