美女の助言
遅れました
楚の昭王、陳の閔公、隨君、許君(許は一度滅ぼされているのだが、いつ復国したのかは分からない)が蔡を包囲した。
柏挙の役の報復である。
蔡城から一里の場所に栽(堡塁)を築き、壁の幅は一丈、高さは二丈に及んだ。夫(兵。役夫)が昼夜九日間作業を続け、子西が立てた計画通りに完成させた。
これに恐れを抱いた蔡は縛った男女(奴婢)を分けて並べ、城を出て楚に投降した。
昭王は蔡を長江の北、汝水の南に遷して帰還した。
しかし楚軍が去ると蔡は楚に背き、呉に遷ることを請うた。
「蔡には信義がありませんなあ」
子西が言うと、昭王は、
「まあ、我が国も同じくらい無かったから蔡を責めるべきではないよ」
と言って気にしなかった。
(まあ、一度はね)
と、内心で思いつつ彼は南の方角を見た。
(さて、越はどうなるのかな)
何でも越は呉を攻めるという。
(呉と同じことをやろうとしているわけだ。どうするのかな范蠡とやらは)
彼は微笑を浮かべた。
この頃、越王・勾践は呉への出兵を考えていた。
彼は先の呉との戦いが初陣というわけではなかったが、始めて自分自身が全軍を率い、策を考えて勝利したことで、自身がついていた。
そのため呉への侵攻も必ずや勝てるだろうと考えていた。彼は水軍と陸軍の同時侵攻を考えていた。先ず、囮の水軍が五湖から侵攻させ、呉の注意を引きつけている間に、武原から陸軍で呉都に奇襲を仕掛けるというものである。
この計画を彼は以前から考えていた。
これを朝廷において披露すると霊姑浮などが賛成し、勾践を賞賛する中、范蠡が進み出た。
「国家の事は『盈を守る(「持盈」。隆盛を保つこと)』『傾きを安定させる(「定傾」。危険があった時、安定を図ること)』『事に節を持つ(「節事」。平時は節度をもって適切な政治を行うこと)』という三つがございます」
彼の諫言に勾践は露骨に嫌な顔をする。
「どうすればその三者を実行できるのだ?」
「『持盈』の者は天と共にあり天に従います、『定傾』の者は人と共におり、人に従い、『節事』の者は地と共におり地に従うものです。これらは王が問わなければ、私が敢えて語るようなものです」
この発言に勾践は内心では頭に来ていた。まるで国君ならば知っていて当然のことであると言いたげな言葉だからである。
「天道は満ちようとも溢れず、隆盛しようとも驕らず、労があろうとも己の功績を誇りません。そして聖人は時(天の時)に応じて行動するものです。これを『守時』と申します。天が事を起こさなければ(天がきっかけを作らなかったら。敵に天災等がなければ)、人の客(侵略者)になってはならず、人に事が起きなければ(敵に謀反等の人が起こす禍がなければ)、始(事件の発起人)になってはならないのです。しかしながら、王は満ちていないにも関わらず溢れ(国力が足りていないにも関わらず、野心を大きくし)、隆盛していないにも関わらず、驕りになり、労も無いにも関わらず、功績を誇ろうとなされ、天が事を起こしていないにも関わらず、人の客(侵略者)となろうとし、人が事を起こしていないにも関わらず、始(戦の発起人)になろうとしております。これは天に背き人と和さないことです。王がもし出征しますと、国家の害となり、王自身の身を損なうことになりましょう」
勾践が納得しないため、范蠡は続けて言った。
「徳とは礼によって譲ることであり、勇は力によって奪うことでございます。兵(兵器)は凶器であり、争とは事の末(最後に行う事)です。陰謀によって徳に背き、凶器を用いることを好み、人より先に戦争を始めれば、最後は人に害されることになります。淫佚(放縦)の事は上帝が禁じておりますことです。先に兵を用いれば、必ずや不利になりましょう」
しかし勾践は、
「そのような二言(陰謀と淫佚)はない。私は既に決定した」
と言った。
それに文種と計然が発言しようとすると、范蠡は目で制し、首を振った。二人は発言を止めた。
こうして越は呉への侵攻を決めた。
「范蠡、何故あれ以上、王をお止めしないのだ」
文種がそう言うと范蠡はため息をつき、
「名君ならば、一度の諫言で止まる。凡君でも二度で止まる。暗君でも三度で止まる。四度目はこっちが殺される」
「ならば何故、汝は三度目を言わない」
計然はそう言った。范蠡の言葉に従えば、後一回は諫言できるはずである。
「私の志は暗君では成し遂げることはできませんから」
范蠡は吐き捨てるように言った。それを見た文種と計然は顔を見合わせる。范蠡にしては珍しく怒っているからである。
彼は自分自身が思っている以上に越に思い入れがあった。そのため勾践が自分の言葉を受け入れず、それどころか。悪感情ばかり向けていくことが悲しくもあった。そのことを自覚していないこともあり、イラついていたのだ。
また、それ以上に彼は呉を滅ぼしたいという強い思いがあることが越への思い入れを自覚させなかったのかもしれない。
「負ける国にいつまでもいられるか」
「おい、何を言っているのだ。范蠡」
范蠡はそう呟いた。それを聞いた文種が止めようとしたが、范蠡は聞かずにそのまま自分の屋敷に戻り臣下に越を出る準備を始めさせた。
(さて、どこに行けば今度こそ、呉を滅ぼせるのだろうか)
越ならばできる。そう信じた。そう信じることができるほど、越王・允常の信頼を受けた。
(王、あなたがいれば私は呉を滅ぼせた。そう思えてなりません)
今は亡き允常のことを考えているとそこに呉句卑がやって来た。
「范蠡様、私の娘が来ました」
「娘というと確か鄭旦か」
「はい、西施様が范蠡様を呼んでいるとのことです」
「西施様が……」
西施と言えば、勾践の美しき妾である。それと同時に范蠡は彼女の姿を思い浮かべるとどこかが会ったような覚えがしてならなかった。
(どこかで会ったような気がするのだが……)
「わかった。参るとしよう」
范蠡は鄭旦と共に、 西施の元に向かった。
「では、西施様に報告がありますので、少しお待ちください」
鄭旦はそう言って、范蠡を待たせ西施の元に戻った。
「范蠡様を連れてまいりました」
「ご苦労様です」
西施は笑みを浮かべ鄭旦にお礼を言った。その笑みに鄭旦も思わず顔を赤らめる。
(本当に美しい人だ)
「有り難きお言葉です。では、范蠡様をここにお連れしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、その前に一つ聞いていいですか。鄭旦」
「なんでしょうか」
「范蠡様のお屋敷は慌ただしくなかったかしら」
彼女の質問に鄭旦は意味が理解できなかったが、そのまま答えた。
「確かに少しばかり慌ただしかったかと」
「そう……わかりました。では、連れてきてください」
「承知しました」
西施の元から鄭旦が離れて直ぐに范蠡がやって来た。
「范蠡様ですね」
「はい、左様でございます」
彼女は微笑みながら言った。
「狡い人ですね」
「何をおっしゃているのかわかりませんが」
いきなり暴言に近い言葉に范蠡は感情を込める、だが、西施は表情を変えずに言った。
「もうこの国をお出になる準備はできましたか?」
西施の言葉に流石の范蠡も驚いた。そして、傍に控えている鄭旦を彼は思わず、睨みつけた。
「鄭旦を責めないでくださいませ、范蠡様。彼女は私が訪ねたことを正直に答えただけです」
「いえ、そのようなつもりは……」
范蠡はそこまで言って少し間を置いて言った。
「確かに準備は行っています」
「王は呉との戦で負けますか?」
「負けるでしょう」
范蠡は断言した。
「だから去ると?」
「はい」
ここで彼は目の前の女性がどうするのかを測りかねていた。
(王に報告するか。だとすればここで排除した方が……いや、妾を殺して越を去るなどという真似をすれば他国が私を受け入れるとは思えない)
范蠡の目的は呉を滅ぼすことである。それができなければ、意味がない。
「それで良いとあなた様を思っているのですか?」
「私は王には既に諫言を行っております。これ以上どうすれば良いとおっしゃられるのでしょうか?」
「王の間違えを命を掛けて止めることが臣下の努めではありませんか?」
西施の言葉に范蠡は笑った。
「それで死ぬことになっては、国も民を救えないではありませんか。それでは、何の意味はないと私は考えております」
確かに命を掛けて主君の間違えを正す。なんと美しき主君への忠誠心であろうか。だが、その臣下の忠誠心は認められようとも、間違えを正されず、国が滅ぶのであれば、意味はないと范蠡は考える。
「あなたはここで諦めると?」
「王が私を信頼しないのです。これ以上は何もできません」
范蠡は首を振る。
「滅亡に追い込まれた時、あなた様はそこから滅亡を回避させることはできないのですか?」
西施の言葉を聞いた范蠡は少し、固まった。滅亡に追い込まれるような状態というのは、ほとんど詰んだ状態であり、そこから巻き返すことなど、ほぼ不可能であるはずである。
「もし、その時あなた様が王をお助けすれば、あなた様は王から絶大なる信頼を勝ち取ることができましょう」
確かにそのようなことができれば、信頼を得ることはできる。だが、それができるという確証は無い。
(しかし、もし王の信頼を得ることができれば、いや夫槩の時も信頼されていれば……)
それでももし、自分が信頼されていれば、自分の志は果たすことができたのではないか。そう思えた。
「あなた様は王から信頼を得ることができれば、呉に勝てますか?」
西施はそう范蠡に囁くように言った。
(勝てるか……)
どこかで呉を滅ぼすという志を忘れかけていたのではないか。ふと、范蠡はそう思った。
(私、らしくないな。私は本来であれば、その志を果たすために命を掛けてきたのではないか)
「勝てましょう」
范蠡は腹を括った。勾践から信頼を受ければ勝てる。そう自分に言い聞かせた。そしてそのための信頼を得るためにこれから訪れるだろう困難を乗り越えてみせる。そう自分に誓った。
その覚悟の言葉に西施は微笑んだ。
「きっとそう言ってくださると思っていました」
「この范蠡、必ずや西施様のご信頼に答えます。では」
范蠡は西施の部屋を出た。
「西施様……何故、范蠡様にあのようなことを?」
いくら国を心配しての行動とはいえ、ここまでのことをするということが不思議であった。
「私は……見たくないだけです」
(あの方のあのような弱気な姿を……)
屋敷に戻った范蠡は早速、呉句卑に言った。
「準備はできたか」
「できました」
「では、呉王の人柄、思考何でも良い。呉王のことを調べよ」
その言葉に呉句卑は驚いた。
「えっ」
「準備できたのではないのか」
「いえ、その先ほどまでの準備は……わかりました。直ぐ様、向かいます」
呉句卑は急いで、呉王・夫差の調査に乗り出した。それを范蠡は見送ると、計然の元に向かった。
「先生、この国で最も口の上手い者を知りませんか?」
「なんじゃ藪から棒に」
「お答えを」
計然は変な者を見るような目をしつつ、答えた。
「一人、変わり者だが、諸稽郢という男がおる」
「ぜひ紹介してください」
「それは構わぬが、急にどうしたのだ」
計然がそう言うと范蠡は、
「王の信頼を得るためです」
「確かに諸稽郢の弁舌を使って、此度の戦を止めるというのか?」
「違います」
「ならば、どう信頼を得るのだ」
「少し危険な手ですが……」
范蠡は腹を括る。
「越を滅亡一歩手前から救うことで、信頼を勝ち取ります」
范蠡の名が歴史に輝きはじめようとしていた。
士会って成長過程が書きやすかったなあと、今になって思います。




