趙伯魯
遅れました
(後継に選ばれてから、あっという間だった)
趙無恤は空を眺めながら、今の自分が何故、後継者に選ばれたのかを天に問いかけていた。
(何故、父上は私を後継者にしたのか。兄上ような優しく、才覚のある人がいるのに)
兄である趙伯魯は身分の低い存在であった自分を大いに可愛がってくれた人である。
(この人が家を継いで、私は裏で支えられたら良い。そう考えて、学問を学んだ)
影となって少しでも兄を支えられたら良い。それだけが将来に対して希望であった。しかし、その思いは父によって砕かれ、兄は臣下として振舞うようになった。
(敬愛すべき兄を兄を呼べない。その悲しみが父にわかるだろうか。わかるはずがない)
昔から父・趙鞅のことを彼は嫌っていた。
(父上は自分に会うたびに不快な表情を浮かべ、発言をすれば怒鳴りつけ手を挙げることさえあった。それほど自分を嫌っていたではないか。それなのに、何故……)
彼からすれば父は最悪の人間であった。だが、皆にとっては違う。
趙無恤は兄である趙伯魯からいつも父からよく学べば、立派に家を継ぐことができると言われていた。また、趙鞅は臣下たちからは大いに慕われていた。
(何故、あれほど父はしたわれるのだろうか)
趙無恤とて、理由がわからないわけではない。趙鞅は常に臣下たちの高い能力を認め、信頼し公平を持って功績を認めている。そのため慕われているのだと。
それでも納得できるかは別問題であった。
趙鞅は最近、咳き込むようになった。身体も以前よりも重く思っている以上に動けない。しかしながらまだ、病に伏している場合でもなかった。
臣下たちの中であることで不満の声が上がっていたのである。
不満の内容は主に趙無恤に対してのものであった。気が弱く、当主にするべきではないとして、長子である趙伯魯を後継にすべきというものであった。
(臣下の中でそのようなことを言わない臣下は周舍ぐらいであった)
だが、その彼も世を去ったことが臣下たちの声は更に大きくなった理由の一つである。
(全くあやつの小賢しいのは、そうなるように振舞っているところだ)
趙鞅は昔から趙無恤のそういった部分が嫌いであった。
「父上」
部屋の外から趙伯魯が声をかけてきた。
「なんだ?」
「今、よろしいでしょうか?」
「構わん。入れ」
趙伯魯が入ってきた。
「父上」
「お前の自慢の弟の評判は悪いぞ」
趙鞅は笑いながら言った。
「皆、中々無恤のことを見抜くことができないようですね」
「どうかな。その程度なだけかもしれんぞ」
二人は互いに乾いた声で笑う。
「だが、臣下の不満が高まっていることは事実だ。さてどうしたものか……」
「その件について一つ策があります」
「ほう」
「まあ、少し荒療治ではございますがね」
趙伯魯は目を細めそう言った。
「どのような策だ」
「それは……」
彼は短剣を出した。
「それでどうする」
「こうするのです。父上」
趙伯魯はその短剣をそのまま首を掻っ切った。趙鞅は息子の行為にあっと驚き、硬直する。その間、趙伯魯の身体は倒れ、首からは赤い血が流れていく。
「何をしているか」
趙鞅は彼の身体に駆け寄り、血が流れてる首元を手を置き、止めようとする。
「父上……どうでしょう……これでどうにかなるかと……」
「しゃべるな」
趙伯魯の口からは血が溢れていく。
「父上、弟を……無恤をお願いします。父上が信じれば弟は必ずや答えましょう」
彼の身体は次第にその熱を失っていく。
「大丈夫です。必ずや無恤は趙氏を守り通すことでしょう……」
趙伯魯の目から光が消えた。
「馬鹿め……馬鹿め……」
趙鞅はそう呟きながら泣いた。
今、夢を見ている。
趙無恤はそう思った。目の前に兄の趙伯魯の葬儀が行われている。
なんと、馬鹿げた夢だろうか。彼はそう思った。いや、そう思いたかった。
葬儀に出席している者たちも自分と同じようなものだろう。それだけ兄は慕われていた。
「無恤よ。こちらに来い」
父が彼を呼んだ。
「はい」
行きたくはなかった。しかし、それを断るほどの気力もなかった。
二人は無言のまま部屋に入った。
「伯魯が死んだ」
「はい、あれほど元気であったというのに、何故……」
突然の病によって兄は命を失った。天はなんと非情なのだろうか。
趙鞅は暫く無言であった。
「伯魯は病死ではない」
「病死では……ない……」
趙無恤は父の言葉に驚く。
「どういうことですか……まさか……」
彼は父の服を掴み、迫った。
「父上……あなたが……」
手に力が込められ、爪が食い込み血が流れていく。
「お前がそんなだから死んだのだ」
趙鞅は冷たい目を趙無恤に向けながら言う。
「お前の兄は……お前をどんな時でも信じた。そして、お前はそれに応えようとしなかった。だから死んだ」
「私は……兄こそが相応しいと……」
趙無恤は父の服から手を離し、身体を離していく。
「そうやってお前は逃げてきた。その結果がこれだ」
趙鞅はそう言って、息子の襟元を掴んだ。
「お前が伯魯を殺したのだ」
趙無恤の目から涙が溢れていく。それを見た趙鞅は彼を地面に叩きつけるように離した。
「私の言いたいことは全て言った」
地面に塞ぎ込む趙無恤を横目で見ながら趙鞅は部屋を出た。
「主公様。趙伯魯様が亡くなられたことは趙氏にとって痛恨の極みというものです」
趙伯魯の葬儀から数日後、趙鞅の朝廷において鸞徼が同僚を引き連れそう言った。
「しかしながら伯魯様には、周様がおられます」
「何が言いたい」
「今からでも遅くはありません。伯魯様のお子でございます。周様を後継者に選ぶべきです」
(全く、呆れたものだ。伯魯の葬儀から数日しか経ってないというのに、このようなことを言ってくるとは)
目の前の連中のことを見下しながらも、ふと周舎がいないことを悲しんだ。彼ならこの場で反論するはずである。しかし、今、ここにはそのようなことを言うものはいない。
(難しいものだ)
その時、扉が勢いよく開いた。そして、扉から歩いてくるのは。
「無恤様」
趙無恤が歩いてくるのを見て、鸞徼を始め驚き、動揺する。
「確かに兄上の子を立てることは直系の血筋を守ることでもある。良いことを言うではないか」
彼は膝をつき、頭を下げる鸞徼にそう言った。
「しかし、兄上の子はまだ、若い。その点についてはどう思うかね」
趙無恤は鸞徼の顔を上げさせる。
「若くとも、直系の血筋です」
鸞徼は震えながら言った。目の前の男が今まで気の弱かった人物であるとは思えなかった。
「そうか……汝は兄上のことを大層、思っていたのだな」
趙無恤は一転して柔らかい顔を浮かべた。
「は、はい。左様でございます」
鸞徼がそう言うと趙無恤はにっこりとした笑みを浮かべながら言った。
「そうかそうか。兄上を思っていたか。なら……」
彼は剣を抜き、そのまま鸞徼の首、目掛けて一閃した。
「兄上に殉死しないのだ」
切られた鸞徼の首はそのまま朝廷の間を舞、身体は倒れ込んだ。
「まあ、お前ごときが兄上のおられる天涯などに行けはしないだろうがな」
趙無恤は死体に対し、そう呟いた。
この状況に周りの群臣たちはただただ唖然とするだけであった。あれが気の弱かった男であったのかと皆、脳裏の中で思い恐れた。
趙無恤が口を開いた。
「父上、朝廷を血で汚したこと、大変なる重罪でございます。しかしながらこの男には殺すに値するだけの理由がございました」
「では、その理由を述べ私が納得できれば、汝を許すとしよう」
趙鞅は彼を見ながらそう言った。
「ありがたきお言葉でございます。では、述べさしていただきます」
趙無恤は拝礼しながら言った。
「鸞徼は父上が声色(音楽や女色)を好んだ時には、積極的に声色を勧め、宮室・台榭(高台)の建築を好べば、積極的に建造を行いました。そして、良馬を愛せば、鸞徼は良馬を集めて献上致しました。このようでありながら、父上が士を愛されているというにも関わらず、彼は一人の士も勧めようとはしませんでした。この者は父上の過ちを助長させて善を損なわせている人物なのです」
更に彼は続けた。
「さて、今回は父上が望んでもいないにも関わらず、我が家の後継に口出し、私欲を肥やすために兄上の子までも利用しようとしました。よって私はこの場で斬り殺したのです」
趙無恤はすらすらと理由を述べた。群臣たちも彼の言葉を聞き、今までの認識を変えた。
「良かろう。お前に罰を与えないことにしよう」
趙鞅がそう言った時、
「それはなりません」
反対の声が群臣の中から上がった。
反対の声を上げたのは若い人物で、名は尹鐸という。
「太子は帯剣を許されていないにも関わらず、この場に持ち込むことは後々にとって大変、よろしくないことです。また、太子ともあろうものが、罪人を殺害するべきではございません。罪人は罪人を裁くべきものが裁くべきであり、自ら殺すなどは匹夫の勇に過ぎません」
群臣たちは汗を書いた。今、趙無恤は剣を持っており、この場で人を殺害した人物である。それに対して、批難するようなことを言えば、どうなるのか。
趙無恤は尹鐸を見た後、直ぐに趙鞅の方に拝礼して言った。
「尹鐸の言は良臣の言でございます。彼の申すとおり、私に罰をお渡えいただけますことを請います」
趙鞅は軽く笑い言った。
「良かろう。お前はしばらくの間、謹慎とする」
「ははあ。ご寛大感謝します」
(無恤に当主としての覚悟を見ることができた。そして、思いがけず、尹鐸の才覚も見ることができた)
趙鞅は上を見た。
「伯魯よ。お前の言った通りだ。きっと我が家は大丈夫だ」
(だから、静かに眠るといい……)
彼はそう思いながら目を閉じた。