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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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鉄の戦い

 紀元前493年


 二月、魯の季孫斯きそんき叔孫州仇しゅくしゅうきゅう仲孫何忌ちゅうそんかきが邾を攻撃し、絞(邾の邑)を攻めた。


 邾は絞の地を惜しみ、漷水以東と沂水以西の田(土地)を魯に譲った。


 叔孫州仇、仲孫何忌が邾君と句繹(恐らく邾の都)で盟を結んだ。


 以前、衛の霊公れいこうが郊外に巡遊した時、子南しなん(霊公の庶子・郢)が僕(御者)を務めたことがあった。


 霊公は子南に言った。


「私には嫡子がいない(太子・蒯聵が出奔したため)。汝を後嗣に立てようと思うのだが」


 それに対し、子南は何も言わなかった。


 後日、霊公が再びこの事を話すと、子南は言った。


「私が社稷を治めることはできません。国君は考えを改めるべきです。国君の夫人が堂におられ、三揖(卿・大夫・士)が下におります。夫人や卿大夫と相談せず、勝手に私を後継者に立てれば、私にはその能力がないため、ただ君命を辱めることになってしまいます」


 四月、霊公が死んだ。彼は孔丘と関わらう話が多かったが、彼を用いることがなかったため後世における評価は同じような暗君の中でも低い。


 歴史に名を残すというものも難しいもので、凡人は名君、名臣、聖人、英雄の類に関わりすぎると必要以上に低い評価を与えられてしまう。


 さて、話を戻す。


 霊公夫人・南子なんしが言った。


「公子・郢を太子に立てます。これが君命です」


 公子・郢が言った。


「私は他の子と異なっております」


 彼のこの言葉には二つの解釈ができる。『他の子のように国君の位を欲するつもりはない』という解釈と、『母の身分が低いため他の子と立場が異なっている』という解釈がある。


 話の流れ的には後者であろうと思われる。


「私は国君が没するまで従っており、もしそのような命があれば、私も聞いていたはずです。亡人(亡命者。蒯聵)の子・輒がおります。彼を立てるべきです」


 衛は霊公の孫に当たる輒を立てることにした。これを衛の出公しゅつこうという。







 六月、晋の趙鞅ちょうおうが衛の太子・蒯聵を戚に送り返そうとしたが、


「使えんやつだ」


 衛に行く夜道に彼らは迷ってしまった。道案内を買って出たのは、蒯聵である。


「あれは思ったよりも使えんぞ」


 趙鞅は陽虎ようこに吐き捨てるように言ったことに対し、陽虎はこう答えた。


「才気があり過ぎて、煩わしさがあるよりはマシでは?」


 悪臣の考え方である。


 陽虎は言った。


「右に向かい、河(黄河)至って渡河し、南に向かえば、必ずや戚に着くでしょう。後、あれを戚に入れる上で考えがあるのですが?」


「わかった。汝に任せよう」


「感謝いたします」


 陽虎は蒯聵を呼びつけ、彼に絻(冠をとって髪を後ろで束ねること)の姿にさせた。


「何故、このような格好をせねばならぬ」


「黙って、やれ」


 また、彼は蒯聵に同行していた八人に衰絰(喪服)を着せて、衛都から蒯聵を迎え入れるために来た使者のふりをさせた。


 蒯聵は衛の使者のふりをした八人と一緒に戚に近づくと、まず八人を送って門を開かせた。戚人は衛の使者だと信じ、城門を開いた。


 そこに蒯聵は哀哭しながら城に入り、戚を居城にした。


 趙鞅は衛に対する影響力を大きくするために蒯聵を即位させようとしたが、衛は晋と対立しているため、蒯聵の帰国に反対した。









 八月、范氏と中行氏が晋君に背いたため、晋が討伐した。二氏は斉に粟(食糧)を求めた。


 斉の田乞でんきつは斉での勢力拡大するために、晋の逆臣と関係を結び、諸侯の中に味方を作るため、そこで景公けいこうにこう言った。


「范氏と中行氏は斉に対して度々恩徳を施してきました。援けないわけにはいきません」


 景公は田乞に食糧を運ばせた。


 鄭の子姚しよう罕達かんたつ子皮しひの孫)と子般しはん駟弘しこう)が斉の食糧を輸送した。


 士吉射が迎え入れるために兵を出した。一方の趙鞅も輸送を阻止するために兵を出し、両軍は戚で遭遇した。


 陽虎が趙鞅に進言した。


「我が軍は車が少ないため、兵車に旆(大将の旗)を立てて罕・駟(子姚と子般)の兵車に対峙させましょう。罕・駟が来て私の容貌を見れば魯を騒がせた陽虎と知って、必ずや恐れを抱きましょう。その時に戦いを仕掛ければ、必ず大勝できます」


 旆がある場所に精鋭がいるのが通常であるため、食糧を輸送している二人は兵を割いて晋軍に備えるはずで、注目を集める。そこに陽虎が居れば、驚くだろうという策である。


 趙鞅はこれに従った。


 戦の吉凶を卜うと、亀の甲羅は亀裂を作る前に焦げてしまった。楽丁が言った。


「『詩(大雅・緜)』にこうあります。『まず計謀を練って、それから卜を行わん』計謀が同じならば、以前の兆を信じればいいのです」


 かつて蒯聵を帰国させることを卜った時に吉と出たため、改めて卜う必要はないという意味である。


 趙鞅が誓って言った。


「范氏と中行氏は天明(天命)に背き、妄りに百姓を殺して我が国を専横し、国君を滅ぼそうとした。我が君は鄭に頼って自分を守ろうとしたが、今の鄭は不道(無道)のため、我が君を棄てて臣下を援けた。二三子(我々)は天明に順じ、君命に従い、徳義を経(法)とし、詬恥(恥辱)を除くために今回の行動を起こしたのである。敵を破った者は、上大夫には県を授け、下大夫には郡を授け、士には田十万歩(百歩で一畝であるから千畝)を授け、庶人工商には官を与え、人臣隸圉(奴隷)は免じることにする。志父(趙鞅の別名)が無罪ならば、国君がこれら戦勝後の褒賞を実行する。もし罪があるというのであれば、絞縊によって戮し(死刑に処し)、三寸の桐棺(罪人の棺)に入れ、属辟(当時の国君や貴族は二重三重の棺に入れられていた。死体を直接入れる棺を椑か辟といい、大棺の中に入れ、次に大きい棺を属という)を設けず、素車・樸馬(装飾のない車と馬)で棺を運び、兆(一族の墓苑)に入れる必要はない。これが下卿に対する罰である」


 趙鞅は上卿だが、身分を落として下卿の刑罰を受け入れるということで彼の覚悟を皆に示したのである。


 趙鞅が鄭の罕達と鉄(鉄丘。または「栗」「秩」)で激突した。


 晋の郵無恤(または「郵良」「王良」「子良」「王子期」「王子於期」)が趙鞅を御し、衛の太子・蒯聵が車右と務めた。


 晋軍が鉄丘に登り、鄭軍を眺めるとその兵数が多かったために、蒯聵は恐れて車から飛び降りた。すると郵無恤が綏(車に乗る時に引く縄)を蒯聵に渡して車に乗せ、


「婦人のようだ」


 と笑った。


 趙鞅が軍中を巡視して言った。


畢万ひつまん(魏氏の祖)は匹夫(庶民)であったが、七戦して全て戦功を挙げ、馬百乗(四百頭)を擁して牖(窓)の下で死んだ(家で死んだ。天寿を全うできた)。群子(汝等)は勉めよ。寇(敵)の中で死ぬ必要はない。勇ましく戦ったとしても、必ず命を落とす必要はないのだ。功績を立てて褒賞を受け取れ」


 繁羽はんう趙羅ちょうら趙武ちょうぶの曾孫。趙獲ちょうかくの孫)を御し、宋勇そうゆうが車右になった。三人とも晋の大夫である。


 趙羅は勇気がなかったため、車の上に縛りつけられていた。軍吏がその理由を問うと、繁羽が、


「痁(おこり。病)の発作が起きて伏せているのです」


 と答えた。


 蒯聵が祈祷した。


「曾孫(先祖に対しては自分を指して「曾孫」という)・蒯聵が皇祖・文王ぶんおう(衛祖・康叔こうしゅくの父)、烈祖・康叔、文祖・襄公じょうこう(蒯聵の祖父)に報告いたします。鄭勝(鄭の声公せいこう)が順道を乱し、晋午(晋の定公ていこう)は難にありながら乱を治めることができないため、鞅(趙鞅)に討伐させました。蒯聵は敢えて安逸を貪ることができず、矛を持っております(車右は矛を使う)。我が将兵の筋を絶たせず、骨を折らせず、面(顔)を負傷させず、無事帰還させ、これによって大事を完遂させ、三祖の恥辱とならないことを祈ります。大命(生死)を敢えて請うのではございません(私個人の生死のために祈祷するのではございません)。佩玉を惜しむこともございません(三祖のための祭祀も欠かさず行うでしょう)」


 戦いが始まると、鄭人が趙鞅の肩を撃った。趙鞅は車中に倒れ、蠭旗(趙鞅の旗の名)が奪われた。しかし蒯聵が戈を使って趙鞅を援けた。


 戦いの結果、鄭軍が敗れて温大夫・趙羅(范氏の党。上述の趙羅とは別人)が捕虜になった。


 蒯聵が再び侵攻して鄭が大敗させた。晋軍は斉の粟(食糧)千車を奪った。


 趙鞅は喜び、


「充分だ」


 と言うと、趙鞅の家臣・傅傁が、


「鄭には勝利しましたが、知氏がまだいます。憂いは消えておりません」


 と言った。


 以前、周人が范氏に田(土地)を与え、范氏の家臣・公孫尨がその地の税を管理していた。


 後に趙氏の徒衆が公孫尨を捕えて趙鞅に献上した。官吏が公孫尨を殺そうとしたが、趙鞅はこう言った。


「自分の主のために彼は働いたのだ。何の罪があるというのか」


 趙鞅は公孫尨に田を与えた。


 鉄の戦いで、公孫尨は徒(歩兵)五百人を率いて夜の間に鄭軍を攻撃し、子姚の幕下から蠭旗を取り戻した。戻った公孫尨が趙鞅に献上して言った。


「これで主の徳に報いさせてくださいませ」


 晋軍は勝利の勢いのまま鄭軍を追撃した。子姚、子般と公孫林こうそんりん殿しんがりになって矢を射たため、晋軍の前列の兵が倒れていった。


 趙鞅は、


「国に小はないものである。国が小さいからといって軽視してはならない」


 と言って無闇に突撃を仕掛けないようにした。


 戦いが終わってから、趙鞅は自らの功績を誇った。


「私は弢(弓袋)に伏せて血を吐いたものの、鼓音を衰えさせなかった(戦闘が始まった時、将帥が戦鼓を敲く)。今日の戦いでは、私の功績が最上であろう」


 すると蒯聵が言った。


「私は車の上で主を救い、車の下で敵を退けたのです。車右の中では私の功績が最上ではありませんかな」


 と自らの功績の方が上だと言った。すると今度は郵無恤が言った。


「両靷(四頭の馬のうち左右の馬を繋ぐ綱)が切れそうでしたが、私はうまく馬車を制御したのです。御者の中では私の功績が最上ではないでしょうか」


 郵無恤は危険だったことを証明するために木材を車に乗せた。すると左右の靷はどちらも切れてしまった。


 二人は彼の功績を上とした。


 



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