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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第二章 覇者の時代へ
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鮑叔

 魯に勝利した小白しょうはくは悠々と城に戻ってきた。


鮑叔ほうしゅくよこの度、私が斉の国君となり、魯にも勝つことができたのは貴公のおかげである。貴公を宰相に任命したい」


 それが今まで自分のために尽くしてくれた鮑叔に対して恩を返すことであった。


「嬉しきお言葉でございますが辞退させて戴きたい」


 だがこれを鮑叔は断った。


「何故だ貴公の他に社稷を安定させる臣は斉にはいないではないか。どうか国のためお受けして戴きたい」


 それでも彼は首を振り、小白の言葉を受けない。そして、頭を床に付け言う。


「主はやっと国君になれましたが、この鮑叔は凡庸な臣下に過ぎません。これ以上、主の尊貴な地位を高くすることはできません。私は既に飢えや寒さから免れており、主からの恩賜を充分いただいています。国を治めるのは私の得意とするところではありません。主がもし、斉、一国だけを治めようというのなら、高傒こうけいと私がいれば事足りましょう。しかし、もし主が覇道を欲するのなら、管仲かんちゅうを用いなければなりません。私には管仲に及ばないことが五つあります。一つ目は仁愛をもって、民を安んじさせること。二つ目は国を治めるにあたって礼を疎かにしないこと。三つ目は国への忠信によって民衆の信頼を得ること。四つ目は儀礼を制定し、四方に普及させること。五つ目は軍門で戦鼓を敲いて兵に勇を加えること。この五つにおいて、私は管仲に及びません。管仲は民の父母と言っても良く。子を治めるのに父母を棄ててはなりません。」


「管仲を用いろと貴公は言うのか」


 怒気を交えながら小白は言う。


「管仲は私を一度ならずも二度までも私を射殺そうとしたではないか」


「それは己の主君のためです。管仲を許し、用いれば主に対しても同じように主にお仕えするでしょう」


 管仲を庇う鮑叔に彼は


「貴公は管仲と親交があったという。それ故に庇っているのでは無いのか」


 だとすれば鮑叔は国の人事に私情を持ち込んでいることになる。


「親交故に推挙などしません。私は主が一国の主としてのみ満足なさるのであれば管仲を用いなくともよろしい。されど主はそれだけをお望みでは無く。数多の国を主導することをお望みであるはず。それであれば管仲を用いらなくてはなりません」


 何故この男は自分が宰相になることを断り、管仲を用いろと言うのか。小白にはわからない。人は常に他者よりも上になりたいという感情があるものだ。それにも関わらずこの男は管仲を己のいるはずだった高みへ持ち上げようとしている。


(私に同じことができるだろうか)


 小白は兄弟である公子・きゅうを蹴落とし、国君になった。血の繋がった兄弟であれ争う。血が繋がっていないような者であれば尚更争うだろう。それが人であろう。しかし、鮑叔は親友を争うどころか自分よりも高い地位を与えようとしている。そこには人を超えた美しさがある。そんな彼が今、自分の決断を待っている。


「どうすればいい」


 彼は訪ねた。


「魯に引き渡すよう言いましょう」


「魯には臧孫達ぞうそんたつがいる。彼が管仲を安々と渡してくれるだろうか」


「臧孫達は魯と斉の関係を重視している方です。こちらが『私の命に従わない臣が貴方の国にいる。群臣の前で誅殺したいので引き渡しを請う』と伝えればこちらに引き渡すでしょう」


 九月、小白は鮑叔の言葉を信じ、彼に軍を率いさせ、魯に向かわせた。



 魯では荘公そうこうに臧孫達が進言していた。


「管仲には大才があります。されど大事を成功させることができず、今は魯にいます。主は魯の政治を彼に任せるべきです。もし彼が拒否したら、斉と共に彼を憎んだと称し、彼を殺しましょう。斉が彼を用いれば更に斉は志を得て魯を悩ますことになります。殺さずに帰すよりも殺した方がましというもの。」


 荘公は先の戦といい魯の戦略が尽く失敗していることから管仲に才など無いと考えているため用いる気は更々無い。また斉に渡しても臧孫達の言うようなことにはならないとも考えている。だが管仲を殺すことには彼は同意した。


 そこに斉から鮑叔がやって来た。


「斉の大夫、鮑叔が魯君に拝謁致します」


「表を上げよ」


「感謝致します」


 鮑叔は荘公に小白の言葉を伝える。


「公子・糾は我が君の親族のため、自ら殺すのは忍びない。我が国に代わって貴国で誅殺して戴きたい。管仲と召忽しょうこつは我が国の仇であります。故に二人を群臣の前で処刑しますので斉に返していただきたい。されどこの要求に逆らうなら、魯を包囲することになりましょう」


 この言葉を聞いて荘公は悩んだ。


「良かろう」


 彼は許可した。管仲と召忽を斉で処刑するという言葉を聞いてこれを信じたのである。


「主よ管仲は天下の大才です。生かさずに殺すべきです」


「こちらで殺すのもあちらで殺すのも変わりない」


 臧孫達は荘公を諌めるが荘公は聞かない。更に鮑叔が言う。


「もし、生きて渡さなければ我らの申せに背いたと同じことだと思っていただきたい」


「承知した」


 荘公は若いこういう駆け引きに慣れてない。


 こうして魯は公子・糾を生竇の地で処刑し、召忽と管仲を斉に引き渡すことにした。



「魯は主を殺したか」


 召忽は悲しみを堪えながら言う。


「そして、我らは斉に引き渡され処刑される」


 管仲は悟ったように言う。


「いや、斉は我らを用いようとしているのだろう」


 そうだろうか我らは今の斉君と敵対した者である。それにも関わらず、用いるだろうか。それとも召忽は死を恐れるあまりにそう言っているのであろうか。


「恐れているのか」


 管仲はふとそう言った。すると召忽は答える。


「何を恐れるのだ。私が戦に破れた後、死ななかったのは、国が安定するのを見届けるためだった。今、国は既に定まった。汝と私は斉で用いられるだろう。しかし、私の主を殺されながらも私は用いられるというのは、私にとっては二重の侮辱だ。汝は生臣となれ。私は死臣となる。私が大国の政治を委ねられると知りながら自殺すれば、公子・糾にも忠誠を誓う死臣がいたと世間で評価されるだろう。また汝が斉君に覇を称えさせれば、公子・糾には優秀な生臣がいたと称されることだろう。死者は徳を成し、生者は功名を成す。生名と死名は両立できず、徳は虚構であってはならない。汝は努力せよ。死と生にはそれぞれの分があるものだ。」


 かっと目を開くと剣を抜き、彼は己の首に当て、すっと横に引いた。彼の首からは大量の血が噴き出す。


「召忽殿」


 管仲は倒れこむ召忽を受け止める。


「生きよ生きて、成し遂げよ」


 そう言って召忽は息を引き取った。人々は後にこの召忽の死は生者よりも賢明であったと言った。



 鮑叔は縄で縛られた管仲を受け取った。


「どういうことですかな」


「召忽殿は自害なさいました」


 魯の大夫が言うと鮑叔はため息を吐く。


(召忽殿は亡くなられたか)


 召忽という人の性格を知っている鮑叔は残念に思いながらも理解した。


「左様でありましたか。わかりました。この管仲だけ受け取ります」


 彼は管仲を受け取り、斉に戻った。



「管仲殿付きました」


 鮑叔は護送車から管仲を下ろす。


「鮑叔殿。早く処刑所へ案内せよ。私は逃げも隠れもしない」


「その前にこちらで沐浴していただきたい」


「沐浴だと処刑する者に沐浴など必要なかろう」


「必要なのですよ。あなたはある方と会わなくてはならない」


 鮑叔はそう言って、管仲に沐浴を三回行わせた。その後、管仲を公宮へ案内する。


 暫く進むと少し離れたところからやって来る者がいた。


「お前が管仲か」


 その声の主は小白であった。


「左様でございます」


 彼が答えると小白は彼の手を握る。


「よく来てくれた」


 あっと管仲は驚き感動した。これが公子・小白という人なのかと


「私は貴公を宰相に任じる。受けてくれるな」


 彼は管仲を公宮の奥へ案内し、言う。


「私は貴方様を殺そうとした者です。命を助けられただけでも良しとするのを宰相に任じるなど恐れ多いことです」


「関係無い。貴公にはこの天下を主導する上で民を安んじる才がある。それだけで良いのだ」


「なんと有り難い御言葉でしょうか。非才の身ながらお受け致します」


 以後、斉は管仲を宰相に任命され、高傒と管仲に登用された隰朋しゅうほうと共に国政に望み、小白の元、国を発展させていくことになる。


 そして、この小白こそ後の春秋五覇の一人にして、筆頭。斉の桓公かんこうその人である。


 桓公と管仲の二人を中心に天下は動き始める。


 一方、この二人を出会わせた鮑叔は歴史の表舞台から離れ、管仲の政治を裏で支えていくことになる。


 そんな鮑叔を後に孔子こうしは賢人と讃えた。

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