弟子たちと隠者たち
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孔丘は葉を去って蔡に戻りることにした。
途中で長沮と桀溺という二人が肩を並べて田を耕していた。孔丘は二人が隠者(世に出ない賢者)だと思い、子路を送って津(渡し場)への道を問うた。
子路を見た長沮が問うた。
「あの輿(車)の手綱を挽いているのは誰ですかな?」
子路は恭しく答えた。
「孔丘です」
「魯の孔丘ですかかな?」
「そうです」
「それならば津ぐらい知っているではないか」
孔丘は各地を転々としているぐらいだからわざわざ聞くようなことではない。
今度は桀溺が子路に問うた。
「あなたは誰でしょうか?」
「仲由です」
「あなたは孔丘の弟子ですかな?」
「そうです」
桀溺は笑っていった。
「天下の誰もが動乱の中、不安定でいますが、それを誰に変えることができると言うのでしょうか。人を避ける士(暴君乱臣を避けて各地を転々としている孔丘)に従うよりも、世を避ける士(隠者。長沮と桀溺)に従った方がよろしいのではないでしょうか」
二人は津の場所を教えず、農耕を続け、何も言わなくなった。
戻った子路が孔丘に二人と話した内容を話すと、孔丘は失望して言った。
「我々は鳥獣と群を成すことはできないのだ。もし天下に道があるというのなら、私も各地を転々とする必要はないだろう」
動乱の時代だからこそ、自分はこのような道を選んだのだ。幸せな時代ならば、ただ弟子たちに教えを授けるぐらいでこのように旅をし、天下を放浪することはないだろう。
孔丘と隠者の考え方はあまりにも大きく違っていたと言えよう。
後日、子路が一人で道を進んでいると、蓧(竹で編んだ農具)を背負った老人に会った。子路が、
「あなたは先生を見ませんでしたか?」
と問うと、老人はこう言った、
「四体(四肢)を働かせず、五穀もよく知らないにも関わらず、誰が先生か」
老人は言い終わると杖を持って草を刈り始めた。
子路が孔子に会ってこの事を話すと、孔丘は、
「彼は隠者だろう」
と言った。
子路が老人を探しに行ったが、既にいなかった。
孔丘は蔡と陳の国境沿いに移動した頃、呉が陳を攻めた。
陳は楚に急を告げた。
楚の昭王は、
「我が先君は陳と盟を結んだ。援けないわけにはいかない」
と言って陳を救うために出兵し、城父に駐軍した。
昭王はそこで孔丘が陳と蔡の国境に居ると知り、人を送って孔丘を招いた。
「楚王が、私を招いているのか」
孔丘は少し悩んだが、行くことにした。彼が楚の誘いに応じようとした時、陳と蔡の大夫が謀って言った。
「孔丘は賢者である。彼が指摘している内容は全て諸侯の弊害を言い当てている。彼は久しく陳と蔡の間にいたが、諸大夫の行いは彼の意に沿っていなかった。今回、楚が彼を招いたが、もし楚で用いられれば、陳と蔡で政治を行っている大夫の危機となるだろう」
陳と蔡の大夫は協力して徒役を動員し、郊野で孔丘を包囲した。たかが一人のためにやる行為ではない。
孔丘は包囲されたため動きがとれず、食糧も無くなり、弟子達も飢えのため動けなくなった。しかし孔丘は詩を詠んだり琴を弾いて動揺を見せなかった。
子路が怒って問うた。
「君子も困窮するですか」
孔丘は毅然とした態度で、
「君子は困窮するものだ。しかし動揺はしない。小人は困窮すれば節度が無くなるものだ」
子貢も顔色を変えた。それを見て孔丘が問うた。
「賜(子貢の名)よ、汝は私が多学で博識だと思うか?」
「はい。間違いでしょうか」
「違う。私は一つの観点を貫いているだけに過ぎない」
孔丘は弟子達の不満が溜まっていると思い、まず子路を招いて問うた。
「『詩(小雅・何草不黄)』にはこうある『犀でも虎でもないにも関わらず、荒野をさまよう』私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
子路はこう答えた。
「我々の仁がまだ足りていないために、人々は我々を信じないのでしょう。我々の知がまだ足りていないために、人々は我々を包囲して進ませないのでしょう」
孔丘は首を振り言った。
「そのような事があるだろうか。由よ、もし仁者が必ず信用されるというのであれば、なぜ伯夷と叔斉は死んだのだ。もし知者が困窮することがないというのならば、なぜ王子・比干は殺されたのだ?」
先に子路に対して言ったことと同じでどんな立派な人間も苦しむものだと彼は言ったのである。
子路が退席してから次に子貢が孔丘に会った。孔丘は子路の時と同じ問をかけた。
「賜よ、『詩』にはこうある『犀でも虎でもないにも関わらず、荒野をさまよう』私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
子貢はこう答えた。
「先生の道が大きすぎるために、天下が先生を許容できないのでしょう。先生は少し屈したら如何でしょうか?」
妥協する必要もあると彼は言ったのである。
孔丘は首を振り言った。
「賜よ、良農(優れた農民)が農業に励んだとしても、豊作になるとは限らないものだ。良工(優れた工匠)が技巧をこらそうとも、必ず人々の賛同を得られるとは限らないものだ。君子は道を修めることができ、綱(法度)によって国の規範を作り、統(系統。準則)によって国を治めるものだが、人々に許容されるとは限らないものだ。今、汝は汝の道を修めず、人々に許容されることを求めている。だがな賜よ、汝の志は遠くない(小さい)のではないか」
子貢は優秀であるがために直ぐに限界というものを見極めてしまうところがある。それでは成長がなくなってしまうため、孔丘は彼にこのような言葉を言ったのである。
子貢が退出してから顔回が孔丘に会った。孔丘は再び問うた。
「回よ、『詩』にはこうある『犀でも虎でもないにも関わらず、荒野をさまよう』私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
顔回はこう答えた。
「先生の道が大きすぎるために、天下に許容できないのでしょう」
これは子貢と同じ言葉である。しかし、ここから彼は子貢とは違う発想となる。
「しかしそうだとしても、先生はそれを推し進めるべきです。許容されないことを悩む必要はございません。許容されないからこそ、君子とみなされるのです。ならば道を修めないことこそ恥辱とするべきです。道を修めて既に大きくなり、そのために用いられないのだとすれば、それは国を擁する者の恥です。許容されないことを悩む必要はございません。許容されないからこそ、君子でいられるのです」
喜んだ孔丘は笑って言った。
「その通りだ。顔氏の子よ、もし汝に豊富な財があれば、私は汝の宰(財を管理する者)になるだろう」
記録上、孔丘とこの時、問答したのは三人だけだが、恐らく他の弟子たちとも同じようなことをしていると思われる。この状況の中、弟子一人、一人と問答するのは彼ぐらいであろう。
しかし、ただ耐えているだけでは状況を打開できないため、孔丘は弁舌に長けている子貢を楚に送った。
昭王は子貢を迎え入れると兵を起こして孔丘を助けたため、陳・蔡の大夫による包囲が解かれた。
「さて、楚へ向かうか」
孔丘らが楚へ向かうことにした。




