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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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帰国

 魯が孔丘こうきゅうを呼び戻すために使者を出した頃、孔丘はまだ衛にいた。


 衛の卿・孔圉こうぎょが太叔を攻めようとしており、孔丘に策を問うたが、彼は回答を辞退して家に帰ると、すぐ車の準備をしてこう言った。


「鳥は住む木を選ぶことができるが、木は鳥を選ぶことができないものだ」


 鳥は彼のことを指して、木は衛のことである。つまり衛は住むべき場所ではないという意味である。


 孔圉が孔丘を引き止めようとしたが、丁度、季孫肥が公華、公賓、公林を送って彼に礼物を贈り、帰国を促した。


 孔丘は魯に帰ることにした。







 帰国しようとする孔丘の元に蘧伯玉きょはくぎょくの使者がやってきた。孔丘は使者を招きこう聞いた。


「蘧伯玉殿はどうお過ごしでしょうか?」


 使者はこう答えた。


「主人は知らずに犯してしまう罪を無くそうとしておりますが、中々無くすことができないことを憂いております」


 孔丘は感嘆し、


「主も立派ならば、使者も立派だ」


 それを二回ほど繰り返して言い、蘧伯玉を称えた。


 さて、このようにたたえられた蘧伯玉という人物だが、確かに名臣と呼ばれることが多いが、謎も多い。


 彼は孫林父そんりんほが衛の献公けんこうを攻撃しようとした時に断り、国を出た時ぐらいしか『春秋左氏伝』において言動がない。また、その時点において名臣であるという評価が与えられている。


 彼に関わる逸話としてこのようなものがある。


 衛の霊公れいこうの時代に霊公が蘧伯玉を用いず、弥子瑕びしかを用いることに対し、史魚しぎょが諫めたが聞かないということがあった。


 やがて史魚が病に倒れると彼は息子に対して言った。


「私は生きて君を直すことができなかった。故に死ぬ上で礼を成す必要はない。私の屍を牖(窓)下に置け」


 その後、霊公が史魚の葬式に参列し、そのような状況であったためその理由を問い、史魚の遺言を知ると、彼は過ちを悟り、弥子瑕の代わりに蘧伯玉を登用したという。


 ここでも蘧伯玉の言動は出てこず、彼がどういう人なのかが全くわからない。


 孔丘は史魚を死に際しても諫めることがなかったと述べると同時にこうも述べている。


「直なるかな史魚。邦に道みちあれば矢の如く、邦に道ち無くも矢の如し。君子なるかな蘧伯玉、邦に道みち有れば則ち仕え、邦に道無なければ則ち巻て之を懐にす」


 史魚と共に孔丘が彼に対して絶賛に近い評価を与えている。


 しかしながら史魚が死に際してまで用いらせようとする名臣であり、孔丘が褒め称えるほどの人物であり、孫林父でさえ無視できない存在の割には、蘧伯玉という人はどうも影が薄い。


 さて、蘧伯玉の生き方に関してこう言われている。


「五十にして四十九年の非を知る」


 五十になった時、それ迄の四十九年間を振り返り、反省したという意味である。


 常に努力を重ね続けるという儒教の理想の君子像を思わせるものである。しかし、この評価に対し皮肉を言ったものがいる。


 荘子そうしこと荘周そうしゅうである。彼は蘧伯玉のあり方に対して、始めを是として、終わりに非とした。儒教では過ちを改めないことを過ちとしたが、荘子は過ちだとわかっていることを何度繰り返しているのかと、蘧伯玉を通じて批難したのである。


 ここで注意しなければならないのは荘子が非難したとはいえ、蘧伯玉を儒教の人とするべきではないということである。


 そもそも「五十にして四十九年の非を知る」があるのは、『淮南子』である。これは漢の劉向りゅうきょうに書かれた道教色の強い書物である。


 また、『淮南子』にこのような話がある。


 衛の宰相になった蘧伯玉の元に孔丘の弟子である子貢しこうが出向き、


「どのように国を治めるのでしょうか」


 と聞いた。すると蘧伯玉はこう答えた。


「治めないということを大切にして治めます」


 これは明らかに道教よりの発言である。


 蘧伯玉という人物はたまたま儒教の理想像に合致しただけで、儒教の人ではない。どちらかと言えば、道教人のように感じる。


 このように儒教の人からも道教の人からも一定の評価を与えられている人物というのは珍しい。


 このように過去に残されている言葉から必死に蘧伯玉という人物を掘り下げようとしていると、どうにも荘子に笑われそうである。









 さて、魯に戻ることになった孔丘の話に戻る。


「先生」


 子路しろが魯の都に近づいた時、都の門を指さした。


 門には一人の男が杖を持って、立っていた。


「ああ、左丘明さきゅうめいだ」


 そう左丘明が一人、門の前に立っていたのである。孔丘は車を降りた。身体はよろめきながらも弟子たちに支えられ、門に近づいた。


「左丘明様、孔丘様たちです」


「そうか。冉球ぜんきゅうたちにも知らせよ」


 左丘明はそう言って、杖を付きながら孔丘に近づいた。


「左丘明」


「孔丘、良く帰ってきた」


 二人は互いの無事を称えあった。


「早速だが、主公に会ってもらうが良いか?」


「ああ、わかった」


 孔丘は弟子たちに支えられながら魯の哀公あいこうに会った。


 哀公は政治について孔丘に問うた。孔丘はこう答えた。


「政治の要は臣を選ぶことにございます」


 その後、直ぐに季孫肥の元に移動し、彼が同じ質問をすると孔丘はこう言った。


「実直の者を登用し、曲がった者を廃すべきです。そうすれば曲がった者も実直になりましょう」


 次に季孫肥が盗賊を心配すると、孔丘は、


「あなたが欲を持たなければ、たとえ賞を与えようとも盗みを推奨しようとも、人々は盗みを行わなくなりましょう。民は上の者に感化するものです、上が無欲になれば盗賊もいなくなります」


 と言った。


 これらの会談を終えて、孔丘は左丘明に言った。


「私が用いられることはないな」


 彼は乾いた声で言う。


「そうだな。また、旅に行くか?」


 左丘明の言葉に孔丘はため息をついた。


「私も老いた……弟子のことだけ考えるとしよう」


「そうか……」


 その後、二人は無言であった。


 結局、魯は彼を用いることができず、孔丘自身も出仕を求めなかった。


 ある日、哀公が土地の神を祀るしゃ神木しんぼくについて宰我さいがに問うた。宰我は、


「夏の時代には松を植え、殷の時代には柏を植え、周の時代になってから栗を植えるようになりました」


 と言ってからそれに付け加えてこう言った。


「栗を植えた理由は、罪を犯す者は厳しく罰すると、人民を戦慄させる為であると思われます」


 これを聞いた孔丘は、


「はて、そんな話しは聞いたことがないなあ。りつりつにこじつけたのだろうか。過去の不確かな事柄については、説かず・諌めず・咎めずというのが常識なのだがなあ。それにしても口の減らない奴だ。宰我は」


 と言った。





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