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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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呉と魯と衛と

 呉が兵を北に進めた。

 

 呉王・夫差ふさ伍子胥ごししょを殺してから一年足らずで北征の兵を興したことになる。深溝を穿って商(宋)と魯の間を繋げ、北は沂水、西は済水に通じさせた。

 

 呉王・夫差は魯の哀公あいこうと会した。翌年には晋と黄池で会盟することになる。

 

 夫差と哀公による橐皋(呉地)の会にて、夫差は大宰(太宰)・伯嚭はくひを派遣し、哀公に過去の盟約を確認して新たな盟約を結ぶように要求した。

 

 しかし哀公は同意せず、子貢しこうを送って答えた。


「盟とは信を固めるためにございます。だから心(誠心)によって制し、玉帛によって奉じ(玉帛を奉納し)、言によって結び、明神によって約束するのです。我が君は既に盟が結ばれていると考えております。それを改める必要はありません。もし改めるというのならば、毎日、盟を結んでも、何の益もないではありませんか。あなたは『過去の盟を温めなければならない』と仰っていますが、もし温めることができるのなら、冷ますこともできるのではありませんか?」

 

 結果、新たな盟は結ばれなかった。

 

 

 

 呉が衛を会に招いた。

 

 以前、衛は呉の行人(外交官。使者)・且姚を殺したことがあったため、衛の出公しゅつこうは呉を恐れて行人(外交官。ここでは国君が外出した時に補佐する官)の子羽しう(大夫)に相談した。子羽が言った。


「呉は無道ですので、我が君を辱めるでしょう。行くべきではありません」

 

 子木しぼく(大夫)が言った。


「呉は無道です。国が無道ならば、必ず人に害を与えるものです。但し、呉は無道ですが、衛の憂患となる力は充分あります。行くべきです。長木(大木)が倒れれば、必ず打撃を受け、国狗(比類ない犬)が狂ったら必ず人にかみつくものです。相手が大国ならなおさら危険です」

 

 秋、出公が鄖(または「運」。詳細位置は不明。恐らく魯の近く)で呉と会した。

 

 哀公と出公および宋の皇瑗こうえんが盟を結んだ。呉の参加を避けるため、秘かに行われた。

 

 呉人が出公の館舍を包囲した。

 

 それを知った魯の子服何しふくかが子貢に言っや。


「諸侯が会して既に事は終わっている。侯伯(盟主。呉)が致礼(賓客をもてなすこと)し、地主(会を開いた土地の主)が帰餼(食物を贈ること)して互いに別れを告げたのだ。しかし今、呉が衛に対して礼を行わず、その君の館舍を包囲して難を与えている。汝は大宰(伯嚭)に会うべきではないか?」

 

 子貢は束錦(五匹の錦)を子服何に請い、伯嚭に会いに行った。

 

 子貢が伯嚭に衛の事を話すと、伯嚭が特に問題ではないとばかりに言った。


「我が君は衛君に仕えたい(同盟を結びたい)と思っていたのだが、衛君が来るのが遅かったため、我が君は衛が背くことを恐れて留めたのだ」


(良く言う。同盟したいのに、相手を包囲するなどという真似をして、好意を抱けると思っているのか)

 

 子貢は愚かだと思いながら言った。


「衛君はここに来る前に衆(臣下)と相談したはずです。一部の衆は賛成し、一部の衆は反対したから、来るのが遅くなったのでしょう。賛成した者は全てあなたの党(味方)であり、反対した者は子の讎(敵)です。もし衛君を捕えれば、自分の党を潰して讎をあがめることになるではありませんか。それではあなたを倒そうとしている者が志を得ることになります。また、諸侯を集めながら衛君を捕えれば、誰が恐れないでしょうか。党を潰し、讎をあがめ、諸侯を恐れさせれば、霸を称えるのが困難になるのではありませんか?」


 そう言いながら彼は賄賂を渡した。伯嚭はそれを見ながら笑みを浮かべて、


「そのとおりだ」


 と言って、夫差を説得して出公は赦された。

 

 帰国した出公は夷言(夷の言葉。呉語)を真似した。まだ若い子之(公孫彌牟)が言った。


「国君は禍から逃れることができず、夷の地で死ぬことになられるだろう。彼等に捕えられながらその言葉を真似するとは、夷に従う(夷の地に遷る)ことになって当然ではないか」






 そもそも呉が出兵した時、呉には飢饉が襲っていた。


 越王・勾践こうせん范蠡はんれいに問うた。


「私が汝と呉について謀った時、汝は『まだその時ではありません』と言った。今、呉は稻も蟹も全て食べ尽くしたが(呉を飢饉が襲ったが)、まだ無理だろうか?」

 

「天応は至ったもののが、人事がまだ尽きていません。暫く待つべきです」

 

 范蠡の言葉に流石に勾践も怒って言った。


「道(道理)とはそういうものなのか。それとも汝は私を欺いているのか。私が汝と人事について話した時は、汝は私に天の時に応じるように勧めたではないか。しかし今、天応が既に至ったにも関わらず、汝は私に人事に応じる必要があるという。何故か?」

 

 范蠡は静かに答えた。


「不思議なことはありません。人事とは必ず天地と合致しなければならず、合致してからやっと成功を得られるのです。今は呉の禍が起きたばかりなため、民は警戒しています。君臣上下が皆、資財(食糧・物資)が不足しているため長く堪える力がないことを知っているからです。今、我々が攻撃すれば、彼等は力を合わせて死力を尽くすため、我々が危険に陥ることになりましょう」


 民は馬鹿ではない。しっかりと自国の状況を憂いる気持ちと警戒心をもつことができる。また、民と同じように考えている人材も呉にはまだいる。


「王は暫く弋猟(狩猟)に明け暮れてください。しかし本当に狩猟に没頭してはなりません。暫く宮中で楽しんでください。しかし本当に酒に浸ってはなりません。暫く大夫と宴を開いて遊んでください。しかし本当に国常(国の法。政治)を忘れてはなりません。そのようにすれば呉の上にいる者達は警戒を解き、その徳を薄くし、民は力を尽くして疲弊するようになりましょう。民が上を怨んでも食糧を得ることができなくなった時、呉に天地の殛(誅)をもたらすことができます。王は暫く待つべきです」


 先ずは支配者と非支配者の間で溝を作るべきだという意見である。民がわかっていることを上の者がわからないということこそが最大の好機なのである。

 

 勾践は納得し、そのように行った。

 

 

 





 宋と鄭の間には隙地(空白地。未開の地)があった。彌作、頃丘、玉暢、喦、戈、鍚という地域である。

 

 かつて鄭の子産しさんが宋と講和した時、こう言った。


「これらの地は必要ない」

 

 しかし紀元前495年、鄭は宋から出奔した公子・が住む場所を得るために、罕達かんたつに命じて宋を攻撃させた。


 この頃、宋の平公と元公の一族も䔥から鄭に出奔していたのである。

 

 鄭は宋から来た亡命者のために、喦、戈、鍚に城を築いた。

 

 それに対して、九月、宋の向巣しょうすうが鄭を攻めて鍚を占領し、元公の孫を殺した。更に喦を包囲した。

 

 十二月、鄭の罕達が喦を援けるため、出陣し鄭軍は宋軍を包囲した。

 

 その頃、魯で螽(蝗)の害があった。

 

 蟲の害は通常、秋に起きる。そこで季孫肥きそんひ孔丘こうきゅうに問うた。孔丘が言った。


「火(大火星)が伏せば(天に見えなくなったら。通常、夏暦十月になったら見えなくなる。夏暦十月は周暦十二月に当たる)、虫は全て蟄(冬眠)するものです。しかし今はまだ火(大火星)が西に流れています(西方に見えます)。これは司暦(暦を担当する官)の過ちでしょう」

 

 暦上は周暦十二月、夏暦十月になったが、まだ大火星が見えているため、暦が間違っているという意味である。


 紀元前482年


 春、鄭軍に包囲された宋軍を救うため、向魋が救援に向かった。

 

 鄭の子賸が軍中に宣言した。


「向魋を捕えた者には賞を与えるだろう」

 

 それを知った向魋は逃走した。

 

 鄭軍は喦の地で宋軍を全滅させて成讙と郜延(どちらも宋の大夫)を捕えた。六邑は再び空白地になった。


 








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