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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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越王の帰還

 紀元前491年


 孔丘こうきゅうが蔡に移った二月、蔡で事件が起きた。


 蔡の昭公しょうこうが呉に行こうとしたため、諸大夫は昭公が再び国を遷すのではないかと畏れた。


 そのため諸大夫たちは昭公を止めるために後を追った。その中の一人、公孫翩が矢を射たため、昭公は家人(庶民の家)に入って死んでしまった。


 国君を殺すなど全く考えていなかった諸大夫たちは昭公を殺した公孫翩を捕えようとした。しかし公孫翩が二本の矢を持って昭公を殺した家の門前に立つと、誰も前に進まなくなった。


 すると遅れて文之鍇が来て言った。


「壁のように並んで進めば、殺されるのは多くても二人だけである(公孫翩の矢が二本しかないため)」


 文之鍇が弓を持って先を進むと、公孫翩が矢を射た。矢は文之鍇の肘に中ったが、二発目を射る前に文之鍇が公孫翩を殺した。


 公孫辰(公孫翩と関係があったようです)が呉に出奔した。


 蔡は成公、または景公を立てた。


 夏、蔡は大夫・公孫姓(公孫帰姓)と公孫霍(どちらも公孫翩と関係があった)を殺した。





 その頃、楚は夷虎(楚に背いた蛮夷)を破り、北方への進攻を考えていた。


 まず、左司馬・眅、申公・寿餘、葉公・諸梁(三人とも楚の大夫)が負函(地名)に旧蔡地の人を集め、繒関に方城外の人を集めてこう言った。


「間もなく呉が江(長江)をさかのぼり、郢(楚都)に攻めて来るだろう。汝等は命のために奔走せよ」


 楚は呉に備えると宣言して一晩で戦の準備をさせ、翌日、梁と霍を急襲した。どちらも戎蛮子(または「曼子」)の邑である。


 楚の大夫・単浮餘が蛮氏を包囲し、蛮氏を壊滅させた。蛮子・赤は晋の陰地に奔った。


 左司馬・眅は豊と析の兵と狄戎を集めて上雒に迫った。左師が菟和山に、右師が倉野に駐軍し、陰地の命大夫(周王か晋侯が直接任命した大夫。陰地は晋南部の要道だったため、命大夫が守っていた)・士蔑しべつにこう告げた。


「晋と楚には盟約があり、好悪を共にすると約束された。それを廃さないことが、我が君の願いである。そうでなければ、少習山を通って命を待つだろう」


 少習山の下には武関があり、ここを抜ければ秦と通じることができる。楚と秦が協力したら、東は陰地を取り、北上して黄河を渡り、晋都を脅かすことができるようになる。


 士蔑は使者を趙鞅ちょうおうの元に送って指示を仰ぐと、趙鞅はこう言った。


「我が国はまだ安定していないから、楚との関係を悪化させるわけにはいかない。速やかに蛮子を楚に譲れ」


 そこで士蔑は九州の戎(晋の陰地の戎)を招き、


「田(土地)を割いて蛮子に与え、蛮子のために城を築く」


 と宣言した。築城の場所を卜うと称して蛮子を招いた。しかし蛮子が卜を聞きに行くと、五人の大夫と共に捕えられてしまった。


 晋は蛮子と五人の大夫および三戸(地名)を楚に譲った。


 楚の左司馬・眅は、


「蛮子を宗主に立てて邑を作る」


 と偽って戎の遺民を招き、遺民が集まると全て捕えて帰国した。


 悪意に満ちたやり方と言える。


 七月、斉の田乞でんきつ、弦施(弦多)と衛の甯跪が晋に背いた范氏を援けるため五鹿を包囲した。


 九月、それに負けじと趙鞅は邯鄲を包囲し、十一月、ついに邯鄲を陥落させた。


 荀寅と士吉射は鮮虞に奔り、趙稷は臨(晋領)に奔った。


 十二月、斉の弦施が臨に行き、趙稷を迎えた。臨の城壁は取り潰された。


 斉の国夏が晋を攻めて邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を取り、鮮虞で荀寅、士吉射と会して柏人に迎え入れた。








 越王・勾践こうせんが呉に服従してから三年の月日が経った。

 

 呉はついに彼を帰国させた。

 

 勾践の帰国に国民は大いに喜んだ。帰国した勾践が直ぐ様に范蠡はんれいに会って問いかけた。


「どうやって節事(政治を改める事)するべきか?」

 

「節事の者は地(大地)に倣うものでございます。地だけは万物を包容して一つと見なし、時を失うこともありません。地は万物を生み、禽獣を育て、その後、名(功名。名誉)を受けて、万物から生まれる利を得ることができます。美悪が共に有り、人々はそれらによって養われているのです。時が至っていないようならば、無理に生むことはありません。万物の生育には時の法則があるからです。事が極まっていなければ、無理に成すこともできません。物事は極まったら変化するのです。地に倣うというのは、居るべき場所に自然な姿でおって天下を観察し、時機が来くれば正し、時宜に応じて安定させることをいうのです。国君は男女の功(男女の労動。農耕と織物)を共にし、民の害を廃して、天殃(天災)を除かなければなりません。また、田野を開拓し、府倉(倉庫。貨財を入れる場所は府。穀物を入れる場所は倉)を満たして民衆を栄えさせなければなりません。民衆に曠(暇)を与えなければ、乱梯(叛乱の階段)は作られません。時(天時)は転換するものであり、事(人事)には間(隙)が生まれるのです。天地の恒制(法則)を把握していれば、天下が築いた利を得ることができます。事に間が無く(呉に隙がなく)、時に転換の兆しが無い間は、民を按撫し、教えを守らせて機会を待つべきです」

 

 勾践は越の父母兄弟(民衆)を集めると、こう誓った。


「古の賢君は、四方の民が帰順し、その様子は水が自然に下に流れるようであったという。今、私にはその能力が無いが、二三子夫婦(汝等の家族)を率いて繁栄させるつもりである」


 その誓に国民は一斉に喜びの声を上げた。

 

 先ず、勾践は婚姻に関する制度を作った。


 壮年の男は老婦を娶ってはならず、老齢の男が壮年の妻を娶ることも禁止し、女子が十七歳になっても結婚しなければ、その父母は罪を問われ、丈夫(男)が二十歳になっても結婚しなかければ、同じようにその父母が罪を問われるというものである。


 そして、分娩が近い妊婦は官に報告させ、官は医者を派遣して出産を援けさせた。丈夫(男児)が産まれたら酒二壺と一頭の犬が贈られ、女子が産まれたら酒二壺と一匹の豚が贈られ(犬は陽性、豚は陰性とされている)、三つ子が産まれれば、国が乳母を手配し、双子が産まれれば、国が必要な食糧を支給した。

 

 当室(嫡子)が死んだ家は三年間、徭役を免除した。当時の礼では、嫡子が死んだら父は三年の喪に服すことになっていた。その他の子が死んだ場合は、三カ月の徭役を免除した。

 

 勾践はこれらの葬儀に自ら参加し、自分の子が死んだ時のように哭泣した。

 

 孤子(孤児)、寡婦、疾疹(親に疾病・障害がある家庭)、貧病(貧困に悩む家庭)は、子を官に入れさせ、国が養った。

 

 達士(名士)に対しては清潔な館舎を提供し、充分な服食を与えて、勾践自ら彼等と義(正義。道理)に関する見識を磨いた。

 

 四方から集まった士は必ず廟で接待し、先君に賢士を得たことを報告を行う。

 

 彼は稻と脂(油)を載せた舟で各地を巡行し、流浪している若者達にそれらを与えて名を記録した。後に彼等を用いるためである。

 

 勾践は自分が植えた食物でなければ食べず、自分の夫人が織った服でなければ着なかった。


 また、十年間、国民から税を取らなかったため、民に三年分の食糧の蓄えができた。

 

 勾践は再び范蠡を呼び言った。


「私の国はあなたの国でもある。あなたに政治を図ってもらいたい」

 

 范蠡は拝礼して答えた。


「四封の内(国境内)で、百姓を治め、時節の三楽(春・夏・秋、三つの季節の労動や遊楽)を管理し、民功(民の労動。農事)を侵さず、天時に逆らわず、五穀を実らせ、民を繁栄させて君臣上下を満足させることにおいて、私は種(文種ぶんしょう)に及びません。しかし四封の外(国境外)で、敵国に対する策を練り、事を決断して、陰陽の法則や天地の常に則り、柔らかくても屈せず、強くても硬くならず、徳虐(徳は賞賜や懐柔。虐は処罰、討伐)を行って、それを常(天の法則)に則らせ、死生を天地の刑(法)に則り、天が降す福禍は人が根拠とし、聖人の行動は天象が根拠を持たせ、人の行動によって天地が吉凶の象を表し、聖人は吉凶の象によって事を成し、こうすることで敵を破ろうとも敵は報復できず、土地を取っても取り返されることなく、兵が外で勝利して福が内に生まれ、小さな力を使い、名声を明らかにすることができる。こういった方面では、彼は私に及びません」

 

 勾践は、


「わかった」


 と言って文種に内政を委ねた。


 また、勾践は強い兵を作ろうと考えて、どうするべきかを范蠡に問いかけた。


計然けいぜん殿が詳しいでしょう」


 と言ったため、勾践は計然を招いた。計然は言った。


「戦闘があると知れば、準備をして、時に応じて物資を用いることができれば(いつ物資が必要になるかを把握できれば)、物(物資・商品の本質)を知ったことになります。この備えることと物を知ることが明らかになれば、万貨の状況をはっきりと観ることができます。歳星(木星)が金(西)に居る時は穰(豊作)となり、水(北)にいる時は毀(不作)となり、木(東)にいる時は飢となり、火(南)にいる時は旱となります。旱になれば舟を蓄え、水(雨季)になれば車を蓄える。これが物の理です。通常は六歳(六年)で穰となり、六歳で旱となり、十二歳で一大飢となります。糶(米の売値)が二十(恐らく二十銭)なら農民が困窮し、九十なら商人が困窮するものです。商人が困窮すれば、財が流れず、農民が困窮すれば、農地が荒廃することになります。上は八十を越えず、下は三十を下らなければ、農末(農民と商人)共に利を得て、糶(米価)が公平になり、他の物価も安定し、関市の物資が欠乏しなくなります。これぞ治国の道です。物資の蓄積の道理とは、完物(品質が良い物)を求め、貨幣の流通を停滞させないようにすべきです。物相貿易(物資の売買)では、痛みやすい貨物は留めず、敢えて高値にせず、余剰と不足を観察して、貴賎(物価の高低)を知るようにせねばなりません。高値が極まれば安くなり、安値が極まれば、高くなるものです。よって高くなったら糞土のように惜しまず売り出し、安くなれば、珠玉のように大切に保管する。財幣(物資と貨幣)の流通は水が流れるようにするべきです」

 

 勾践は計然の教えに従って国を治め、十年で国を富ませて、戦士を厚くもてなした。そのおかげで戦士は争って矢石に立ち向かうようになるほどの強兵となることになる。


 越の富国強兵が始まった。



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