表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
497/557

粛慎氏の矢

 斉の景公けいこうと衛の霊公れいこうが邯鄲(趙稷ちょうしょく)を援けるために五鹿(晋邑)を攻めた。


 未だ邯鄲で起こっている乱を趙鞅ちょうおうは鎮圧できていなかったのである。


(斉も衛も邪魔であるな)


 彼はそう思い苛立っていたが、するとそこにある報告がもたされた。


「ほう、これは良き客人だ。待遇はできるだけ良くせよ」


 蒯聵が彼を頼ってやって来たのである。この状況を打開する一手が彼の元に来たことを意味していた、

 

 

 



 呉が楚に進攻した時、呉は陳の懐公かいこうを招いた。懐公は国人の意向を問うた。


「楚に与したい者は右に並べ。呉に与したい者は左に並べ」

 

 田を有する陳人は自分の田の場所によって楚に附くか呉に附くかを決めた。


 田が西にあれば楚に近いため右(南を向いて座っている懐公から見て右)に、田が東にあれば呉に近いため左に、田がない者は親族や徒党の意見に従った。

 

 しかし逢滑ほうかつだけは左右を選ばず、懐公の正面に立って言った。


「国の振興とは福によって成り、亡は禍によって招かれるものです。今、呉にはまだ福がなく、楚にはまだ禍がありません。楚を棄ててはならず、呉に従ってはなりません。そして、晋は盟主でございます。晋を口実に呉の誘いを断っては如何でしょうか?」

 

 懐公が言った。


「呉が勝って楚君は亡命している。これを禍でなくて何だというのか?」


 楚には禍がもたされているため、逢滑の理屈は通らないことになる。

 

 逢滑はこう答えた。


「このような状況を招いた国は多数あり、なぜ楚だけが回復できないと言えるのでしょうか。小国でも回復できるのですから、大国ならなおさらではございませんか。国を振興させる時には、民を負傷者のように大切にすれば福となり、国が亡ぶ時に民を土草のように扱えば、禍になるのです。楚には徳がありませんが、妄りに民を殺してはいません。呉は日々兵を動かして疲弊し、草叢に白骨を晒しており、まだ徳が見られません。天は楚に教訓を与えているのであって、楚は亡ぶことなく禍は呉に訪れましょう。それは時間の問題です」

 

 懐公は納得し、逢滑の言に従った。

 

 その後、呉王・夫差ふさが越を破り、先君の怨みを晴らした。この勢いに乗って夫差は陳に対する怨み(闔廬の誘いに断ったこと)も晴らすことにした。

 

 八月、陳に侵攻した。


 このように呉の侵攻を受けて陳に孔丘こうきゅうは訪れていた。


 彼はいつもと変わらず、弟子へ教えを授けていると陳の司敗に呼ばれた。


「魯の君主であった昭公しょうこうは、礼節を知った方だったでしょうか?」


 と司敗に質問された孔丘は、


「知っておりました」


 と答えて退出した。


 司敗は門人の巫馬期ふばきに呼び寄せ、


「君子は身びいきせぬものと聞いていたが、孔丘ほどの君子でも身びいきされるようだ。昭公は呉の国から夫人を娶られたが、同姓であることをはばかり、呉孟子と呼んでいたそうだ。これでは果たして昭公が礼を知っていたと言えるのだろうか。言えるとすれば世の中に礼を知らない人は一人もいないことになるのではないか」


 と言った。


 巫馬期は孔丘に好意を抱いているのか。知り合いなのか。このことを孔丘に報告した。すると孔丘は、


「私は本当に幸せ者だなあ。私に何か過ちがあれば、直ちに誰かがそれを指摘してくれる。ありがたいことだ」


 と言って気にしなかった。

 

 

 





 景公と霊公が晋で叛した范氏を援けるため乾侯で会し、景公、霊公、そして衛の孔圉こうぎょが軍を率い、更に魯軍と鮮虞人も合流し、共に晋を攻めて棘蒲を取った。

 

 呉軍が陳に駐軍した。

 

 その報告に楚の大夫達が恐れた。


「闔廬はその民をうまく使い、柏挙で我が軍を破った。その嗣(跡継ぎ。夫差)は闔廬よりもすごいと言われている。どうすればいいのか」

 

 そんなある日、子西しさいが朝廷で嘆息していた。それを見た藍尹・亹が言った。


「君子とは先人の興亡を想う時や、殯喪(葬儀)で哀しむ時には嘆息致しますが、その他の時には嘆息しないものです。君子は政に臨めば、義(公義)を想い、飲食の時は礼を想い、人と宴を共にしたら楽(楽しみ)を想い、楽しい時は善を思うものだからです。故に嘆息することはないのです。しかし今、あなたは政に臨んで嘆息されています。それはなぜでしょうか?」

 

 子西はこう言った。


「闔廬はかつて我が軍を破った。その闔廬は既に世を去っているが、闔廬の嗣(夫差)は父を越えると聞いている。だから嘆息したのだ」

 

 藍尹・亹は首を振り言った。


「あなたは政治において徳を修められないことを憂いるべきであって、呉を憂いる必要はございません。かつて闔廬は、口は嘉味を貪らず、耳は逸声(淫音。礼から外れた音楽)を楽しまず、目は美色を好まず、身は安逸に浸ることなく、朝から夜まで勤志(志のために努力すること)し、民の苦難を憐れみ、善言を一つ聞けば驚き、一士を得れば賞し、過ちがあれば改め、不善があれば恐れさせました。だから民を得て志を達成できたのです。しかし夫差について私が聞いたところでは、私欲のために民力を疲弊させ、過ちを放置して諫言を拒み、外に宿泊する時はたとえ一晩でも台榭(楼台)・陂池(池沼)を準備させ(遊行のため)、六畜(珍獣)や玩好(玩具。宝物)を従えさせているとか。夫差は自滅を招こうとしております。どうして人を破ることができるでしょう。あなたが徳を修めて呉の変化を待てば、呉は必ず倒れることになります」






 冬、魯の仲孫何忌ちゅうそんかきが邾を攻撃した。邾は前年、魯に入朝したばかの国であるのだが、魯が攻撃したのかはわからない。


 孔丘が陳に居る時、隼が陳の宮殿の庭に落ちて死んだことがあった。隼には楛矢(楛は木の名)が刺さっており、石砮(鏃)は一尺一咫(咫は八寸)あった。


 陳の湣公びんこうが使者を送って孔丘に意見を求めると、彼はこう言った。


「この隼は遠くから来たものでしょう。刺さっているのは粛慎氏(北夷の国)の矢です。昔、武王ぶおうが商に勝ち、九夷・百蛮との道を開いた時、各地に方貢(各地の特産物)を納めさせたとのことです。それぞれの職業(職責)を忘れさせないためです。その時、粛慎氏が納めたのが楛矢で、石砮は一尺一咫あったそうです。先王(武王)はその令徳(美徳)を遠方にまで示し、後人に伝え、永遠にそれが残るようにするため、栝(矢の後ろの部分。羽がある場所)に『粛慎氏之貢矢』と銘しました。その矢は大姫(太姫。武王の長女)に与えられ、大姫は矢を持って虞胡公(陳国の祖)に嫁ぎ、封地の陳に入られました。古は、同姓の諸侯には珍玉を与えて親情を示し、異姓の諸侯には遠方から送られた職貢(貢物)を分けて天子への服従を忘れさせないようにしたのです。だから陳(周は姫姓、陳は嬀姓)には粛慎氏の貢物が贈られたのでございます」


 湣公が古い府庫を探してみると、孔丘が語った粛慎氏の矢を見つけることができた。


 その後、孔丘は陳を去った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ