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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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艾陵の戦い

 陳の轅頗(または「袁頗」)は司徒を勤めており、封田(封邑の土地)から税を徴収して陳の湣公びんこうの娘が嫁ぐ時の資金とした。余った税金は轅頗自身の大器(鐘鼎)を造るために使われた。

 

 夏、怒った国人が轅頗を追放した。轅頗は鄭に奔った。

 

 その道中で轅頗は喉が渇いた。すると族人の轅咺が稻醴(米で作った甘酒)、梁糗(乾飯)、腶脯(乾肉)を出した。轅頗が喜びつつも疑問に思った。


「なぜこのように豊富なのだ?」

 

 すると轅咺はこう答えた。


「大器が完成した時、出奔することを予想しており、準備しておりました」

 

 ということは彼は自分がこのような状況になることを予見していたことになる。


「なぜ私を諫めなかったのか?」

 

 轅咺は目を伏せ答えた。


「先に追い出されることを恐れたためです」


 これには轅頗も何も言えなかった。


 

 

 

 

 五月、魯の哀公あいこうが呉軍と合流して郊の戦いの報復のため斉を攻撃した。呉と魯の連合軍は博を占領した。


 そのため斉でそれに対する対応が練られることになったのだが、斉の政権を担う田乞でんきつの元に珍客が来ていた。


 越の范蠡はんれいである。彼はある提案を田乞にするために来ていた。


「呉にわざと負けるか……」


 范蠡が田乞に提案したのはそれであった。もっと具体的に言えば、この敗戦を持って、自分と敵対する勢力の始末を付けたらどうかというものである。


「私は反対です。これは越の利益のみであり、我々に利益がございません。そもそも負ければ父上の名声に傷が付きます」


 そう言って反対したのは田乞の息子・田恒でんかんである。


「なれば、戦に出なければ良かろう」


 田乞は座りながらそう言うに対して、田恒は首を振った。


「父上は斉の重臣です。そうは行きますまい」


「お前は馬鹿だ」


 心配する田恒に田乞はそういった。


「戦に参加しないことなどは用意だ。難しいのは、どのように負け戦を演じるかだ」


 田乞は鼻で笑いながらそう言った。そして、しばらくして思いついたのか立ち上がった。


「ここは弟で良かろう。あとは、これを元にどれほどの利益を出すかだが……」


 彼はブツブツと言いながら、部屋の中を周り、そして立ち止まると言った。


「間者を集め、あれを作るように命じろ。あれとは……」


 田恒は父から耳打ちされた内容に驚きながらも頷いた。


 翌日、斉の宮中は呉への対応策よりも先にあることに夢中であった。


 田乞による贈賄疑惑が浮上し、その証拠が出てきたのである。田氏に不満を持っていた者たちは鬼の首を取ったかのように、田乞を糾弾した。


 斉の簡公かんこうはこの事態に、田乞の謹慎処分を下し、斉との戦いの後に処罰を加えるということになった。


「よろしかったのですか。このような形で……」


「確かにあの様では私が何もしなくとも呉に負けていたかもなあ」


「いえ、そういうことではなく」


「ふん、何を心配してるか。泥に汚れることを恐れていては泥の中の宝石は取れんぞ」


 田恒の心配を他所に田乞はそう言った。









 

 呉の中軍は王に従い、胥門巣しょもんすう(胥門が氏。本来、胥門は呉の城門の名。その付近に住んでいたため、胥門を氏にした)が上軍を、王子・姑曹こそうが下軍を、展如てんじょが右軍を率いた。三人とも呉の大夫である。

 

 斉は国書こくしょが中軍を、高無●(「不」の下に「十」)が上軍を、宗楼(子陽)が下軍を指揮した。

 

 田乞は自分が出れない代わりに弟の陳書ちんしょ子占しせん)に言った。


「汝が命をかけて戦うという功績を立てれば私は志を得ることができるだろう」


(兄上は、この戦でいらないものを呉を使って排除するおつもりか)


 それを国書らに悟られずに負け戦を演じることができる者は自分しかいない。


(私も処分の対象か)


 彼はそう思いながら兄の言葉に頷いた。

 

 宗楼と閭丘明が互いに励まし合い、死力を尽くすことを約束した。

 

 桑掩胥が国書の御者になると、公孫夏が、


「二子(桑掩胥と国書)とも必ず死ぬだろう」


 と言った。

 

 戦いが始まろうとした時、公孫夏がその徒(兵)に『虞殯』を歌わせた。葬送時に歌う挽歌で、決死の覚悟を示す。

 

 陳逆ちんぎゃく子行しこう)は徒に含玉(死者の口に入れる玉)を準備させた。公孫揮こうそんきがその徒に言った。


「皆、尋約(尋は八尺。約は縄。八尺の縄)を持て。呉兵の髪は短いからな」

 

 呉兵の首を取っても髪が短く縛ることができないため、縄を用意させたのである。

 

 東郭書とうかくしょが言った。


「三戦すれば必ずや死ぬだろう。これが三戦目だ(これ以前の二回の戦いがどれを指すのかは不明。少なくとも一回目は恐らく夷儀の戦いと思われる)」

 

 東郭書は人を送って魯の弦多(弦施。魯に出奔した)に琴を譲り、


「二度とあなたに会うことはないだろう」


 と伝えた。

 

 陳書が言った。


「この戦いで、私は戦鼓の音を聞くだけになるだろう。金の音は聞けない」

 

 鼓声は進軍の音、金音は撤退の音である。


 やけに皆、死ぬ前提を持って話している印象がある。そう言った発想になるものばかりを斉は編成したのである。


 裏で糸を引いている者については敢えて誰とは言わない。









 

 呉と斉が艾陵で激突した。展如が率いる呉の右軍が斉の上軍を破ったが、斉の中軍・国書も呉の上軍・胥門巣を破った。

 

 しかし呉王・夫差ふさの兵が胥門巣を援けたため、斉軍は大敗した。

 

 国書、公孫夏、閭丘明、陳書、東郭書が捕えられ、処刑された。

 

 革車(兵車)八百乗、甲首三千(国書等の首も含まれます)が呉軍に従った哀公に贈られた。

 

 戦いが始まる前、呉王・夫差が魯の叔孫州仇に問うた。


「汝の職は何だ?」

 

「司馬を勤めております」

 

 夫差は甲冑と剣鈹(剣の一種)を下賜して言った。


「汝は国君の事(任務)を奉じ、その命を廃すことのないように」

 

 叔孫州仇はこれに応えられないでいると、子貢しこうが進み出て言った。


「州仇は甲(甲冑)を受け入れて国君に従います」

 

 古代で剣を下賜するというのは死を命じたことを意味する。そのため、叔孫州仇はどう答えればいいかわからなかったのである。


 それを見た子貢は甲冑だけを受け取ると答えた。叔孫州仇はほっとして拝礼してから甲冑を受け取った。


「呉王は突拍子もない方だ」


 子貢に対して、叔孫州仇はそう言った。

 

 哀公が大史・を送って国書の首を斉に送り返した。首は新しい篋(箱)に入れられ、玄纁(黒と赤の絹)を敷き、帯で装飾されていた。そして、書信がその上に置かれた。


「天がもし不衷(不正。斉が正しくないこと)を知らなければ、どうして下国(魯)が勝てたであろうか」


 と書かれていた。

 

 国書が死んだのは国書自身の非ではなく、斉の国君に非があるとということである。

 

 また、斉に勝った呉王・夫差が行人・奚斯(呉の大夫)と伍子胥ごししょを派遣して斉に伝えた。


「私は豊富ではない呉の兵を率い、汶水に沿って北上したが、斉の民に略奪暴行を加えないのは恩好(友好)のためである。斉の大夫・国書がその衆庶(兵)を率いて我が軍を侵したが、天が斉に罪があることを知らなければ、どうして下国(ここでは呉。上国は中原諸国を指す)が勝つことができただろう」


 何様のつもりで言っているのかわからない言葉である。


「そうは思わないかね。范蠡殿」


 田乞は書簡を見ながら後ろにいる范蠡に言った。


「全く、南の蛮族というやつらは何を考えているのかわからん」


 彼は首を後ろに向け言った。


「お前のように呉に負けてくれと頼むとかなあ」


「私が勧めましたのは、あなた様にとって邪魔な存在の排除を行う上で、効率の良い方法として提示させていただいたに過ぎません」


 范蠡はそう言いながらも目の前の男が弟まで切り捨てる対象にするとは思っていなかった。


 (恐ろしい人だ)


「都合の良い言葉なことだ。で、次はお前たちはどうするんだ。呉王をますます驕らせ、次は伍子胥辺りか?」


「そうなるでしょう」


 范蠡の答えに田乞は鼻で笑う。


「そうかい。じゃあ一つ教えてあげるとしよう。伍子胥は鮑氏の元に出向いたそうだ。詳しいことは自分で調べよ」


「感謝します」


 彼は田乞に対し、礼を申した。


「勝利とは握りに行くものではなく、既に掴んでいるものだ。そうは思わないかね」


 田乞は笑いながらそう言った。


 そこに田恒が訪れた。


「主上よりの書簡です」


 田乞はそれを開き笑った。


「先の処分はなかったことにする。社稷のため尽くされよか。笑えるな」


 それを見ていた范蠡は、


 (なるほど先の敗戦によって多くの者を失った簡公は謹慎処分を受けていた田乞に縋った。いや縋るよう誘導したと思うべきか)


 彼は田乞の自分の提案から自分の利益に結びつかせたその手腕に舌を巻いた。


 田乞は竹簡を取り出すとそこに文字を書いた。そこにはこのように書かれた。


「臣・乞。主公よりの心遣いに感謝致しますが、政治において罪ある者が再び、高位に登ることは社稷を揺るがす行為でございます。私の願いはただただ、主公の広きお心によって我が息子・恒の地位を保証いただければ幸いというものでございます」


 彼は自らの政権復帰よりも田恒の地位向上を狙ったのである。


 (私の進言を自らの家の利益と引き際における道具されるとは)


 田乞が敵国の臣下でなくと良かったと范蠡はほっとした



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