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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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斉、魯の講和

 魯の孟孺子洩もうじゅしせつ仲孫彘ちゅうそんてい)、仲孫何忌ちゅうそんかきの子)がかつて成(孟孫氏の邑)で馬を飼おうとしたが、成邑の宰・公孫宿こうそんしゅくが拒否して、


「孟孫(仲孫何忌)は成の病ですなあ(孟孫のおかげで成の民が貧困に苦しんでいる)。馬を飼ってはなりません」


 と言った。

 

 孺子は怒って成を襲ったが、従者が中に進入できなかったため引き返した。成の有司(官員)が人を派遣すると、孺子は使者に怨みをぶつけて鞭で打った。

 

 八月、仲孫何忌が死んだ。

 

 成邑の人々も喪に参加しようとしたが、孺子が中に入れなかった。成邑の人々は上衣を脱いで衢(大路)で大哭し、孟孫氏の命に従うことを約束したが、孺子はそれでも受け入れなかった。

 

 成邑の人々は孟孺子洩の怒りの大きさに恐れて、怒りを解くために帰ろうとしなかったが、成邑では謀反が計画されるようになった。


 紀元前480年


 年が明けて正月、魯の成邑が叛して斉に頼った。

 

 仲孫彘が成を討伐するため軍を出したが勝てず、仲孫彘は輸に城を築いた。

 

 

 




 夏、楚の子西しせい子期しきが呉を攻撃し、桐汭(桐水)に至った。

 

 陳の閔公びんこうが公孫貞子(司城貞子)を呉に送って慰労しようとしたが、公孫貞子は良(呉都周辺)で死んでしまった。陳人は公孫貞子の霊柩を呉に運ぼうとした。

 

 しかし呉王・夫差ふさは太宰・伯嚭はくひを送って陳の使者を慰労し、こう言った。


「水潦(雨)が調和していないため、大水(洪水)によって大夫(公孫貞子)の尸(霊柩)を損なう恐れがあります。それは我が君の憂いを重ねることになりますので、我が君は貴国の聘問を敢えて辞退させていただきます」


 陳の使者たちを思いやっての言葉に見えるが実際は夫差が面倒だと思っただけである。

 

 陳の上介(副使の筆頭)を勤める芋尹・蓋(芋尹は官名。蓋が名)が言った。


「我が君は楚が不道(無道)によってしばしば呉を侵し、民人を失わせていると聞き、私を使者の列に加え、貴君の下吏(官吏)を慰問させたのです。しかし不幸にも使臣が天の慼(憂)に遭い、大命を落として良で世を去ることになりました。我々は時間を費やして葬礼の準備を整えながらも、君命を廃さないために日々住む場所を変えて貴国に向かっております。ところが今、貴君は使臣に対して『尸(霊柩)が城門に至る必要はない』と伝えられました。これは我が君の命を草莽(草叢)に棄てるようなものです。『死者に仕える時も生者に仕えるようにするのが礼である』と申します。だから朝聘の途中で使臣が命を落とそうとも、尸を奉じて朝聘を行う礼があり、朝聘の途中で朝聘を受ける国に喪があれば、喪に遭遇した時の礼を行うのです」


 朝聘の途中で朝聘を受ける国の喪に遭遇した時は郊外での出迎えや礼物の贈答がない等、通常の朝聘の礼とは異なるものになる。


「故に使臣が尸を奉じて使命を完遂しないのは、朝聘を受ける国に喪があったために引き返す時だけです」


 朝聘する国の使者が道中で死に、朝聘を受ける国でも喪があった場合は、使者の死体を奉じて朝聘するべきではないが、今回は使者が死んだだけで呉には喪がない。


「朝聘を受ける国である呉に喪が無いのですから、正使が死んだからといって我々が引き返すのは相応しくありません。礼によって民を防いでも(抑えても)、礼を越える者は出てきます(礼を用いても礼を守らない者は出てきます。礼を棄てたらなおさらです)。今、大夫は『死んだから命を棄てよ』とおっしゃいましたが、これは礼を棄てることです。礼を棄ててなぜ諸侯の主になれるのでしょうか。先民はこう申されました『死者を汚らわしい物とするな』と、私は尸を奉じて命を完遂します。もし我が君の命が貴君のいる場所に達するようなら(呉が陳の使者を受け入れるようなら)、たとえ深淵に落ちたとしても(大水に遭って命を落としても)、それは天命ですので、貴君や渉人(津吏。船着き場の官吏)の過ちではございません」

 

 呉は陳の使者を受け入れた。

 

 秋、斉の陳瓘(子玉。田恒の兄)が楚に向かった。

 

 陳瓘が衛を通った時、彼は兄から命じられていたため、子路しろ孔丘こうきゅうの弟子)に会った。


 子路は彼に会うと魯のためにこう言った。


「天が田氏を斧斤として公室を削り、他人に所有させようとし、最後は田氏がそれを享受することになるかもしれません。魯との関係を改善して時を待つのも、良いものではないでしょうか。なぜ敢えて関係を悪くするのでしょうか」

 

 子路から魯と斉の和解について述べたため陳瓘は内心、喜びながら言った。


「その通りです。私はあなたの命(言)を受け入れます。あなたは人を送って私の弟(田恒)にそれを伝えてください」

 

 これにより、魯と斉が講和した。

 

 魯は斉に言ってしまった成邑を取り戻すため、斉に子服何しふくかを送った。子貢しこう(孔丘の弟子)が介(副使)を務める。

 

 子貢が魯から斉に帰順した成邑の宰・公孫宿に言った。


「人は皆、他人の臣下という立場におりますが、主に背こうとする心を持つ者もいます。斉人はあなたのために力を貸していますが、二心を持たないと言えるでしょうか。あなたは周公の子孫であり、大利を享受して来たにも関わらず、不義を考えています。利を得ることができず、逆に宗国を失うことになって、どうなさるおつもりなのでしょうか?」

 

 公孫宿は、


「その通りです。早くあなたの命を聞いていればよかった」


 と言った。

 

 田恒は賓館で魯の使者たちを歓迎し言った。


「我が君は私にこう伝えさせました。『私は衛君に仕えているように魯君にも仕えたい』」

 

 子服何は子貢に揖礼し、彼を前に出して答えさせた。


「それは我が君の願いでもあります。昔、晋が衛を攻めた時、斉は衛のために晋の冠氏を攻撃し、車五百を失いました(紀元前501年)。しかし斉は衛に領地を割き、済水以西、禚・媚・杏以南の書社五百(書は戸籍、一社は二十五戸)を与えられました。ところが、呉が我が国に乱を加えた時は(紀元前487年)、斉は我が君の病(困難)につけこんで讙と闡を奪いました。我が君はこれによって寒心(失望)したのです。もし衛君のように貴君に仕えることができるのであれば、それはもとより我が国の願いです」

 

 田恒は羞じた振りして成邑を魯に還すことにした。彼は国君殺しを行ったため、その不評を周辺国に責められたくないため、成邑を返したのである。

 

 成の宰・公孫宿は兵甲(兵器と甲冑)を持って(もしくは士兵を連れて)嬴(斉の邑)に移った。

 

 



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