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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序

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国の命運は何処に

諸稽郢という人物を知ったのは、結構最近のことです。

 越王・勾践こうせんが呉に向かって、軍を二つに分け、進軍した。


 一方は水軍で、五湖を目指す軍である。この水軍は囮であり、もう一方の陸軍こそが勾践の本命であり、奇襲部隊である。


 この奇襲部隊を勾践自ら率いている。これに范蠡はんれいは呆れる思いで諫言を行ったが、勾践は聞き入れなかった。


 范蠡は勾践の軍が進軍していくのを見ながら呟いた。


「遂に王は進軍をされたか」


「水軍を率いるのは、霊姑浮れいこふであったか。あいつは以前の戦いでの功績を誇って驕っているそうだ。問題が無ければ良いが……」


 文種ぶんしゅがそう言うと隣の計然けいぜんは首を振った。


「人選が悪すぎる。囮を任命するのにしても、不適当過ぎるであろう」


「まあ、出兵に反対する方を使うよりは良いと考えているのでしょうなあ。王は」


 そう言って近づいたのは、諸稽郢である。


「范蠡殿、いやはや王もご苦労なことです。全く利益の出ない戦をしようとされている。困ったものですなあ」


「この戦で被ることになる不利益を我々は何とかしないといけません。それにはあなたのお力が必要です」


「いやあ。私などにそのような力はありませんよ。まあ牢屋から出していただいた御恩はちゃんとお返ししますがね」


 諸稽郢は范蠡にそう言うのを聞いて文種は首を捻った。


「牢屋?」


「ああ、この男は先日までは牢屋の中に居ったのじゃよ」


 諸稽郢は越において行人として外交を担っていたが、賄賂をもらっていたという罪で投獄され、しかも余罪を調べるために屋敷へ踏み込むと国費をちょろまかしていたことが発覚し、更に罪を重くされて二十年近く牢屋にいたという男である。


「とんでもない男だ」


「ちょろまかしたとは人聞きの悪い。金が自ら私の元に転がり込んだのですよ」


 文種が呆れたように言ったことに対し、諸稽郢は道化のように振舞う。


「私は金というものを深く愛しております。この世に金が無いことを嘆く人がいますが私は敢えて言いたい。君たちは金への愛情が足りないのだと、人は愛を注ぐ者に近づくのです。金もまた、同じことですよ」


 文種は冷めた目を諸稽郢に向けながら、范蠡に言った。


「本当にこの男を使うのか?」


「人としては難があるが、外交能力は本物だ」


 范蠡は諸稽郢に顔を向けた。


「恐らく、王は負けると思います。しかし、この越を滅ぼさせるべきではありません。どうか教えを頂きたい」


「先ずは、楚の行人を帰国させましょう」


 諸稽郢がそう言うと文種が食ってかかった。


「何故だ。もし我が国が呉に追い込まれた時、助けになってもらうためにも必要ではないのか」


「楚は決して私たちを助けることはないでしょう」


「何故でしょうか。少なくとも楚は我々に友好的です。王妃も楚の方ですし」


 楚と越には血縁的つながりがある。それを重要視するのが文種には普通に思えた。


「いや、それでも楚は助けないと思いますね。楚は呉に滅ぼされかけた聞きました。その傷が癒えたとは私には思えない。少なくとも後、数年は掛かるんじゃないかな。それに聞く所によると楚の行人は何度もこちらに足を運んでいるそうじゃないか。今までの楚だったらありえない」


「だからこそ、友好的であるということなのでは?」


「いや、楚の示す友好は自分優位による友好ですよ。あの国は基本的に人を見下すからね。それなのにこれほど越に好意を見せているということは裏があると思うのが普通だと思うがね。そもそも今までしかめっ面を浮かべていた隣人が急に笑顔で話しかけてきたら、不気味じゃないか。あくまで楚が越に好意を見せるのは呉への牽制でしかないよ」


 諸稽郢は不快な表情を浮かべた。


「だいたいそんな国だったら。楚への貢物の数を減らすことに苦労はしなかっただろうさ」


 彼が外交を担っている際、越はまだ国としてのまとまりにかけており、越王・允常いんじょうはまとめるために楚の後ろ盾を得ることに腐心した。


 その後、何とか楚の支持を得ることに成功し、越をまとめ上げた。その立役者の一人が諸稽郢である。


「まあ、楚が助けないのはわかったがのう。何故、行人を去らせるのじゃ」


 今までは楚が対して越に好意的というわけではないという説明であり、楚の行き人を返す理由ではない。


「先ず一つとして我が国の軍が敗れ、呉がここ会稽に殺到した際、楚との関係を知られるのは、我らにとっても楚にとっても不利益です。二つ目は、楚の行人を争いに巻き込まさせないことによって、少なくともその行人は私どもに好意的になるでしょう」


「そう上手くいくかのう」


「外交においては先ず、最初に会えた人を抱き込むものですよ」


 諸稽郢は軽く言った。范蠡はそれに頷いた。


「なるほどわかりました。あなたの言に従いましょう」


「ありがたことです」


 諸稽郢は范蠡にお礼を述べる。


「まだまだ、この程度でお礼を述べられても困ります」


「承知しました」


 范蠡は頷き、彼に言った。


「では、あなたにこれからもっとも大切な職務を任せたいと思います」


「なんでしょう?」


「越が追い込まれた時の呉との講和を任せたい」


「無理難題ながら承知しました。されどできれば相手の情報をいただきたい。特にどんな王がいて、どんな臣下がいるのかを知りたいのです」


「既に私の手のものが調べております。ご心配は要りません」


「流石は范蠡殿だ」


 諸稽郢は大いに称えた。


 その後、范蠡は楚の行人である申包胥しんほうしょに会った。


「申包胥殿、あなたはここを離れるべきだ」


「何故でしょうか?」


「もうすぐここに呉が侵攻する可能性があります。そのような危険にあなたを置くことはできません」


「ありがたい言葉です。范蠡殿」


 范蠡は安堵するように言った。


「そう言っていただけると嬉しき限りです」


 そして、申包胥は越を去った。






 一方、越が侵攻してきたという知らせが呉に届いた。


「遂に来たか越め」


 夫差ふさは憤りを顕にし、全軍での迎撃を命じた。


「越はどのように進軍している」


「物見によりますと、五湖を渡りこちらに侵攻しております」


「五湖をか……わざわざ五湖などを通っていくというのがわからぬな」


 わざわざ五湖を渡らぬとも陸路を通った方が良いのではないかと夫差は考えた。


「王、もしかすれば五湖から侵攻してくる軍は囮かもしれません」


 伍子胥ごししょがそう言った。


「囮、水軍を囮に使うなど、聞いたことがないぞ」


「越王・勾践という男は、大胆不敵な人物です。そのような策の実行者でもおかしくはありません」


「そうか……で、どうするというのだ?」


 夫差がそう問いかけると伍子胥は答えた。


「恐らく奇襲部隊は武原からこちらへ奇襲を仕掛けるつもりでしょう。しかし我々は敢えて、五湖にいる水軍を叩きます。奇襲部隊は、守りを武原に配置しておけ容易に防ぐことができましょう」


「危険ではないか?」


「呉にはしっかりとした守りが作られております。問題はありません」


「良し、わかった。これより越を返り討ちにするぞ」


 呉は武原に少数ながらも守りが上手い部隊を配置し、他の精兵を五湖の越軍に向けた。


 越の水軍を率いるのは、霊姑浮である。彼は勾践から何度も囮であることを伝えられていた。


「報告します。呉軍はこちらに向かっております」


 もちろん、呉も水軍である。


「来たか。適当に相手するぞ。我々は囮なのだからな」


 このように越軍がそこまで戦意が高くない一方、呉軍は夫差自ら率い、その戦意は高かった。


「越どもをこの五湖の藻屑と変えてしまえ」


 夫差率いる呉軍が越軍に突撃をかけた。彼らに特に変わった戦法はなかった。ただただ、目の前の軍に突撃をかけるというものである。


 この呉の単純な突撃は越軍にとっては虚を突かれた形となった。彼らはそもそも囮であり、時間稼ぎが仕事であった。


 しかし、予想以上の呉軍の勢いを前に越軍は崩れた。


「そんな、まさかこのようなことが」


 霊姑浮は呉軍の予想外の猛攻に圧倒されていた。


「このままでは……」


 そこまで呟いた時、矢が飛んできて彼の眉間を貫いた。


 主将の死によって、五湖の越軍は統制を欠き、崩壊した。五湖の越軍を破った呉軍は、そのまま越方面に進んでいた。


「王、越の奇襲部隊には後方から別働隊を派遣し、対応させましょう」


「ならば我らはどうする」


 伍子胥の言葉に夫差はそう問いかける。


「前へ、ひたすら前へ、越の都・会稽まで」








「報告します。呉軍が五湖からこちらに向かっております」


「来たか……」


 范蠡は計然、文種、諸稽郢に言った。


「思ったよりも早く来ましたが予定通り、会稽山に奥方様、王太子を始め、公子、公女の皆様方を批難させましょう」


「しかし、王がまだだぞ」


 文種がそう言って心配するが、


「大丈夫だ。臣下に迎えに行かせている」


「呉軍がこちらに来るまでに間に合いますかね」


 諸稽郢の言葉に計然が言った。


「一つ考えていることがある。王が一度行ったことの応用をし、対応するわい。ただ、それを行う実行者じゃが」


「私がやりましょう」


「范蠡よ。汝がやるのはこの先のためにもやめた方が良い」


「いえ最悪、私がいなくとも、呉との講和はできますので、ここは私が適任でしょう。計然殿たちには会稽山の守備をお願いします」


 計然は范蠡の言葉にため息をつき、頷いた。


「良かろう、汝に任せる。既に準備は済ましておる」


「感謝します」


 范蠡は計然が準備しているという場所に移動した。


「なるほど……」


 彼は目の前に並ぶ鎖に繋がられた男たちを見て、納得した。


(罪人を使うか……)


「諸君、越はこれより危機に陥る。本来であれば、処罰される君たちにとっては、好機である。さあ諸君、今こそ過去の罪を洗い流す時だ。君たちの活躍次第で、家族に褒美も出すだろう」


 男たちは一斉に言った。


「ご寛大に感謝し、命をかけて戦います」


「感謝する」


 范蠡はそう言うと彼らに対し、拝礼を行った。


 男たちは驚いた。貴族が自分たちのような者に礼を示すなどということはありえないからである。


「諸君、君たちの命は私が預かった。さあ我が国のため、家族のため今こそ剣を取れ」


「応っ」


 男たちは鎖を外され、剣を天に向かって掲げた。


 越の命運をかけた戦いが始まろうとした。

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