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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序
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諸稽郢

 諸稽郢は大量の金を持参して、伯嚭の元を訪れた。


「天下第一の大宰・伯嚭様にお会いできるとは、まことに光栄至極でございます」


「ふん、何のようだ」


「天下第一の大宰様に献上致したく参上致しました。どうぞお受け取りを」


 諸稽郢は伯嚭に金を包んだ布を渡した。伯嚭はそれを目を細めながら見つつ言った。


「良かろう。汝の命ばかりは助けてやろう」


 彼は金に向かって手を伸ばした。しかし、それを諸稽郢は金を引き、手が届かないようにした。


「それでは足りませんなあ。そこに越を救うというお言葉も追加していただけると嬉しいのですが」


「何を言っているか。そんなことができる立場にあるというのか。全く、汝の命だけ助けるだけでも良しとするべきではないのか」


「いえ、伯嚭様、確かに私一人救ってくださる。そのこと自体は大変、嬉しく思っております。しかしながら私の命だけ救われ、あなた様の命が無くなることを心配しているのです」


「どういう意味か」


 伯嚭は驚いて聞いた。


「此度の戦で、呉に勝利をもたらしたのは、失礼ながらあなた様ではなく、伍子胥様でございます」


 確かに此度の戦いで有効な進言を行ったのは、伍子胥であって伯嚭ではない。


「此度の勝利によって越を滅ぼせば、その功績は伍子胥様のものとなりましょう。そうなれば、どうなるでしょうか?」


「我が国でのやつの発言力が高まる」


 伯嚭は忌々しそうに言った。


「そのとおりです。それに伍子胥様は先君の頃からの重臣、その名声は他国に聞こえるほどです」


 諸稽郢はここで少し間を置く。相手に自分の言った言葉を理解できる時間を与えるためである。そして、ある程度、理解できたところで、次の言葉を発する。


 間を空けすぎないのはとても重要である。相手に必要以上に考えさせる余裕を作ってはならない。


「伯嚭様は大変、忠義心の厚い方だと聞いております。そのような高い名声は王にとっても国にとってもよくないとは思えませんか。越の存続を保証して頂くことは、決して悪いこととは思えませんが、いかがでしょうか」


「確かに王よりも名声があるものなどあってはならないな」


「では、今後も良しなに、伯嚭様こちらを」


 諸稽郢は今度こそ、金を伯嚭を渡した。


(さあ、今度は呉王だな)









 諸稽郢は呉王・夫差に謁見した。


「越王の臣・諸稽郢でございます」


 彼が拝礼する中、夫差の隣には伯嚭、伍子胥が控えている。


「呉王に申し上げます。我が君・勾践は此度、私を派遣しましたが、敢えて幣(玉帛。礼物)を公開し、礼を行うことができない上に直接、呉王に敬意を伝えることは恐れ多く、そのため個人的に貴国の下執事(官員)にこう伝えるようお命じになられました。昔、越は禍に遭い、天王(呉王)の罪を得ることになりました。天王は自ら玉趾(王の足)を運ばせ、本来は勾践を棄てる(滅ぼす)つもりでございましたが、後に寛大な心でお赦しになられました。天王の越に対するこの態度は、死人を生き返らせ、白骨に肉をつけるようなものでございます。私は天が降した禍を忘れることはございませんが、天王の大賜(大恩)も忘れません。今、勾践が再び禍を受けましたのは(二回も呉に攻撃されたのは)、善良な徳行が無いためです。しかしこの草鄙の人(田舎の人。勾践を指す)は、天王の大徳を忘れることはございません。辺垂(辺境)の小怨にこだわり、下執事(呉の官員)の罪を得る必要がありましょうか。勾践は二三の老(家臣)を従え、自ら重罪を認め、辺境で叩頭しております」


 先ずは、夫差という人物の自尊心を満たすことから彼は始めた。これによって自分は既に越を下したのだという思いを抱かせるのである。

 

「今、王は状況を確認することなく、大きな怒りによって兵を集め、越を滅ぼそうとしています。しかし越は元々貴国に貢献を行う邑であって、王が鞭を持って駆使すれば足りることではありませんか。なぜ外敵を防ぐ時のように軍士を煩わせるのでしょうか。勾践は誓って申し上げております。嫡女(正妻が産んだ娘)の一人に箕箒を持って王宮に仕えさせ、嫡男(正妻が産んだ息子)の一人に槃匜(手や顔を洗うたらいと水入れ)を持って諸御(宦官等の近臣)に従わせましょう。春秋(一年。四季)に貢献し、怠ることなく王府に貢物を運びます。天王がわざわざ我々を討伐する必要があるでしょうか。我々が納める貢物も諸侯の礼(天子が諸侯に要求している内容)に則りましょう」


 ここで越が呉に対して格下であることを強調し、助けを請うているような口調で彼は話す。

 

「こういう諺があります『狐は物を埋めたというのに、直ぐに掘り返してしまう。だから成果が上がらないのだ』今、天王は既に越をお育てになられ、その明徳は天下に聞こえています。それなのにまた滅ぼしてしまっては、天王の功労を失わせることになりましょう。四方の諸侯が呉に仕えようとしても、どうして呉を信用できましょう。勾践は下臣に言を尽くさせましたが、天王が利によって義(道理。正しい道)を考慮することを願っております」


 彼の言葉に出てきた諺の意味は、狐というものは疑い深い生き物であり、狐は物を埋めても心配になって直ぐに掘り返してしまう。つまり猜疑心が強いと結果が出ないという意味である。


「ふむ、なるほど越の意見はよくわかった」


 夫差はそう言ってから、諸大夫に言った。


「私の大志は斉にある(北上して斉を攻撃したい)。よって越との講和に同意しようと思う。汝等は私の考えに逆らってはならない。越が既に改めたというのであれば、これ以上何を求める必要があるだろう。もし改めないようならば、兵を還してから改めて討伐すれば良い」


 諸大夫たちは驚き顔を見合わせる。


「承知しました。王のご意志に我々は従います」


 伯嚭がそういった瞬間、伍子胥が声を荒らげた。


「王、なりません」


「伍子胥殿、既に王が決められたのだぞ」


 伯嚭が伍子胥を咎めると、


「黙れ、守銭奴」


 伍子胥は彼をそのように一蹴した。それを近くで聞いている諸稽郢は内心でほくそ笑んだ。


(これでは修復は無理であろうな)


 実は、彼は自分が金を持って伯嚭の元に出向いたことをわざと察知させている。

 

 伍子胥は夫差を諌めた。


「講和に同意してはなりません。越は忠心によって呉との関係を改善したいのではないのです。また、我が兵甲(軍)の強盛を恐れているのでもございません。諸稽郢は勇があり謀を善くしますので、呉を股掌の上で弄び、志を得るつもりです。彼は王が威(武力)を尊び、勝利を好むことを知っているために、敢えて辞を低くし、王の志を放縦にさせ、諸夏の国(中原)で野心を満足させて、自滅に追いこもうとしているのです。我が甲兵が疲弊し、民人が離反し、国が日に日に憔悴した時に、安全に我が国の残りを奪うつもりです。越王は信を好み、民を愛しておりますので、四方が帰心しています。しかも豊作の年が続いていますので、日に日に隆盛しています。今ならまだ戦うことができます。虺(小蛇)のうちに打たず、蛇(大蛇)になってしまったらどうなさるおつもりか」

 

 夫差は彼の言葉に対し、こう答えた。


「汝はなぜ越の隆盛をそれほど誇張しているのだ。越が大虞(大きな恐れ)になるものか。もし越がなかったら、春秋(春と秋。もしくは四季)の閲兵で誰に我が軍士の武威を誇示できると言えるのか」


 伍子胥は唖然とした。王は何を言っているのか。ただ越を滅ぼせると言えば良いのである。そのような簡単なことを決断できないというのは、どういうことなのか。


(わからないだろうなあ。私も范蠡殿から呉王の性格について説明されていなければ、わからなかっただろうさ)


 范蠡は夫差のことを飽きっぽい人と評していた。


(復讐にさえ、飽きるということが中々にすごいものだ)

 

 呉は越と講和を決定した。


「良くぞ成し遂げてくれた」


 勾践は諸稽郢の手を取り称えた。


「まだ、油断はなりません。あちらの優位は変わっていないのです。慎重にならねばなりません」


「そのとおりだ」


「そのため、王は呉に対して」


「わかっている。臣下として振舞うのであろう」


 勾践はため息をついた。王である自分が敵国の臣下として振舞わねばならない。なんという屈辱であろうか。しかし、今はそれを嘆いている暇はない。


「それだけでなく、愛妾を献上するべきです」


「そこまでしないといけないのか」


 勾践は渋い表情を浮かべる。


「相手にこちらが屈服したということを示さねばなりません。王も恐らく呉に連行されるでしょう」


「負けるということは本当に辛いことだな」


「そのとおりです。だからこそ戦は勝てるという確信を持ってから行うべきなのです」


 范蠡はそう言った。


「そうだな。汝の言うとおりだ」


「献上する愛妾はどうなさいますか?」


「西施が一番適当であろう」


 勾践は西施を出すことを決め、それを夫差に伝えることにした。








 范蠡は、呉に行くことを西施に伝えた。


「大変、ご苦労のことでございますが、呉に行っていただきます」


「人質ということでしょうか」


「呉王の妾になっていただきます」


 西施は予想していたかのように、


「わかりました」


 同意した。


「これで越は滅亡することを避けられるのですね」


「そうです」


 范蠡は目を細める。


「辛いことでしょうが……」


「辛くはありません。私にとって辛いことがあるとすれば、守りたいものを守れなかった時のことです」


 彼女は首を振り、気丈に振舞った。


「かつて范蠡様はこうおっしゃいました。全てをかなぐり捨ててでも、果たさなければならないことがあると」


 それはかつて扁鵲に対し、范蠡が言った言葉である。その言葉を知っている者がいるとすれば、扁鵲の他には、


「あの時の……」


「はい。そうです」


 范蠡が血だらけになって死にかけているところを助けてくれた少女が西施であった。


(だとすれば恩人と言える人を……)


 なんと恩知らずの行為であろうか。


「お気になさらないでください。女にも全てをかなぐり捨ててでも守りたいものがある。それだけです」


 彼女は笑みを浮かべ、そう言った。


「西施様、ここでお約束いたします。必ずやあなた様をお助けいたします」


「期待しております」

 

 范蠡は深々と拝礼した。





「王、 西施様を献上する旨を伝えたのですが、王を呉都に連れて行くとのことと、改めて両国で盟を結びたいとのことでございます」


 文種がそのような報告を行った。


「呉都に王をお連れするというのは予想していたが、盟をか」


 勾践が渋い表情を浮かべると計然が髭を撫でながら言った。


「恐らく、伍子胥の策謀であろう。中々な男じゃな」


 盟を結ぶと今後、盟を破った時に人々の批難を受けることになる。


「しかし、この申し入れは受け入れるしかあるまい」


 呉に対し、越は格下なのであり、越は呉に占領されている状態である。ここで受け入れなければ、怒りを買う恐れがある。


(もしかすれば伍子胥はそれが狙いか)


 伍子胥は越を滅ぼすことを諦めていないことがわかる。


「王、私にお任せください。私が盟を結ばせないようにしましょう」


 諸稽郢がそう言った。


「できるのか」


「はい、少なくとも呉王が相手であれば、できる自信があります」


「わかった汝に任せる」

 

 諸稽郢は命を受け、夫差の元に出向き言った。


「盟に益があると思っているのしょうか。そうだとすれば、以前の盟で口に塗った犠牲の血もまだ乾いていないではありませんか。その血で既に結盟の信を示しております」


 彼の言う盟というのは、いつの日のことを指しているのかは彼はあやふやにした。本来であれば、確かめるべきであろうが、夫差はそれをしようとはしなかった。


 まあ諸稽郢はそれをしないという確信は抱いていた。


「それとも盟は無益だと思っておりましょうか。それならば王は甲兵の威も必要なく、直接、我々に臨んで命令をすればいいだけのことではありませんか。わざわざ鬼神を重んじ、自分の権威を軽くする必要はないと私は考えますが、如何でしょうか」


 夫差は別に積極的に盟を行う気はなかった。伍子胥がどうしてもと言うから盟を行うとしたに過ぎないのだ。


 もはや彼は越に興味を失っていた。

 

 夫差は口頭で和平を約束するだけで、結盟の儀式は行わないことにした。


「見事であるな諸稽郢」


「いえ、それほどのことではありません。これからは王の努力次第になります」


「わかっている」

 

 勾践は呉都に送られる前に、夫差の前で自分を屈し、自ら夫差の臣となることを表明し、四時(四季)の祭祀に供物を贈り、春秋の貢物も献上することを伝えた。


 そして、越の社稷(国政)は夫差に委ね、越の民にも呉のために尽力させることを願った。


 一国の王がこれほどのことを示す姿は夫差の自尊心を十分に満足させるものであった。


(越とはなんと軟弱な国であろうか)


 自分だったらこんな無様な姿をするぐらいなら死ぬ方がマシであると思った。一方、勾践のこのような姿を見て、伍子胥は益々越への警戒心を強めた。


「後は頼むぞ」


 勾践は呉都に行く前に群臣たちを集め、そう言った。その言葉に群臣たちは泣きながら同意した。


「国政は文種に一任する。皆は彼を補佐せよ」


 大抜擢と言えた。文種は感動し、精一杯職務に励むことに同意した。


 こうして越王・勾践は屈辱とも言える呉での幽閉生活を送ることになった。越に長い冬が訪れた。



 



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