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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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季孫肥

 紀元前492年


 春、斉の国夏こくかと衛の石曼姑が蒯聵がいる戚を包囲した。包囲された蒯聵は中山(鮮虞)に救援を求めた。

 

 五月、魯の司鐸(官名)の官署で火災が発生し、火は公宮を越えて桓宮(桓公廟)と僖宮(僖公廟)に燃え移った。消火を行う者達は、


「府庫を守れ」


 と口々に言った。財物が惜しいということである。


 そんな中、南宮閲(南宮敬叔)が到着すると、周人(周書・典籍を管理する官)に御書(国君が読む書物)を運ばせ、宮中で待機するように命じた。


「汝に任せた。もし失うようなことがあれば、汝を死刑にする良いな」

 

 子服何しふくか仲孫蔑ちゅうそんべつの玄孫)が至ると、宰人(恐らく法礼を管理する官)に命じて礼書を運ばせ、新たな命が出るまで待機させた。命に従わない者には刑罰が加えられた。

 

 また、校人(国君の馬を管理する官)に命じて馬の用意をさせ、巾車(車官の長)に命じて車軸に脂(潤滑にするための動物の脂のこと)を塗らせてすぐに車を動かせるようにし、百官にはそれぞれの官署を守らせ、盗難を防ぐために府庫の警備を強化して官人(館人。館舎の管理者)に物資を供給させた。

 

 それぞれの部署が決まると、帷幕を濡らしてまず火の近くの建物を覆い、その後、公の建物を覆った。まず太廟から始まり、尊卑の順に従って中から外に幕が拡げられていく。

 

 力が足りない者は援助し、力があるのに尽くさない者には刑が降された。

 

 公父歜(陽虎ようこの乱で斉に奔っていたが、陽虎が敗れてから帰国した)が至ると、校人に命じて乗車(魯公の車)を用意させた。

 

 季孫斯きそんきが到着すると、魯の哀公あいこうの御者を象魏(雉門の門闕。太廟は雉門にある)の外に待機させ、負傷した者を休ませた。


 財物は再び手に入れることができるが、人命は失うわけにいかないという判断である。

 

 季孫斯は『象魏(法令。旧章。門闕に法令を掲げたことから、法令は象魏とよばれるようになった)』を保管させて、


「旧章を失ってはならない」


 と言った。

 

 富父槐が到着して言った。


「火を収める備えが無いにも関わらず、百官に諸事を処理させるというのはまるで地にこぼした瀋(羹汁)をすくうようなものだ」

 

 富父槐は火道に当たる場所から槀(枯草等の燃えやすい物)を移動させ、公宮の周りに道(火巷。火が燃え移らなくするための空間)を作った。

 

 この時、陳にいた孔丘こうきゅうは、魯で火災があったと聞くと、


「それは桓廟と僖廟であろう」


 と言った。桓公と僖公の廟が礼から外れていたためである。





 

 周の卿士・劉氏と晋で挙兵した范氏は代々婚姻関係にあった。

 

 萇弘ちょうこうは大夫として劉狄りゅうてきに仕えていたが、彼が死んでからは周で政権を握っていた。


 劉氏と范氏の関係が深かったため、萇弘が政事を行っている周も范氏を支持した。

 

 晋の趙鞅ちょうおうはこれを理由に周を譴責した。

 

 六月、これを恐れた周人は萇弘を殺した。

 

 

 








 秋、季孫斯が病に倒れ、寵臣の正常せいじょうに言った。


「汝は殉死してはならぬ。南孺子なんじゅし(季孫斯の妻)が産む子が男子であれば、私の言葉を伝えてそれを立てよ。女子なら(季孫斯の子)を立てればよい」


 彼は死ぬ前にどうやら耄碌していたようである。

 

 七月、季孫斯は死に、季孫肥が後を継いだ。

 

 葬儀が終わってからも季孫肥が季孫氏の代表として朝廷に出席していたのだが、南氏が男児を産んだ。

 

 正常は男児を車に乗せて朝廷に入り、哀公に報告した。


「先君には遺言があり、圉臣(賎臣。私)にこう言い残しました。『南氏が男を産めば、それを国君に報告し、大夫と共に立てよ』と、産まれたのが男児でしたので、敢えて報告させていただきます」

 

 言い終わると正常は男児を季孫斯の家に返して衛に奔った。季孫肥に害されることを畏れたためである。忠臣ではなかったようである。

 

 後日、季孫肥は位から退くことを願い出た。そこで哀公が大夫・共劉きょうりゅうを派遣し、男児の様子を探らせた。ところが男児は既に殺されていた。


 季孫肥が暗殺させたと見るのが普通とはいえ、誰も言わない。

 

 哀公は犯人を捜し出すように命じ、正常にも帰国を勧めたが、正常は季孫肥を畏れて帰ることはなかった。

 

 結局、季孫氏は季孫肥は葬儀が明けると言った。


「我が父は病に倒れていた時、輦に乗って魯城を眺め、嘆息してこう言ったことがある。『かつてこの国は振興しようとしていたにも関わらず、私が孔丘の罪を得たため、振興しなくなってしまった』と、その後、私に父はこう言った。『私が死ねば、汝が必ずや魯の相となるだろう。魯の相となれば、必ずや孔丘を呼び戻せ』と遺言された。私は孔丘を招こうと思う」

 

 彼がこの発言したのは、男児を暗殺したかもしれないという悪評を振り払うためであると思われる。

 

 すると公之魚が進み出て言った。


「かつて我が先君(魯の定公ていこう)が彼を用いようとして用いることができず、諸侯の笑い者になることになりました。今また用いたとしても、結局用いることができなければ、再び諸侯の笑い者になりましょう」


 詭弁であり、結局は季孫肥の名を貶めるだけの発言である。もしかすればそれが狙いとすれば、大したものである。

 

 季孫肥は、


「それでは誰を招くべきか?」


 と問うと、公之魚は、


冉求ぜんきゅうを招くべきです」


 と言った。

 

 季孫肥は使者を送って冉求を招くことにした。






「私が……ですか?」


 魯の使者が孔丘たちの元に来て、一番に驚いたのは、冉求であった。彼は本来、能力は認められても小心もので気が弱いところがあった。


「先生を置いてなど……」


 彼は孔丘の方を向いた。すると孔丘は言った。

 

「魯人が求を招いたということは、小さく用いるのではなく、きっと大用(重用)するつもりであろう。気にせず行きなさい」


 孔丘は魯に行くことを勧めた。


「わかりました。頑張ってみます」


 冉求は頷き、魯に行くことを決めた。

 

 彼が出発する日、孔丘が言った。


「帰ろう、帰ろう。故郷の弟子たちは、志向が大きいが行動は粗略なんだ。文才に富むが、私は彼等をどうやって教育すればいいのか分からない」


 と言う歌を歌った。

 

 それを聞いた子貢しこうは孔丘が魯に帰りたいと思っていることを察して、冉求を送り出す時、こう諭した。


「もし魯に用いられるようになったら、先生を招くように働きかけよ」


「わかった」


 こうして冉求は孔丘の元を去った。

 

 


 

 


 

 十月、晋の趙鞅が朝歌を包囲し、その南に駐軍した。

 

 朝歌城内の荀寅は趙鞅の兵を集結させるため南の郛(外城)にいる晋軍を攻撃した。


 その間に城外の徒(部下)に命じて手薄になった北門の趙氏を攻撃させ、荀寅と范吉射も中から撃って出て包囲を突破した。

 

 二人は趙稷が守る邯鄲に奔った。

 

 十一月、趙鞅はこれに怒り、士皋夷(范皋夷)を殺した。范氏の一族だったとという理由である。

 

 


 

 


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