孔丘
四月、孔丘が病にかかった。顔回、子路と弟子たちが自分よりも世を去っていくことで心が弱っていたのかもしれない。
師の病を知った子貢が朝早く見舞いに来ると、孔丘はちょうど杖をついて屋敷の門の周りを歩いていた。
孔丘は子貢を見ると、
「賜(子貢の名)よ、汝はなぜ来るのが遅くなったのか」
と言って嘆息し、歌を歌った。
「太山が崩れ、梁柱が倒れて、哲人が終わらん」
孔丘の目からは涙が流れた。そして、子貢に言った。
「天下が道を失いて久しくし、私の考えに賛同する者もいない。夏人(中国人、もっと正確に言えば漢族)は東階(東廂の階段)で殯し(埋葬前に霊柩を置いて葬儀を行うこと)、周人は西階で、殷人は両柱(堂の二本の柱)の間で殯したものだ。昨晩、私は両柱の間で奠(祭祀)を受ける夢を見た。私の先祖は殷人である。殷の葬礼に従え」
「先生……」
子貢の目から涙が流れた。
「子貢、少し一緒に歩こうか」
「はい」
孔丘は子貢に支えられながら、歩いた。近くの川に近づくと、川の上に雲路ができていた。
「天の道の悠々足るかな」
彼はそう呟いた。
「先生、もし人民に遍く恩恵を施し、よく衆生を救済することが仁でしょうか」
子貢が質問すると孔丘は、
「それができれば、仁どころではない。聖人と言って良かろう。堯・舜程の聖天子でさえ、中々それができないと言って、気をもんだものだ。仁者とは、自分が良いと思うことは先ず人にやってあげるものだ。つまり、我が身に置き換えて己の欲する所を人に施して行く。これが仁者のやり方である」
と答えた。
「では、先生は聖者でございます」
「いや、私は聖者ではない」
「いえ、ここにいる誰よりもがそう思っておりますよ」
子貢が振り向くと、孔丘も同じように振り向いた。そこには、師の病を聞いて駆けつけてきた弟子たちが集まっていた。
「ここにいる誰もが先生の深き恩恵を受けてきた者たちでございます」
子貢が拝礼すると皆も一斉に拝礼を行った。
「先生より受けし、恩恵という名の教えは永遠に忘れぬことを誓います」
(ああ、私は何もできずに世を去ることは無いか……)
自分の考えはどの国でも受け入れられることはなかった。しかし、彼らが自分の考えを引き継ぎ、発展させていくことだろう。
(後悔はもはや無い。私の道はまだ続いている。ああ、師とは良き弟子を持って、師となるものだな)
師は弟子に教えを授けるだけでなく、その弟子からも学ぶ存在でもある。この繰り返しを経て、人の道は延々と繋がっていくのである。
その延々と続くその道こそが人の営みとなっていく。
(人の意思はこうやって受け継がれていくのだ)
数日後、孔丘は静かに世を去った。
魯の哀公孔丘の死を知ると彼のために誄(生前の徳を称える追悼文)を作って言った。
「上天が不善であるため、一人の国老も残すことなく、余一人(天子の自称)に位を守らせることになった。私は悲しみ憂いて病を生じた。哀しいことである。尼父(「尼」は孔子の字・仲尼を指し、「父」は年長者に対する尊称)よ。模範とする者がいなくなってしまった」
これを聞いた孔丘の弟子たちは激怒した。特に子貢が怒りの言を上げた。
「国君は魯で良い終わりを迎えることができない。先生はかつてこうおっしゃった。『礼を失えば、昏(暗愚)になり、名(名分・秩序)を失えば、愆(過失)となる』志(意志。考え)を失うことを昏といい、所(身分。立場)を失うことを愆という。先生が生きている間は用いることができなかったにも関わらず、死んでから誄を与えるのは非礼である」
生前と死後で孔丘に対する哀公の態度が違うことを彼は「意志を失っている」と非難しているのである。
「また、余一人というのは非名である「余一人」とは天子の自称であり、諸侯が使えば名分を失うことになる。国君は礼と名の両方を失った」
この哀公の態度は孔丘の弟子たちの怒りを買ったと言えた。元々子路のような血気盛んな者がいたように孔丘の弟子には血気盛んな者たちも少なくはなかった。
哀公を襲おうことを図り兼ねない彼らを子貢が止めた。
「そのようなことが師の教えにあったか。それをして師の教えを守ったことになるか。師の名誉は教えを受けた我らにかかっている。我らは生き様を持って、師の教えの正しさを示さねばならないのだ」
弟子のあり方を持って、師の教えの正しさを自分たちは示さなければならない。どれほど素晴らしい教えも弟子たちが反する行いをすれば、それは輝きを失ってしまうのである。
孔丘は魯城北の泗上(泗水沿岸)に埋葬された。弟子たちは皆、三年の喪に服した。三年後、それぞれ別れを告げていき、ある者は泣いて去り、ある者は再び留まった。
子貢は冢(墓)の近くに盧(小屋)を立てて六年の喪に服してから去った。
百余家の弟子や魯人が孔丘の冢の周りに集まって村を形成し、孔里と命名された。
魯は代々孔丘の冢で歳祀を行い、儒学者も孔子冢を訪れて儀礼や儀式について語るようになった。因みにこの冢は一頃の大きさがある。
孔丘故居の堂や弟子の部屋は後に孔子廟となり、孔子の衣冠や琴、車、書籍が収蔵された。
それは二百年以上経った漢代(『史記』が編纂された時代)まで失われることなく、高祖・劉邦が魯を通った時には太牢(牛・羊・豚の犠牲)を使って孔丘を祀った。
また、諸侯や卿、相もまず孔子廟を訪れて参謁してから、政務に就くようになった。
後に季孫肥が子游(言偃)に問うた。
「仁者とは人を愛するものか?」
子游が、
「その通りです」
と答えると、季孫肥は、
「人も仁者を愛するものか?」
と問うと、子游は、
「その通りです」
と答えた。そこで季孫肥が言った。
「鄭の子産が死んだ時、鄭の丈夫(男)は玦佩をつけず、婦人(女)は珠珥(耳飾り)をつけず、夫婦が巷で哀哭し、三か月の間、竽琴の音(音楽。竽は管楽器の一種)がなくなったと聞いている。しかし孔丘が死んだ時、魯の人々がそのように夫子を愛したとは聞いたことがない。それはなぜか。孔丘は仁者ではなかったのか?」
子游はこう答えた。
「子産と先生は浸水(灌漑の水)と天雨のようなものでございます。浸水が至るところでは植物が育ち、至らないところでは死んでしまうものです(浸水には至る場所と至らない場所があって至った場所では感謝される)」
「しかし民が生きるには必ず時に応じた雨が必要です(天雨は浸水と異なり、全ての民に必要です)。それにも関わらず、人々は既に生を与えられても、天雨に感謝することはございません。だから子産と先生は浸水と天雨のようなものなのです」
「孔丘は世を去った。されど彼の志は弟子たちによって引き継がれた」
左丘明は孔丘の墓の近くで座りながら呟いた。
「君の教えは彼らによって後世に残されていくだろう」
そして、彼らによって孔丘の名は不朽のものとなるのである。
「私は何を残せるだろうか」
左丘明は苦笑した。それは自分が孔丘に及ばないことを何よりも理解した苦笑であった。
「左丘明様」
彼の後ろから声をかけら、振り向いた。
「おお子思殿か」
子思は孔丘の孫である。彼の手には木簡が握られていた。
「お祖父様があなた様にこれを」
「孔丘殿かが?」
子思が木簡を渡し、左丘明が受け取るとその木簡には『春秋』と書かれていた。
「これは……」
「お祖父様が書いた『春秋』です。お祖父様はそれを書かれた際、こうおっしゃられました」
子思は目を細め言った。
「『後世、私を知る者は『春秋』によって知り、批難する者も『春秋』によって批難することになるだろう』と、そして、これをもっとも理解する者は、『左丘明であろう』とおっしゃられました」
左丘明は木簡を強く握った。
「なるほど、孔丘殿がそのようなことを……」
彼は頷いた。
「これの内容は私も知っている。孔丘殿は書かなすぎるところがあるからなあ」
恐らく孔丘自分の死後のことを思い、『春秋』に書いたことだけでは、自分の考えを伝えきれないのではないかと死ぬ直前に思った。そのため自分のこれを託したのであろう。
「わかった。私が見事な注釈をしてみせよう」
「はい。お願いいたします」
こうして左丘明による『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』の執筆が始まった。彼もまた、孔丘の名を不朽にし、その志を継いだ者の一人であった。