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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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趙氏の名臣たち

 紀元前490年


 晋が柏人(栢人)を包囲した。

 

 かつて范氏の臣・王生おうせい(または「王勝」)は張柳朔ちょうりょうさく(または「長柳朔」。張柳が氏)を嫌っていたが、士吉射に張柳朔を推挙して柏人の宰にさせた。

 

 士吉射が、


「汝は彼を讎(敵)としていたのではないか」


 と問うと、王生はこう答えた。


「私の個人的怨みは公に及ばず、好きな相手でも過ちを見逃すべきではなく、嫌っても善を排さないもの、これが義の経(道理)というものであり、私には背くことができませんでした」

 

 范氏が柏人から出奔した時、張柳朔は自分の子にこう言った。


「汝は主に従い、努力せよ。私はここに留まって死ぬ。王生が私に死節の機会を与えてくれたのだから、信を失うわけにはいかないのだ」

 

 張柳朔は柏人で最後まで抵抗し、死んだ。


 荀寅と范吉射は斉に奔り、趙氏が邯鄲(前年)と柏人を領有することになり、范氏と中行氏の他の邑は晋公室の管轄下に置かれた。

 

 范氏と中行氏を倒した趙氏は権力を拡大し、趙鞅は名義上は晋卿であるものの、実際は晋の政権を専らにし、封邑は諸侯に匹敵するほどになった。

 

 荀寅が出奔する時、太祝(名は簡)を責めて言った。


「汝は私のために祭祀を行ってきたが、犠牲が充分ではなかったのではないか。それとも斎戒の内容が不敬だったとでも言うのか。私を亡命させることになったのはなぜか」


 とんでもない責任転嫁である。祝簡はこう答えた。


「昔、我々の先君・荀呉じゅんご様は皮車が十乗しかなくてもそれを少ないとして憂いず、徳義が足りないことを憂いておりました。今、主は革車百乗を持っていますが、徳義が薄い事を憂いず、車がまだ足りないことを憂いております。舟車の装飾のためには賦税を厚くしなければなりません。賦税を厚くすれば民の怨詛を招きます。主は祝(福を求める祈祷)が国に勝ると思っておいでなのでしょうか。怨詛は主の亡命を望んでいます。一人が祝しているのに対して一国が詛せば、一祝は万詛にかないません。亡命するのも当然ではないでしょうか」

 

 荀寅は自らの発言に後悔した。

 

 また、彼が出奔した時、県邑(県という邑。県は地名)を通った。従者が言った。


「ここの嗇夫(地方官)は公の旧知でございます。なぜここで休んで後続の車を待たないのでしょうか?」

 

 荀寅は首を振って言った。


「私はかつて音楽を好んだ。するとここの者は鳴琴(琴)を贈ってきた。私が珮を好むと、ここの者は玉環を贈ってきた。これらが私の過ちを増長させてきたのだ。私に阿諛して迎合しようとした者は、私を利用して他の者の歓心を求めようとするかもしれないではないか」

 

 彼はそのまま去った。その後、県邑の者たちは荀寅の後続の車を二乗奪って晋君に献上した。荀寅の言うとおりであった。

 

 范氏と中行氏を遂に破った趙鞅は、


「范氏と中行氏の良臣を得たいものだ」


 と言った。すると傍に仕えていた史黯(太史・墨。趙氏の史)が言った。


「彼等を得て主はどうなさるおつもりでしょうか?」

 

「良臣とは誰でも欲するものではないか。汝は何を問うのか?」

 

 史黯は首を振り言った。


「私は彼等が良臣ではないと思っております。君に仕える者は、君の過ちを諫め、善を勧め、可を薦めて否を除き、己の能力を発揮して賢人を推挙し、人材を選び推薦し、朝夕とも善悪成敗の道理を語って聞かせるものです。文徳を述べ、順(秩序。道理)に基づいて行動し、力を尽くしながら勤めて命を捧げ、進言が採用されたら仕え、受け入れられなければ退くものです。今、范氏と中行氏の臣はその君を正すことができなかったために難を招きました。君が出奔して国外にいるにも関わらず、安定させることができず、逆に君を棄てるような者たちを良臣と言えましょうか。もし彼等が自分の君を棄てなければ、主が彼等を得ることはできません。二子の良臣はその君のために策謀し、国外で再起させ、死ぬまで従うはずだからです。彼等がどうして来ることができたでしょうか。もしもここに来るようならば、それは良臣と言えません」

 

 趙鞅は納得し、


「わかった。私の言が誤りであった」


 と言った。

 

 ある日、趙鞅はため息をついた。


「雀は海に入って蛤となり、雉は淮水に入って蜃となるという。黿(大すっぽん)も鼉(鼉龍。鰐の一種)も魚鱉すっぽんも変化しないものはないのに、ただ人だけが変化できないとは、哀しいではないか」

 

 すると傍に仕えていた大夫・竇犨が言った。


「君子は人がいないことを哀しみ、財貨が無いことを哀しまず、徳が無いことを哀しみ、寵が無いことを哀しまず、美しい名声がないことを哀しみ、長寿ではないことを哀しまないものです。范氏と中行氏は庶難(国民の難)を顧みず、国の政治を専断しようとしましたが、その結果、その子孫は斉で田を耕すことになりました。かつては宗廟の犠牲を祭る立場にいた貴族であったというのに、今は畎畝(農地)の勤に従事しているのです。これが人の変化と言えましょう。なぜ変化が無いと言えるのでしょうか。私たちは一層、注意が必要な立場におります」


「そのとおりだ」


 と、趙鞅は頷いた。

 

 ある時、子路しろ孔丘こうきゅうに問うた。


「どのように国を治めるべきでしょうか?」

 

 すると孔丘は、


「賢人を尊び、不肖を蔑むべきだ」

 

 と言った。すると子路は再び問うた。


「范氏と中行氏は賢人を尊び、不肖を蔑みましたが、亡命することになりました。何故でしょうか?」


 孔丘の言葉通りのことを彼らはやっていたというのに、滅んだではないかということである。しかし、孔丘からすれば、彼らは言葉通りのことをしたとは言えない。

 

「范氏と中行氏は賢人を尊ぶものの用いず、不肖を蔑むも除くことができなかった。賢者は自分が用いられないと知ると怨み、不肖の者は自分が蔑まれていると知ると仇とするものだ。賢者が怨み、不肖の者が仇としたのだ。怨と仇を共に前にしたのだから、范氏と中行氏が亡びたくないと思っても、無理ではないか」






 主の間違いを直ぐ様、正すことができる名臣たちが趙氏の元にはたくさんいた。


 趙鞅には尹綽(尹鐸)と赦厥という家臣がいた。

 

 ある日、趙鞅は言った。


「赦厥は私を尊重してくれている。衆人の中で私を諫言することがないからだ。一方、尹綽は私を尊重していないと言える。いつも衆人の中で私を諫言するからだ」

 

 すると尹綽は言った。


「彼は君の醜(面子)を重視しておりますが、君の過(過失)を重視しておりません。私は君の過を重視していますが、君の醜を重視していないのです」

 

 これを聞いた孔丘は尹綽を称えた。


「君子と言える。尹綽は大衆の面前で欠点を述べるだけで美点を褒めようとしない十物だ」

 

 趙鞅はそんな尹綽に晋陽を治めるように命じた。


「必ず塁培(城外に造られた営塁の壁)を破壊せよ。私が見に行った時にまだ塁培があれば、荀寅と范吉射が居るのと同じことだと思え」

 

 営塁は荀寅と范吉射が趙鞅を包囲した時に造ったものだったため、趙鞅は二度と見たくなかったという個人的な理由で彼は破壊を命じていた。

 

 ところが晋陽に入った尹綽は営塁を更に大きくした。

 

 その後、晋陽に来た趙鞅が営塁を見ると激怒し、


「尹綽を殺してから城内に入る」


 と宣言した。

 

 大夫達が諫めても趙鞅は聞き入れず、こう言った。


「これは私の讎(仇)を顕揚して私を辱めようとしているのだ」

 

 その言葉を聞き、大夫・郵無正(郵良伯楽。伯楽は字)が進み出た。


「昔、先主の趙武ちょうぶ様は幼い時に難に遭われ、姫氏(荘姫)に従って公宮に入りました。その後、孝徳によって公族大夫に抜擢され、恭徳によって卿の位に登り、武徳によって正卿に進み、恩徳によって名誉を成されました。幼い頃に難に遭ったため趙氏の典刑(常法)を受け継ぐことなく、師保(貴族に教育を行う官員)を得ることもありませんでしたが、趙武様、ご自身の修養によって先人の業を回復できました(趙氏を復興しました)。先君・趙成ちょうせい様も公宮で成長し、師保の教訓を受けることなく後嗣に立たれましたが、自分の身を修めて先人の業を受け継ぎましたので、国内で先君を謗る者はいませんでした。先君は徳によってあなた様を教育し、言を選んであなた様に教え、師保を選びあなた様を導かせました。今はあなた様が位を受け継いでおりますが、趙武様の典刑があり、趙成様の教訓があり、更に師保がおり、父兄(同宗の年長者)に守られております。それなのにあなた様はこれらを全てないがしろにし、今回の難を招こうとなさっています。尹綽はこう申しております。『楽を想って喜び、難を想って恐れるのは人道である。塁培を師保にすることができると言うのであれば、なぜそれを増築しないのか』と、塁培を増築することで戒めの鑑となり、趙氏の宗族を安定させることができるのです。もし彼を罰すれば、善を罰することになり、善を罰すれば悪を賞することになります。そのような状態で我ら家臣に何を望むのでしょうか」

 

 趙鞅はこの諫言に喜んで、


「汝がいなかったら私は人ではなくなっていた」


 と言い、尹綽を賞した。

 

 さて、諫言を行った郵無正は実は昔から尹綽と対立していた。今回、尹綽は賞賜を伯楽氏(郵無正)に贈ってこう言った。


「あなたが私の死を免じさせてくれたのだ。禄(賞賜)を譲らないわけにはいかない」

 

 しかし郵無正は、


「私は主のために図ったのです。あなたのためではございません。怨みは怨みです」


 と言って受け取らなかった。

 

 趙鞅が螻(晋国君の園囿)で狩りをしようとした。それを聞いた史黯が猟犬を連れて螻の門で待った。趙鞅が史黯を見て言った。


「何をしているのだ?」

 

「猟犬を得たため、この囿で試そうと思ったのです」

 

「なぜそれを報告しなかったのだ?」

 

「主君の行動に臣下が従わないのは不順(礼に背くこと)でございます」


 つまり臣下というものは主君の行動を真似するものであるという意味である。


「今回、主は螻に向かいましたが、麓(国君の園囿の管理者。ここでは国君)に報告することはありませんでした。だから私も当日(直日官。趙氏の官署の宿直。ここでは趙鞅)に報告して煩わせることを避けたのです」

 

 趙鞅は引き返した。

 

 趙鞅の家臣に少室周という男がおり、彼は車右になった。ある日、同じく趙鞅の家臣・牛談に勇力があると聞き、少室周が戯(角力。力比べ。格闘技の一種)を要求したが、負けてしまった。


 少室周は車右の職は牛談の方が相応しいと考え、彼に譲ろうとした。

 

 趙鞅はこれを称賛し、少室周を家宰に任命して言った。


「賢人を理解して譲ることができるのだから、人を教え導くこともできるだろう」

 

 ある日、趙鞅が大夫・荘馳茲(呉出身)に問うた。


「東方の士で誰が最も優れているだろうか?」

 

 すると荘馳茲は拝礼して彼を祝福し始めた。


「私の問いに答えていないにも関わらず、何を祝福するのだ?」

 

 荘馳茲は言った。


「国家が振興する際、君子は自分が足らないと思い、国家が亡ぶ際、自分に余りあると思うものです。今、主は国政を任されながら私のような小人に質問し、しかも賢人を求められました。だから祝福したのです」

 

 以前、仏肸ふつきつが中牟県で叛したことを書いた。


 彼は禄邑(俸禄・食邑)を設け、炊鼎(料理用の鼎)を置いてこう宣言した。


「私に協力する者には食邑を与えるが、協力しないものは煮殺すだろう」

 

 中牟の士は次々に仏肸に従っていった。

 

 しかし城北の餘子(嫡長子以外の子)・田基でんきだけは従わず、衣を捲りあげると鼎に入ろうとして言った。


「義者は軒冕(卿大夫の車と冠。転じて官位爵禄)を前にしようとも義が無ければ受けず、斧鉞(刑具)を後ろにしようとも義があれば死を避けないものだ」

 

 仏肸はそんな田基を押し留めた。

 

 後に趙鞅が中牟を攻めて攻略し、功績がある者を賞した。その際に田基が筆頭に選ばれた。しかし彼はこう言った。


「廉士(廉潔の士)は人を辱めないものだ。もし私が中牟の功(褒賞)を受け取れば、中牟の他の士が終生慙愧することになる」

 

 田基は母を負ぶって南の楚に遷った。


 楚王は田基の義を褒め称えて司馬に任命したという。

 

 

 

 

 

 

 


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