田賦の制
秋、魯の季孫肥が防備を固めさせてこう言った。
「小国が大国に勝つというのは禍である。斉はすぐ攻めて来るだろう」
以前、衛の大叔(太叔)疾は宋の子朝(宋朝)の娘を娶ったが、その妹を寵愛した。
子朝と言えば、あの南子と関係を持っていたという人物である。その彼が衛を出ることになった。理由は不明であるが、恐らく南子が死んだためではないかと思われる。
ともかく彼が衛から出奔すると衛の卿・孔圉が大叔疾に妻と媵(新婦と共に嫁ぐ女性。妹も含みます)を追い出させ、自分の娘・孔姞を娶らせた。
しかし大叔疾は侍人を送って前妻の妹を誘い出し、犁(衛の邑)に一宮(部屋)を設けて住ませた。それを知った孔圉は大叔疾を攻撃しようとし、孔丘に意見を求めたのは以前述べた。
その後、孔圉は娘の孔姞を奪い返した。
大叔疾は外州(衛の地)でも他の女性と姦通し、外州人は怒って大叔疾の軒(車)を出公に献上した。
大叔疾は妻と車を奪われたことを恥と思い、衛を出て宋に出奔した。
衛は大叔疾の弟・遺に後を継がせ、改めて孔姞を娶らせた。
大叔疾は宋の向魋に仕え、美珠を献上した。向魋はこれを喜び、大叔疾に城鉏(宋の邑)を与えた。
宋の景公がこれを知ると美珠を求めたが、向魋が譲らなかったため、景公に怨まれるようになっら。
三年後に桓氏(向魋)が出奔することになると、城鉏人が大叔疾を攻撃した。恐らく、向魋の党とみなされたためである。
後に衛の荘公が大叔疾を呼び戻し、巣(衛の地名)に住ませた。大叔疾はそこで死に、鄖で殯(葬儀)が行われ少禘に埋葬された。
かつて、晋の悼公の子・憖が衛に亡命したことがあった(いつの事かは分からない)。
憖が自分の娘を僕(御者)にして狩りをした時、大叔(太叔)懿子(太叔儀の孫)が憖を留めて酒を勧め、娘を娶ることにした。これが大叔疾の母である。
大叔疾が家を継ぐと、夏戊(字は丁。大叔疾の同母姉妹の子)が大夫になった。しかし大叔疾が出奔したため、衛人は夏戊の爵邑を削り、家財を奪った。
季孫肥が田賦を設けようとした。
田賦というのは農地の面積によって設けた税役の制度だと思われるが具体的な内容は不明。
魯は紀元前594年に田畝の税を課し、井田制を廃止した。また、紀元前590年には丘甲の制度を作り、兵役の制度も改めた。
今回の「田賦」が税制の改革に当たるのか、軍賦(車馬の供出)の改革に当たるのかは諸説がある。
季孫肥は冉求(孔丘の弟子。季孫氏の宰)を送って孔丘の意見を聞いた。しかし孔丘は、
「私の知ることではない」
と答えた。
三回意見を求めてから、冉求が言った。
「先生は国老です。先生の言葉を待って実行しようとしているにも関わらず、なぜ発言なさろうとしないのでしょうか?」
孔丘は私人として冉求に言っや。
「君子の行いとは、礼によって量るものである。施しは厚く、事を行えば適切であることを元に斂(徴収。賦税)は薄くしなければならない。このように考えると、私が思うには現状の賦税で既に足りているだろう」
ここで原文では「私」の孔丘の名である「丘」となっている。意訳として「私」としたが、この「丘」は井田の十六井の意味で、常法とされた十六井から馬一頭、牛三頭を供出するという制度のことを指しているという説もあり、つまり「丘の制度で既に足りている」という意味になる。
但し、当時は井田制が既に廃止されているため、この説には疑問が持たれている。孔丘の言葉を続ける。
「もしも礼によって量らず、貪冒無厭(貪婪に際限がない)であれば、田賦を行おうとも将来やはり不足するだろう。そもそも、季孫氏が法度に則って行動したいというのであれば、周公の典(法典)があるではないか。逆に、勝手に行動したいのならば、他者の意見を求める必要もないだろう」
季孫氏のやろうとしていることに対して、自分の意見よりも前に周公の典を見てから判断すれば良く、自分は国政に関わっているわけでもない。
季孫肥は反対意見を聞き入れずに行った。
紀元前483年
正月、魯が田賦の制を定めた。
五月、魯の昭夫人(昭公夫人。哀公の嫡母)・孟子が死んだ。孟子は呉の女性である。
当時の女性は通常、名称の後ろの一字を姓にした。「孟子」の場合、呉は姫姓なので「孟姫」、または出身国を前において「呉姫」となるのが通例なのだが、魯も呉と同じ姫姓である。
名目上は同姓の婚姻が禁止されていたため、「孟姫」と称さず、「孟子」と称されたのである。
孔丘が弔問に行った。
季孫氏の家を訪問した時、季孫氏は絻をしていなかった。
絻というのは冠を脱いで頭巾で髪を束ねることで、葬礼の一つである。孔丘は季孫氏が喪に服していないと判断し、絰を脱いで拝礼した。
絰とは麻葛で作った喪服のことである。
当時の葬礼においては、主人が拝礼しても賓客は拝礼しなかった。孔丘が季氏の家を訪ねたため、季孫氏が主人、孔丘が賓客になる。
その主人が喪に服していなかったため、孔丘も葬礼を棄てて季孫氏に拝礼を返したのである。婉曲に季孫氏の非礼を非難していたことになる。