白公の乱
七月、白公・勝が乱を起こした。後にいう白公の乱である。
彼は楚の恵王を捕らえる前に子西を殺害した。
子西は、
「葉公の言うとおりであった」
と言って、絶命する前に袖で顔を隠した。葉公に会わせる顔が無いためである。
白公・勝を見た子期は、
「昔、私は勇力によって国君に仕えたものだ。終わりもそうでなければならない」
と言うと、豫章(樟木)を抜いて、白公の兵を殺していったが、最後は死んだ。
楚の昭王を助け、楚を復興させた二人の名臣の死はあまりにも呆気なかった。
石乞が白公に進言した。
「府庫を焼き、王を殺しましょう。そうしなければ成功しません」
しかし白公は首を振った。
「それはならん。王を殺すのは不祥である。府庫を焼けば、蓄えがなくなってしまうではないか。何によって守るというのか」
石乞は、
「それは違います。国を擁してその民を治め、恭敬な態度で神に仕えれば、吉祥を得ることはできます。そもそも、蓄えは他にもあるのです。何を心配される必要がありましょうか」
しかし、白公は聞き入れなかった。致命的な甘さを彼は見せたと言えた。
この時、葉公は蔡におり、国都・郢の異変を聞いた方城外の人々が皆言った。
「国都に入るべきです」
葉公は直ぐに動かず、
「危険を犯し、幸を求める者(白公を指す)は、その欲求に際限がなく、私欲のままに事を行って偏重(不公平)を招き、人心が離れるものだ」
と言った。彼は下手に動くべきではないと考えたのである。
暫くして白公が管脩を殺したと聞いた。
「良し、都へ行く」
彼はそう言って、郢に向かった。管脩は斉の名宰相であった管仲の子孫で、楚に遷っていた。楚では隠大夫に任命され、賢人として名が知られていた人物である。
葉公は白公が賢人を殺したことで、民の支持を受けることはないと判断し、白公討伐に出た。
一方、白公は子閭(王子・啓。平王の子)を王に立てようとしたが、子閭は辞退した。白公は武器を使って脅迫したが子閭は、
「王孫(白公)が国を安定させて王室を正し、私を守るというのであれば、それは私の願いでございます。従わないはずがありません。しかしもし利を専らにして王室を傾け、国を顧みることがないようならば、死んでも従うことはありません」
と言って従うことはなかった。
白公は激怒して子閭を殺し、恵王を高府(府庫の一つ)に入れた。石乞が門を守った。
しかし、この件を知った楚の大夫・圉公陽(「圉公陽」。「従者・屈固」)は、
「白公は自ら利を専らに国を専断すると言ったことになる」
彼はそう言って白公の行動に義無しと判断するや、王宮の壁に穴をあけて中に入り、恵王を背負って昭夫人(昭王夫人。恵王の母。恐らく越女)の宮に運んだ。
葉公が郢に到着し、北門に至ると彼を見た人が言った。
「あなた様はなぜ冑(兜)をかぶらないのでしょうか。国人は慈愛のある父母を望むようにあなた様を望んでいるのです。盗賊の矢がもしあなた様を傷つければ、民の望みを絶つことになりましょう。なぜ冑をかぶらないのですか?」
葉公は冑をかぶって進むと別の人に会い、こう言われた。
「あなた様はなぜ冑をかぶっているのでしょうか。国人は豊作を望むように日々あなたを望んでいるのです。あなた様のお顔を見ることができれば、安心することでしょう。民はあなた様を見たら死ぬはずがないと信じ、奮戦する心を起こし、あなた様の旌(旗)を立てて国中を駆け巡りましょう。顔を隠すようなことをすれば(冑をかぶったら顔の左右を隠すことになる)民の望みを絶ってしまうでしょう」
葉公は冑を脱いで先に進み、人心を安定させて士気を高めた。
彼が進むと箴尹・固に会った。箴尹・固は属衆を率いて白公に附こうとしていたところであった。
葉公は彼を捕まえて、説得した。
「もし二子(子西と子期)がいなければ、楚は国として成り立っていなかっただろうか。徳を棄てて賊に従い、安全を保てるとお思いか」
箴尹・固は葉公に従うことにした。
葉公は箴尹・固と国人(恵王の徒)に白公を攻撃させた。白公は敗戦し、山に逃げると自縊した。その徒(兵)が死体を隠した。
白公の臣下であった石乞は捕えられた。葉公が白公の死体をどこに隠したかを彼に問うたが、
「私はその場所を知っているが、長者(白公)に言うなと命じられている」
石乞はそう返した。
葉公が、
「言わなければ烹(煮殺し)にする」
と脅したが、石乞は、
「今回の事は、勝てば卿になれたが、負けたら烹になると決まっていたのだ。恐れることはない」
と言って最後まで言わなかった。
「汝は忠義を示す相手を間違っている」
「忠義を示す相手に間違いなどはない。あるのは、示して生きるか死ぬかだ」
石乞は煮殺された。
白公・勝の弟・王孫燕は頯黄氏(頯黄。呉地)に逃げた。
白公の乱を鎮圧してから暫くの間、葉公・沈諸梁が令尹と司馬の政務を兼任したが、国が安定すると公孫寧(子国。子西の子)を令尹に、公孫寬(魯陽公。平王の孫。子期の子)を司馬に任命し、告老(引退)して葉で過ごした。
恵王が梁(楚北境の地)を公孫寬に封じようとしたが、彼は辞退した。
「梁の地は険要でしかも国境にありますので、私の子孫に二心を持つ者が現れるのではないかと畏れます。国君に従えば、恨みを持つようなことがあってはならず、もし恨みを持てば、上を脅かすことになり、上を脅かしれば、誅殺を恐れて二心を抱くようになるものです。志が満たされても上を脅かさず、恨みを持っても二心を持たないというのは、私は保証できても、子孫がそうだとは限りません。私が首領(首)を保って没したとしても(天寿を全うできたとしても)、子孫が梁の険に頼り、祭祀が途絶えるのではないかと恐れます(子孫が梁で謀反して族滅されるのではないかと恐れます)」
恵王は言った。
「汝の仁は子孫を忘れず、その恩恵は国にも及んでいるのだ。子孫が汝に従わないはずがないだろう」
結局、恵王は魯陽の地を彼に与えた。