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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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敬姜

 公父歜の母は敬姜けいきょうという。


 魯の正卿・季孫肥きそんひが敬姜に問うた、


「主(大夫とその妻を「主」と呼ぶ。ここでは穆伯の妻で文伯の母にあたる敬姜を指す)には私に授ける言葉はありません」

 

 敬姜は、


「私は既に年老いたため、あなたに教えるようなことはありません」

 

「そうだとしても、私は主の教えをお聞きしたいです」


 と季孫肥が食い下がると、敬姜は言った。


「先姑(「姑」は夫の母。既に死んでいるため「先姑」という)がかつてこうおっしゃっていました。『君子が労すことができれば(位が高くなろうとも驕らず、勤勉に努めることができれば)、後世が途絶えることはない』」

 

 子夏しか卜商ぼくしょう孔丘こうきゅうの弟子)がこの話を聞くと彼女を称えた。


「すばらしい。古では嫁ぎ先に行った際に舅姑(夫の両親)が他界していたら不幸だと言われていた。妻に教え諭す年長者がいないからである。婦人というのは、舅姑から学ぶものだ」

 

 ある日、公父歜が南宮敬叔(南宮説)を宴に招き、同じく大夫の露睹父を上客にした。

 

 しかし出されたすっぽんの料理が小さかったため、露睹父が怒って言った。


「鱉が成長してから食べに来る」

 

 露睹父はそのまま退出した。

 

 この出来事を聞いた敬姜は息子を呼びつけを叱った。


「先子(夫の父。季悼子)がかつておっしゃっていました。『祭祀においては尸(神霊の代わりに祭祀を受ける者)をもてなし、宴席においては上賓(上客)をもてなさなければならない』鱉の料理は何の礼節に従ったのでしょう。なぜ人を怒らせてしまったのか考えなさい」

 

 敬姜はそのまま息子を家から追い出してしまった。

 

 五日後、魯の大夫達が彼を取り成したため、公父歜はやっと家に帰ることができた。

 

 また、ある日、敬姜が季孫氏の家に行ったことがあった。季孫肥は外朝(国の朝廷ではなく、季孫氏の政庁)で政務を行っていた。


 彼は敬姜を見つけて彼女に話しかけたが、敬姜は応えなかった。季孫肥は敬姜に従って寝門(内室の門)に至ったが、敬姜は相手にせず、門を入った。

 

 季孫肥は家臣を去らせてから内室に入り、敬姜に問うた。


「私が命(言葉)を聞くことができないのは、私が何か罪を犯したからでしょうか?」

 

 すると敬姜はこう答えた。


「あなたは聞いたことがないのでしょうか。天子と諸侯は外朝で民事の政務を行い、内朝で神事(祭祀)を行うものです。卿以下は外朝で官職(自分の職務)を行い、内朝で家事(家庭の事)を行うものです。これに対して寝門の中を婦人が治めるというのは、上下(国君と臣下)共に共通しているものです。外朝は国君に与えられた官職に勤める場所であって、内朝は季孫氏の政を治める場所であるはずです。どちらも私が口出しする場所ではないではありませんか」

 

 

 

 公父歜が退朝(朝廷から帰ること)し、母にあいさつした。その時、敬姜が織り物をしていたため、彼は言った。


「私の家で母が織り物をしていれば、季孫氏に怒られてしまいます。私が母に善く仕えていないと思うからです」


 母さん無理しなくていいよぐらいの気持ちで言った息子に対し、敬姜は嘆いた。


「魯は亡ぶことでしょう。僮子(道理をわきまえない子供)に官を与えて道を教えていないとは、坐りなさい。汝に教えましょう」


 彼女は息子を座らせ、言った。

 

「昔、聖王が民を治める際は、敢えて瘠土(痩せた土地)を選んで民を住ませ、労働に励ませてから民を使いました。そのため長く天下の王となれたのです。民が勤勉に労働すれば倹約を思い、倹約を思えば善心が生まれるのです。逆に安逸になれば淫し(放縦になり)、淫すれば善を忘れ、善を忘れれば、悪心が生まれるのです。沃土(肥えた土地)では民が育たないのは、安逸だからです。瘠土の民が義に向かうのは、労働に励んでいるからです」


 彼女は聖王の政治の在り方を述べて、次に天子の政治の在り方を述べた。


「だから天子は大采(五彩の礼服)で朝日(日を祭ること。春分の祭祀)し、三公九卿と共に地徳(農作物の成長)を習熟し、日中(正午)に政治を考査して百官の政事を把握してから師尹(大夫)や旅(衆士)・牧(州牧)・相(国相)が民事を処理している状況を確認します。また、少采(三彩の礼服)で夕月(月を祭ること。秋分の祭祀です)し、大史(太史)・司載(司災。天文災害を記録する官)と共に恭しく天刑(天の吉凶の兆)を観察するのです。日が落ちれば、九御(九嬪の官。女官)を監督し、禘祭と郊祭の粢盛(祭品)を準備させてからその後、やっと休むことができます」

 

 次に彼女は諸侯以下、それぞれの身分の者が行うことを述べた。


「諸侯は、朝は天子から与えられた業命(職務、命令)を行い、昼は国職(国の職務)を考察して、夕方は典刑(法令)の状況を確認し、夜は百工(百官)を監督して慆淫(怠惰)にさせず、その後、やっと休むことができます。卿大夫は、朝は己の職務を行い、昼は政治について学び、夕方は自分の業を順番に確認し、夜は家事を治めてからその後、やっと休むことができます。士は、朝は朝廷から命令を受け、昼は学習し、夕方は復習し、夜は己の行いを反省してからその後、やっと休むことができます。庶人以下は、明るくなれば働き、暗くなったら休む、一日も怠けることはありません」


 次に彼女は女性の仕事を述べた、

 

「王后は自ら玄紞(冠の前後の装飾)を織り、公侯の夫人は玄紞の他に紘(冠の紐)と綖(冠の上の布)を織り、卿の内子(妻)は大帯(祭服の帯)を作り、命婦(大夫の妻)は祭服を作り、列士の妻はそれらに加えて朝服を作り、庶士(下士)以下、庶人に至るまで、皆、夫の衣服を作るものなのです」


 次に彼女は祭祀の際の在り方を述べつつ、息子が言ったことに関して叱った。


「社(春分の社祭。社は土地神)では農桑の仕事を振り分けて、蒸(冬の祭祀)では収穫を奉納し、男女とも力を尽くして成果を挙げ、罪があれば罰するのが、古の制度です。君子は心を労し、小人は力を労すのが、先王の訓(教え)です。上から下まで怠惰になることは許されないのです。今、私は寡婦であり、あなたは下位(大夫)です。朝から晩まで職務に励もうとも、まだ先人の業を失うことを恐れなければならないのです。もし怠惰の心が生まれれば、どうして罪から逃れることができるでしょうか。私はあなたが朝も晩も私を戒めて『先人の業を廃してはなりません』と言えるようになることを望んでおりました。しかしあなたは今曰、『なぜ安逸を求めないのですか』と言いました。このような態度で国君の官を勤めるようでは、この家の後嗣は絶えてしまうことでしょう」

 

 これを聞いた孔丘は弟子たちにこう言った。


「弟子達よ、よく覚えておくと良い。季孫氏の婦人は不淫(放縦ではないこと。礼に則っていること)である」

 

 公父歜の母・敬姜は季孫肥の従祖叔母にあたり、祖父の兄弟の妻である。季孫肥の父は季孫斯きそんきで、祖父は季孫意如きそんいじょ、曾祖父は季孫紇きそんこつ


 敬姜の夫は公父穆伯で、その父は季孫紇であるため、季孫意如と公父穆伯は兄弟になる。

 

 季孫肥が敬姜に会いに行っても、門を開けて話しをし、互いに門を越えることはなかった。

 

 季孫紇の祭祀に季孫肥も参加したが、彼が酢(祭肉等の礼品)を贈る時も敬姜は直接受け取らず、祭祀の後の宴でも同席しなかった。

 

 宗(祭祀を掌る官)が来なければ、敬姜は繹(二日目の祭祀)に参加せず、繹が終わろうとも、飫(立ったまま行う宴)が開かれても、少し参加するだけで先に帰った。季孫肥と同席しないためである。

 

 これを聞いた孔丘は、


「男女の別を明らかにしている方だ。、礼節をわきまえている」


 と言って敬姜を評価した。

 

 敬姜は息子に妻を娶らせるため、宗老(礼楽を掌る家臣)を宴に招き、『緑衣(詩経・邶風)』の三章を賦した。


「古人(他界した夫)を想う。過ちを犯させないでほしい」という一句がある。

 

 宗老は卜人に相手の女性の家を卜わせた。

 

 これを聞いた師亥しがい(魯の楽師。賢人として知られていた)が言った。


「素晴らしい。男女が参加する宴は宗臣に及ばず(同族の男とは同席しないという意味、季孫肥と同席しないことを指す)、宗室の謀は宗人を越えないものだ。(家族内の相談は同族以外の者を関与させないという意味。息子の婚姻について宗老に相談したことを指す)。謀して礼を犯さず、詩によって意思を明らかにsている。詩とは意思を成すものであり、歌とは詩を詠むものである。詩によって婚姻の意志を形にして、歌によってそれを詠んだのは、法(道理)にかなっている」

 

 その後、息子の公父歜が死んだ。あれほど厳しく育て上げただけにその悲しみは大きなものであっただろうが、敬姜は気丈に振舞った。

 

 彼女が息子の妾らを戒めて言った。


「内(妻妾)を愛せば、女が彼のために死に、外(政務)を愛せば、士が彼のために死ぬといいます。今、私の子が夭死(夭折)することになりましたが、私は我が子が内を愛したと言われるのは我慢がなりません。あなた達は先者(死者)の祀りにおいて自分を曲げなさい。悲哀のために痩せ衰えてはなりません。黙々と泣いてはなりません。胸を打って慟哭してはなりません。憂色を見せてはなりません。喪服の等級を礼に定められたものより軽くなさい、重くしてはなりません。礼に従って静かに葬儀を終わらせなさい。それが我が子の徳を表すことに繋がるのです」

 

 これを聞いた孔丘は、


「女(未婚の女)の見識は婦人に及ばず、男(未婚の男)の見識は夫に及ばないものだ。公父氏の婦人は明智の持ち主と言えるだろう。通常ならば、妻妾に命じて悲しみを大きくさせるところだが、それを抑えて、息子の令徳(美徳)を顕揚しようとしている」

 

 敬姜は朝に夫を想って哀哭し、夜に息子を想って哀哭した。

 

 それを聞いた孔丘はこういった。


「婦人は礼をわきまえている。愛情を持っているものの私情を挟まず、上下(夫と子)共に秩序がある」

 

 当時の礼では、寡婦は夜に夫を想って泣いてはならないとされていた。


 夜に夫を想うと情欲を思い出してしまうためである。敬姜が朝に夫を想って泣いたのは礼にかなっており、また、夫(父)が先で子が後というのも、上下の秩序を守っていることになる。

 

 敬姜は儒教が描いた理想の女性像の一人である。


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