会稽の戦い
趙伯魯は何時、死んだのだろうか。
越王・勾践は必至の思いで逃げていた。
彼は呉への奇襲のために、武原から進軍していた。だが、密かに進軍していたにも関わらず、武原の地には呉軍によって守りが固められており、進むことができず、更には後方から別の呉軍が現れて奇襲を仕掛けるはずが相手に奇襲されるという無様を演じてしまっている。
(何故だ。報告では、呉は五湖にいる囮に向かったのではないのか)
確かに呉軍は五湖に向かいはした。しかし、ほとんどの精兵をもってである。それにより囮の軍は主将を含めほぼ壊滅してしまったことを彼は知らなかった。
ただでさえ湖上にいた囮の水軍では、勾践との連絡が難しかったという面もある。
「王、呉軍です」
「そ、そうか。皆、逃げるぞ」
そう報告がもたらされると、勾践は声にもならない悲鳴を上げそうになる。それをぐっと我慢し気丈にふるまいながら逃走劇を続ける。
(何故、このようなことになったのだ)
彼は今の状況を嘆いた。
「王、あちらにお逃げよ。ここは我らが」
「お前たちもか」
兵がこのように言って、何人の命を散らしていくのだろうか。
(こんな惨めな思いをする羽目になるとは……)
その時、どらの音が鳴り響く。
「何事か」
「報告します。前方に一軍が現れました」
「呉め、ここも回り込んでいたか」
(こんなところで私は死ぬのか……)
悲壮感を漂わせながら、彼は剣を抜いた。すると前方の軍は彼の軍を無視して、進路を変え、先ほどまで追いかけてきた呉軍に突撃をかけた。
「あれは……王、お味方です。援軍です」
勾践は唖然としながらその報告を聞いた。
味方と思われる軍が呉軍を蹴散らすと、主将らしき男が近づいてきた。
「私は范蠡の臣・呉句卑でございます。主の命により参上いたしました」
(范蠡が……私を助けたというのか)
范蠡は父の臣下だったもので、自分のやること成すこと、文句ばかりの嫌な男であった。そのため遠ざけたのだが、その男が自分を助けようとする。
「王、これより会稽山にご案内いたします」
「会稽山だと……もうそこまで来ているのか呉軍は」
「はい、呉軍は我が国の都に向かっております」
「それで会稽山か。確かにあそこならば、都・会稽よりは守りが固いからか」
勾践は范蠡が会稽山に向かうよう進言する理由をしっかりと理解していた。
「家族は?」
「主を始め大臣方が会稽山に避難されています。民衆も同様です」
「そうか。それほどに……わかった会稽山に向かおう」
勾践は意気消沈しながら、呉句卑に連れられながら会稽山に向かった。
一方、呉王・夫差と伍子胥が率いる呉軍は奇妙な相手と戦っていた。少数で現れては、呉の兵士を何人か殺し、去っていく。そして、捕まえようと追いかけ、追いつき何人か捕まえるとさっさと自決するという相手である。
かつての檇李の戦いのような不気味さ溢れる相手である。
(警戒しなければ、ならない)
伍子胥はそう考え慎重になったが、同時に余程、越に余裕が無いのではないかとも考えるようになった。
「多少の被害は無視して急いで越の都を落としましょう」
そう夫差に進言したが、
「特に被害が出ているわけでもない。このままの進軍で十分であろう」
と言って取り合わなかった。
「王、越は時間稼ぎを行っているのです。何か策があるのかもしれません。ここは急いで都を落とすべきです」
「蟻を殺すのに何故、虎が駆けねばならぬのだ」
伍子胥の進言を夫差はあくびをしながら取り入れなかった。
さて、呉軍に対し嫌がらせのような戦をしているのは、范蠡である。彼は元は罪人の兵を率いながら、呉と戦っていた。
(孫武殿ならば、この状況でも勝てるのだろうか)
ふと、そのようなことを考えていた。
孫武ならば、越のこのような状況になるまでに対策を立ててこのような状況にならないようにすることを第一にするだろうが、それでも孫武ならばこのような状況でも勝利をもぎ取れそうである。
(私は孫武殿のような勝てる戦ができるほど、戦の才は無い。だが、負けない戦はできる自負がある)
「次は、この地点で仕掛けよ。今度は食料を奪え良いな」
彼がそう命じると何人かの兵が進み出た。
「恐れながら、范蠡様。そのようなことをせず、一気呵成に相手の本陣に攻め込んでは如何でしょうか。それとも我々が死を恐れていると疑っておられるのでしょうか」
「それは違う。本陣に攻め込んでも無駄死にするだけだからだ」
「ならば、このような形で死ぬ方が無駄死にに思います」
「無駄死にではない。汝らにはわからぬかもしれないが、汝らの死は無駄死にはしない。だから私を信じてほしい」
兵たちは黙った。
范蠡は出陣前、呉句卑から夫差の報告がもたらされていた。
その報告によれば夫差には夫人が多く、戦と武勇を好み、武勇ある者をそばに置いて政治に対してはそこまで熱心ではない。と、いった報告であった。
だが、彼がその報告で一番、興味を覚えたのは、飽きっぽいという記述だった。
(飽きっぽいか。それでいて戦と武勇を好み、夫人が多いか)
范蠡から乾いた声で笑う。
(そうか。そうか。そういう男か)
彼は夫差が先君の恨みを忘れないためにやっている行為を聞き、どこか違和感のようなものを感じていた。
(そうしなければ憎しみを継続できないのか)
范蠡は、講和に至るまでの術、そして呉を滅ぼすことは難しくはないと確信に近いものを抱くことができていた。
今、彼が呉軍に対して行っていることもその過程における一つである。
その後、彼は何度か同じようなことを呉に繰り返していると、文種から使者が来た。
「民の避難、及び会稽山に籠る準備ができた。また、王が会稽山に参られた」
「良し、会稽山に引き上げる」
文種からの書簡を読んだ范蠡は率いる兵に告げた。兵たちは不満もあったが従った。
会稽山に范蠡が戻ると呉軍は会稽を占拠、その後、勾践を始め、越の者たちが会稽山にいることを知ると、呉軍は会稽山を包囲した。
「おお、たくさんいますなあ」
諸稽郢は呑気に包囲する呉軍を眺める。
「この包囲をどうにかしないといけないわけだが、何か策があるのか范蠡」
文種は范蠡にそう問いかけた。すると計然が言った。
「范蠡よ。汝はわざわざ決死隊を率いたというのに、死なせずにここまで連れてきたということは、やつらにこの包囲を突破させるというわけかのう」
計然は元々、范蠡に渡した兵は捨て駒にしやすい、罪人の兵である。
「確かに、その点は私も疑問に思いましたな。せっかくだから処刑の手間を呉にやらせれば良かったといいのに」
「諸稽郢殿、あなたもその立場でだったのですよ」
文種の冷めた目を受けても諸稽郢は気にしない。
「それで范蠡殿はどう考えているのでしょうかな?」
「まだ彼ら全員の死に場所をあそこにする必要性を感じませなかったので、ところで王はどうなさっていますか」
范蠡が問うと文種が答えた。
「王はお疲れのようで、休んでおいでだ」
「起きてはいるのであれば、結構。諸稽郢殿、あなたを王に推薦すると共にあなたの罪を恩赦いただけるよう進言して参ります」
諸稽郢を牢から出したのは范蠡の独断によるものである。
「おや、私の罪は公式で許されたわけではなかったのですか。まあそういうことでしたら、私が隠しております金を差し出すことをお伝えください」
文種はまだ、隠し金があったのかと更に冷めた目を諸稽郢を向ける。
「よろしいのですか。何も言わなければ、あなたのものになったでしょうに」
「金というものは貯めるだけではいかないのです。使う時に使わねばなりません。それが金を愛すということなのです。それに……」
諸稽郢はどこからか玉を取り出した。
「玉、一つあれば今あるぐらいは、すぐに用意できるのですよ」
范蠡は意外そうに見ながらも目を細めた。
「では、次は汚い金は貯めないようになされよ」
范蠡はそう言ってから勾践の元に向かった。
「王、范蠡でございます」
「入れ」
范蠡は勾践の部屋の中に入った。そこには、意気消沈した勾践の姿があった。
(この方のこのような姿は初めて見たな)
勾践が言った。
「私が汝の言を用いなかったために、このようなことに事態になってしまった。どうすれば良いだろうか?」
弱々しい声で彼は范蠡に言う。勾践が范蠡に対し、このようなことを言うのは、今まであればあり得ない光景であった。
范蠡は、
「王はお忘れでしょうか。『持盈』の者は天に従い、『定傾』の者は人に従い、『節事』の者は地に従うものです」
「人に従うとはどういうことだろうか?」
「辞を低くして礼を尊び、玩好(玩具。財宝)や女楽を献上し、その名を尊重する(相手を「天王」と称す)ことです。それでも講和が受け入れられないようであれば、自らの身を与えて相手の利とするべきですしょう」
全てを差し出しなさいということである。王として持っているものを呉に対し、全て差し出し、自らは相手の下となるしかこの状況を打開する術はない。
「そこまでして、私は助かるべきだろうか」
勾践はそれを屈辱であるという以上に、国民に対して申し訳がないという思いが彼にはあった。
「あなた様は生きねばなりません。此度のことで多くの者が死にました。その責任から逃げてはなりません。あなたは王なのですから」
「わかった汝を信じよう」
「ご信頼に必ずやお答えいたします」
范蠡は深々と勾践に拝礼した。
「呉への使者は文種が良いだろうか?」
「いえ、諸稽郢がよろしいかと思います」
「諸稽郢とは誰か?」
勾践は諸稽郢のことを知らなかった。何せ二十年前から投獄されている人物である。
「かつて賄賂を受け取り、更に国費を懐に入れていたことを罪とされ、牢に入れられていた人物でございます」
諸稽郢の経歴に流石の勾践も目をとがらす。
「しかしながら才覚はございます。また、この越の危機にあって、自らが有しております金品財宝を此度の戦に亡くなった者、国の再建のため差し出すとのことでございます。どうかこれで罪を許し、彼を呉への使者として任命頂きますことをお願いしたします」
「信じるに足る男か」
「信じております」
「そうか……汝が信じる者を私は信じる。よかろう。その者に使者の任を与える」
「ご英断でございます」
范蠡は勾践に再び深々と拝礼を示した。
「諸稽郢殿、使者として派遣されることが決まった」
「本当に決まるとは思っていませんでしたが、まあ期待には答えますかね」
范蠡は諸稽郢に呉句卑がまとめた夫差や呉の臣下についてまとめた書簡を渡した。それを諸稽郢は簡単に目を通した。
「確か范蠡殿は、呉にいたとか」
「ええ、おりました」
越に来たのも大分前に感じると范蠡はしみじみしながら答える。
「では、もっとも強欲な方は誰ですか?」
「伯嚭です。彼は呉王の寵臣ですので、此度の出兵にも同行しているでしょう」
何度か呉にちょっかいをかけた時に伯嚭の馬車を見かけている。
「なるほど、では、いかほどか金をいただきたいのですか」
「構いません。先ずは伯嚭からですか」
「左様、敵国の愚者には金と哀れみを、名臣には毒と敬意を与えるものです」
「一つ、確認したいことがあるのですが」
「何でしょうか?」
「あなたが呉王に謁見された時、伍子胥と伯嚭が隣に控えていると思います。彼らを使い、不和を起こすことはできますか」
范蠡の頼みに諸稽郢は笑みを浮かべる。
「お人の悪い方だ。やってみましょう」
諸稽郢の玄謀が輝こうとしていた。
 




