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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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国君殺し

 斉で混乱が起きたのと同じく宋でも混乱が起きた。


 宋の向魋(桓魋)は宋の景公けいこうの寵愛を受けて勢力を拡大し、景公をも脅かすようになっていた。

 

 景公は夫人(景公の母)を使って何度も向魋を享宴に招き、討伐しようと考えたが、逆に向魋が景公を襲う計画を立てた。

 

 向魋が自分の邑である鞌と公邑の薄を交換するように求めたが、景公はこう言った。


「それはできない。薄は宗邑(宗廟がある邑)である」

 

 その代わりに景公は鞌に七邑を加えることにした。

 

 向魋は謝意を示すためと称して景公を享宴に招き、同時に日中(正午)を期限にして家中の徒衆を享宴の場に移動させた。

 

 それを知った景公は皇野(司馬・子仲。皇瑗の兄弟)に言った。


「私は向魋の成長を見守ってきたが、禍を招くことになってしまった。援けてほしい」

 

 皇野はこう答えた。


「臣下に不順の者がいれば、神でも憎むものです。人ならなおさらでしょう。命に逆らいません。しかし左師(向巣。向魋の兄)の助けが必要です。君命によって招いてください」

 

 向巣は食事をする度に鐘を撃つ習慣があった。この時も鐘の音が聞こえたため、景公は、


「彼はこれから食事をするようである」

 

 と言って、暫くして再び鐘が鳴った。食事が終わった相図である。

 

 景公が、


「今ならいい」


 と言うと、皇野が車に乗って向巣に会いに行った。

 

 皇野は向巣に言った。


「迹人(狩猟で禽獣の足跡を確認する者)がこう報告しました。『逢沢に介麇(介は「大」の意味。もしくは配偶がいない一頭の獣の意味。麇は鹿の一種)がいます』そこで主公がこう申されました。『魋が来ないとしても、左師と一緒に田(狩猟)をしたらどうだろうか?』国君があなたに直接伝えるのをはばかりましたので(遊びのために大臣を煩わすことに気がとがめたため)、私が『私を公人ではなく私人の立場で派遣して試させてください』と言いました。国君は急いでおります。だから一乗の車だけであなたを迎えに来たのです」

 

 向巣は皇野と一緒に車に乗って景公に会いに行った。到着した向巣に景公がよび出した真相を話すと向巣は驚き、拝礼したまま立てなくなった。

 

 皇野は景公に言った。


「主公は言を与えるべきです」


 向巣と盟を結ぶことで彼を安心させるべきであるということである。

 

 景公は、


「汝に難を与えることがあれば、上は天があり、下は先君がいる。天と先君が私に咎を与えるだろう」

 

 と言うと向巣は、


「魋の不恭は宋の禍でございます。命に逆らうことはありません」


 と言って同意した。

 

 皇野が景公に瑞(兵符)を請い、自分の徒(兵)に桓氏(向魋)を攻撃させた。皇野の父兄や旧臣は反対したが、新しい家臣は、


「我が君の命に従います」


 と言って向魋討伐に賛成した。

 

 皇野の動きを知った子頎(向魋の弟)が向魋に伝えた。

 

 向魋は公宮に攻め入ろうとしたが、子車ししょう(向魋の別の弟)が諫めた。


「国君に仕えることができず、更に国を攻撃すれば、民が支持しません。死を求めに行くだけです」

 

 向魋は曹(向魋の邑。以前の曹)に入って叛した。

 

 六月、景公は向巣に曹を討伐させたが、向巣は向魋に勝利することができなかった。

 

 そのため向巣はこのことで景公が怒って盟約(向巣に難を与えないこと)を破るのではないかと心配し、国内の大夫を人質として送るように要求した。人質が来てから帰国するつもりである。

 

 しかし景公は人質を送ることを拒否した。向巣はやむなく曹に奔った。

 

 向巣は曹討伐の指揮をとっていたため、曹人の反発を恐れた。そこで今度は曹人を人質にとって自分の安全を確保しようとした。

 

 弟の向魋はそれを止めた。


「いけません。国君に仕えることができず、民を人質にしたら人心を失います。それでは今後どうするなさるつもりですか?」

 

 向巣はあきらめた。ところが案の定、曹の民は向氏に背いた。

 

 向魋は衛に奔り、向巣は魯に奔った。

 

 景公は使者を送り、向巣に、


「私と汝には言(盟約)がある。向氏の祀を絶えさせることはない」


 と伝えて引き止めたが、向巣は、


「私の罪は大きく、桓氏(向氏)を族滅してもいいほどです。しかしもし先臣の縁故によって後代を残すことができるというのであれば、それは国君の恩恵というものです。私のような者は、帰国するわけにはいきません」


 と答えた

 

 司馬牛しばぎょう(向魋の一番下の弟)が自分の邑と珪(玉器。邑を治めるための符)を景公に返上して斉に向かった。


 彼は孔丘こうきゅうの弟子の一人でもある。

 

 向魋が衛に至ると、公文氏(衛の公族)が攻撃し、夏后氏の璜(宝玉)を要求した。向魋は他の玉を与えて斉に奔った。

 

 田恒でんかんは彼を迎え入れ、次卿とした。

 

 先に斉に入った司馬牛も邑を与えられたが、その邑を返上して呉に奔った。向魋と共に居たくないからである。

 

 しかし呉は司馬牛を嫌ったため、司馬牛は宋に帰国した。

 

 それを知って晋の趙鞅ちょうおうが司馬牛を招き、田恒も再び司馬牛を招いたが、司馬牛は招きに応じることはなかった。


 その後、彼は魯に向かい、魯の郭門(外城門)の外で死んだ。阬氏(魯人)によって丘輿に埋葬されたという。

 

 

 





 宋で混乱が一先ず終わると田恒は舒州で斉の簡公かんこうを殺した。彼は簡公の弟・驁を即位させた。これを斉の平公へいこうという。

 

 田恒が相としてますます専権するようになったが、同時に簡公を殺したことから諸大夫の反発を防ぐために盟を結ぼうとした。


 田氏に協力することを誓えば家族の安全を守り、盟約に参加しなかったら死刑に処すというものである。

 

 石他人はそれに対しこう言った。


「昔の国君に仕えていた者は、皆、自分の国君を得てその国君に仕えたものである。ところが今の人は、私に『国君を棄てて私に仕えよ』と言う。私にはそれはできない。しかし盟に参加しなければ父母を殺すことになる。盟に従えば君臣の礼を失うことになる。乱世に生きれば行いを正すことができず、暴君に強要されたら道義を得ることができないようだ。確かに盟を結べば父母が死ななくてすむが、行いを正すことができず、暴君に強要されるというのなら退いて自殺し、国君に対する礼を守った方が良いだろう」

 

 石他人は自殺した。


 田恒が簡公を殺した時、勇士六人を派遣して子淵栖を捕えさせた。彼は子淵栖に服従を要求した。すると子淵栖はこう言った。


「汝が私と与したいのは、私を知(明智)の人だと思っているからだろうか。臣下が国君を弑殺するのは、非知である。私を仁の人だと思っているからだろうか。利を見て国君に背くのは、非仁である。私を勇の人だと思っているからだろうか。武器による脅迫を受け、恐れて汝に協力するようならば、非勇である。私からこの三者(智・仁・勇)を失わせて、何をもって汝に協力しろと申すのか。逆にもし私にこの三者があるのならば尚更、私が汝に従うことはないではないか」

 

 田恒は子淵栖を釈放した。

 

 簡公を殺した彼は、諸侯がその罪を問うことを恐れ、魯や衛から奪った地を返還し、西は晋公室や韓氏、魏氏、趙氏、智氏の四氏と友好を約束し、南は呉・越に使者を送った。

 

 また、功徳を立てることに励み、功績がある者を賞し、百姓に親しんで斉を安定させた。

 

 田恒が平公に言った。


「徳を施すのは人々が欲することでございます。どうか主公が行ってくださいませ。刑罰は人々が嫌うことです。私に行わせてください」

 

 これにより、彼は斉での刑罰を掌握し五年後、斉の政治は全て田恒が行うようになった。

 

 実権を握った田恒は敵対する諸大夫や公族の中で権勢を握る者をことごとく滅ぼし、安平以東から琅邪に至る地を自分の邑にした。


 田氏の封邑は平公が直轄する領地よりも広くなった。

 

 また、田恒は国中から身長七尺以上の女性を集めて田氏の後宮に入れた。姫妾の数は百人以上になり、田恒は賓客や舍人(官名)の後宮への出入りを自由にした。

 

 田恒が死んだ時、後宮には七十余の男(息子)がいたという。娘もいただろうからその数を合わせ得たらもっと多くなる。一部は賓客・舍人と姫妾の間にできた子のようである。

 

 

 




 魯の孔丘こうきゅうが三日間の斎戒後、斉討伐を請うた。簡公が弑殺されたためである。

 

 魯の哀公あいこうは怪訝な表情を浮かべ言った。


「魯は斉のために衰弱して久しくなる。あなたはそれを討とうというが、どうするつもりか?」

 

 孔丘は、


「田恒は国君を殺しました。民の半数はまだ彼に帰心していません。魯の衆と斉の半数の民を合わせれば勝てましょう」

 

 と言い、決断を迫ったが哀公は、


「あなたは季孫に報告せよ」

 

 と言い、決断しなかった。孔丘は退出すると左丘明さきゅうめいに言った。


「私もかつては大夫の後(末)に従っていたから(私もかつては一大夫だったから)、斉討伐を言わないわけにはいかなかったのだ」


 その後、三桓にも斉討伐を請うたが、受け入れなかった。

 

 無理とは分かっていても礼に外れた事を許すことはできないという孔丘の思想を表す故事である。

 

「どの国にも、もはや礼は無いなあ」


 孔丘はそう呟いた。




 

 

 


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