宰我
紀元前489年
孔丘が蔡から葉(楚の邑)に入った。
葉公・諸梁(楚の大夫)が彼を迎え入れ、彼に政治について問うた。すると孔丘はこう答えた。
「政治の秘訣は、遠くの賢人を招き、近くの者を帰服させることにございます」
その言葉を近くで聞いていた子貢が孔丘に訪ねた。
「以前、斉君(斉の景公)が先生に政治について質問された時、先生は『政治の要は節財にある』とお答えになったと聞いています。また、魯君(魯の定公が質問された時は『政治の要は臣下を理解することにある』とお答えになりました。そして、今回、葉公が質問された時は、『遠くの賢人を招き、近くの者を帰服させることにある』とお答えになりました。三者の問いは同じであるにも関わらず、なぜ先生のお答えは異なるのでしょうか。政治には違いがあるのでしょうか?」
孔丘は言った。
「それぞれにやり方があるのだ。斉君が国を治める時は、台榭(楼台)を多数建造し、苑囿で遊び、五官(目耳鼻舌身のこと)伎楽が休むことなく、一朝に千乗の車を賞賜として三家に与えたこともあった。だから『政在節財』と言ったのだ。魯君には三人の臣下(三桓)がいたが、三人は国内で結束してその君をないがしろにし、国外では諸侯の賓客を拒み、その明察を覆っていた。だから『政在諭臣』と言ったのだ。楚は国土が広いが都は狭く、民は離心して居住を安定させていない。だから『政在悦近而来遠』と言ったのだ。三国は状況が異なるために政治も異なって当然ではないか。『詩』にはこうある『国が乱れて国庫が空になったというのに、我が民衆を救済しようとしない(『大雅·板』)』これは奢侈不節によって国を乱した者を憐れんでいるのである。またこうもある『臣下が職を守らず、王の憂いとなる(『小雅・巧言』)』これは奸臣が主を覆って乱を招くことを憐れんでいるのである。そしてこうともある『乱離に苦しむ。どこに帰れば良いのだろうか(『小雅・四月』)』これは民衆が離散して乱を招いた者を憐れんでいるのである。この三者をみれば、政治が必要とすることが同じではないと分かるだろう」
後日、葉公が孔丘について子路に問うた。しかし子路はどう答えればいいか分からず、何も話すことはなかった。
それを知った孔丘は彼を招き言った。
「由(子路の名)よ。お前はなぜ『あの人は道を学びながらも飽きることなく、人に教えて厭うことなく、学問に発奮すれば、食事も忘れて楽しい時には、憂いを忘れ、老いが迫っていることも知らないほどである』と言わないのか」
自分というものをこのような表現を持って、他者に示すことができるのは、彼ぐらいだろう。
それから数日後、葉公が孔丘らを呼び言った。
「楚王に使者を出すのだが、その使者にあなたの弟子の方々を使わしていただきたいのですが、よろしいか?」
「構いません」
「では、誰か適当な者を推薦していただきたい」
孔丘の後ろで控えていた弟子たちは皆、子貢が選ばれると思った。弟子の中で最も弁舌に長けた人物だからである。
だが、孔丘が推薦したのは子貢ではなかった。
「では、宰我を推薦いたします」
弟子たちは師の推薦を意外に思えた。
宰我という人物は孔丘の弟子の中では異質な人物である。怠け者で、道徳を軽視するところがあるからである。そのため子路とは別の意味で手のかかる弟子の一人であった。
ともかく宰我が楚の昭王の元に葉公の使者として出向いた。
要件は簡単な報告のみであったが、謁見した宰我に対し、昭王は言った、
「君は孔丘の弟子の一人であると聞いている」
「はい、左様でございます」
「君の師の名声はこの楚にも届いていてね。そこでそれを尊重してこれを君の師に贈ろうと思うのだが、これで良いかい?」
昭王は象牙で装飾した安車(小車)を見せた。しかし宰我は、
「先生はこのような物を必要としておりません」
と断った。
「何故だい?」
昭王は彼の言葉に興味を覚え、理由を問うた。すると彼はこう答えた。
「先生の様子を観察しておりますとそのことがわかるのです」
「もっと詳しく話を聞きたいな」
昭王が詳しく説明を求めると宰我は、
「私が先生に従うようになってから観てきた姿は、発言は道から離れることがなく、行動は仁から違えることがなく、義と徳を尊び、清素で倹約を好み、士官して俸禄を得ようともそれを蓄えることなく、道に合わなければ去り、退いても吝心(恥辱と思う心)を持ちません。その妻は綵(彩色の服)を着ず、妾は帛(絹の服)を着ず、車器(車や器物)には装飾がなく、馬は粟を食べず、道が行われていればその政治を楽しみになり、行われていなければその身(自分のやるべきこと)を楽しんでおります。これが先生です。麗靡(華美)を目にし、窈窕の淫音(礼から外れた音楽)を耳にしようとも、先生は度が過ぎていれば、視ることも聞くこともございません。だから私には先生がこの車を必要としないと分かるのです」
と言った。
「なるほど、それならば、先生が欲しているのは何かな」
「今の天下は道徳が廃れております。先生の志はそれを復興させて行わせることにございます。天下に正しく政治を行おうとする国君がいて、道を成すことができるようであれば、先生は歩いてでも朝見に行くことでしょう。このようでありますので、遠く離れた国君の重貺(厚い賞賜)を必要とすることはございません」
昭王は頷き言った。
「君の師の徳は大きいなあ」
帰った宰我がこの事を孔丘に話すと、孔丘が弟子達に問うた。
「二三子(汝等)よ、我の言をどう思う?」
子貢が真っ先に答えた。
「まだ先生の美を語りつくしているとは言えないでしょう。先生の徳の高さは天に匹敵し、深さは海に匹敵します。宰我の言は行動の実(事実)を述べているだけに過ぎません」
孔丘は首を振り言った。
「言とは、実(真実)があるから人を信じさせることができるのだ。実を棄てて何を称すことができるだろうか。賜(子貢の名)の華(美辞)は我(宰我)の実に及ばない」
言葉は何でもかんでも飾り付ければ良いというわけではない。言葉というものは飾り付けが度を超すと、却って伝えたいことを隠してい、まるで媚びたような言葉になってしまう。それでは意味がない。
宰我は決して弟子としては、孔丘の教えに対して、従わない部分が多いものの、物事の本質をしっかりと見据えようとする目を持っている。
孔丘はそれを愛した。
(しかし、楚王か)
宰我の話を聞く限り、昭王は良質の君主に見える。
だが、孔丘は彼が楚の王であるということが二の足を踏ませた。
彼は結局、蔡へ戻ることにした。