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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序

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多言の者

 紀元前495年


 正月,邾の隠公いんこうが魯に来朝した。

 

 来朝の際、隠公は玉を持って高く挙げ、顔を上に向けていた。逆に魯の定公ていこうは恭しく玉を受け取り、下を向いていた。


 入朝した者が主人に玉を贈るのは当時の礼であるのだが、孔丘こうきゅうと共にいる子貢しこうがこれを伝え聞くと孔丘に言った。


「礼に基づいてこの事を観ますと、二君には死亡(死と亡命)が訪れることでしょう。礼とは死生存亡の体(主体)だからです。左右周旋も、進退俯仰も、礼に基づいているものであり、朝祀喪戎(朝会・祭祀・喪事・戦争)もそこから観察することができます。今回、正月の朝見を行いましたがが、双方とも度(制度。礼)に合いませんでした。これは心が既に亡んでいるからです。嘉事(喜ばしい事。朝会)が礼に合っていないにも関わらず、久しく存続できる者はおりません。高く仰ぎ見るのは驕(驕慢。傲慢)であり、卑しく伏せるのは替(怠惰。衰退)です。驕ならば乱に近づき、替ならば疾(病)に近づくもの。我が国君は主人ですので、先に死にましょう」


 彼の言葉に孔丘は敢えて何も言わなかった。


 衛に着くと、孔丘の元に、霊公れいこう夫人・南子なんしが人を送って彼にこう伝えた。


「四方の君子で我が君と兄弟の交わりを持とうとする者は、必ず私に会いに来るものです。また、私もあなたに会ってみたいと思っております」

 

 孔丘は辞退したが、その後も何度も人を送ってこられ、断りきれずやむなく謁見に行った。

 

 彼が南子の元に行き、南子の部屋に案内された。


「どうぞ、こちらに夫人がおられます」


 孔丘が部屋に入ると、南子は絺帷(葛の帳)の中にいた。孔丘は北面して稽首しすると、夫人も帷の中で再拝した。


 その際、南子の環珮玉がぶつかり合って音を響かせた。

 

 その後、孔丘は退席して、弟子たちの元に戻った。


「先生、何故南子などに会ったのですか」


 と、子路しろを始め皆、孔丘に詰め寄った。南子は淫蕩の噂が絶えない女性であることから、彼女と関わることを皆、良しとは思わなかったのだ。しかも孔丘は南子にしっかりとした礼を持って会っている。そのことも彼らからすれば、不満であった。


 孔丘は言った。


「私は本来、会うつもりではなかった。しかし、会った以上は礼を用いて応答しなければならなかったのだ。会いたくない相手にも屈しなければならない」

 

 だが、子路はその言葉に納得しなかった。


「それが君子の行いでしょうか」


 孔丘は天に誓って言った。


「私の行いが誤っているというのであれば、天が私を罰するだろう」









 

 呉が楚に進攻した時、胡君・ひょうが胡国周辺の楚邑に住む者を捕えた。

 

 楚が安定してからも彼は楚に仕えず、こう言っていた。


「存亡には命があるもので、天命によって決められているものだ。楚に仕えて何になるというのか。出費が増えるだけであろう」

 

 二月、楚の昭王しょうおうが胡を攻め滅ぼし、胡君・豹を連れて帰った。


「言っていることは悪くないのだけどね」


 昭王は子西しさいにそう言った。


「そうでしょうか。傲慢な言葉としか思えませんが」


「いやいや、彼の言葉は間違っていないさ。存亡は天が決めるもの、そのことは間違っていないさ。彼の間違いは自分の言葉が国の滅亡を早めることがあることを理解できなかったことさ」








 孔丘が衛に一カ月余滞在したある日、霊公が彼を招いた。そして、共に車に乗って市中を共に見ようと言った。


 孔丘が行くと、霊公と南子が同じ車に乗り、宦者・雍渠が参乗(同乗者)になっていた。一行が公宮を出ると、孔丘は後の馬車に乗せられ、市中を遊行した。

 

 彼ははこれに、


「好徳(徳を愛すこと)の者がこのように好色であったという話は聞いたことがない」

 

 孔丘は霊公を嫌って衛を去り、曹に行くことにした。


 曹に向かう途中で、魯の定公が高寝(宮殿の名)で死んだことを伝え聞いた孔丘は、


「子貢の言が不幸にも的中してしまった。この事で子貢を多言の者(口が多い者)とするだろう」

 

 そう呟いた。彼は子貢の才気を認めつつも、その才気のあり方に危うさも感じていた。優秀な分、弟子の中でも育てることが、難しい弟子と言えた。それでも彼は子貢の才覚を根気よく、磨き続けた。

 

 定公の後は、子の魯の哀公あいこうが即位した。







 

 宋の公子・が䔥で挙兵したが、敗れてその後、鄭に奔った。鄭は公子・地が住む場所を得るために、罕達かんたつに宋を攻めさせた。

 

 罕達は老丘で宋軍を破った。

 

 斉の景公けいこうと衛の霊公は宋を救うため、渠蒢(または「蘧蒢」「蘧挐」)に駐軍した。


 このような状況の宋に孔丘は曹からやって来た。

 

 孔丘はどこにいようとも弟子たちへの育成を欠かさずに行い、弟子達と共に大樹の下で礼について学んだ。


 しかし、考えてみるとどこからか来たのかわからない集団が大樹の下で礼について話し合っているという光景は中々に不気味なところはある。


 そのような思いを周辺の者たちが抱き、そのことを大夫らに訴えた。それが何の因果か、宋の上層部にまで届いた。

 

「もしや、敵国の間者か何かか」


 と宋の司馬・桓魋かんたいは疑念を覚え、孔丘らを殺そうとした。こんな間者がいるわけがないが、ただでさえ、国内がぴりぴりしている時である。仕方ない部分もあった。


 桓魋は大樹を伐り倒し、孔丘を殺そうとした。

 

 孔丘はこの宋の動きを前に宋からを去ることにした。


 弟子達が、


「速く行くべきです」


 と言ったが、孔丘は、


「天が私に志を与えているのだ。桓魋如きに何ができようか」


 と答えた。

 

 しかし、孔丘が宋を離れたということを桓魋は知った。


「やつら、鄭に向かっているのだな。やはり連中は間者であったか」

 

 孔丘は行き先を誤ったかもしれない。宋と鄭は現在戦闘状態にある。それにも関わらず、間者の疑いをかけられている中、鄭に向かえば、疑われるのは無理はなかった。


 宋の兵が孔丘一行を追いかけ、何度も襲撃をかけたため、孔丘は弟子達とはぐれてしまった。


 それでも皆の無事を信じ続けた孔丘は鄭に辿りついて、一人で郭(外城)の東門に立って弟子たちを待った。

 

 子貢は襲撃を逃れ、必死に孔丘を探していた。そんな中、ある鄭人が子貢に言った。


「東門に人がおり、その顙(額)はまるでぎょうのようであり、その項(首)は皋陶こうとうのようで、その肩は子産しさんのようでございました。しかし要(腰)より下はより三寸短く、憔悴した様子(纍纍)は家を失った狗(または喪に服している家の犬)のようでありました」


 この言葉から子貢は、


(先生に違いない)


 鄭人にお礼を言い、急いで孔丘のいるであろう場所に向かった。そして、案の定、孔丘と会えた。


「先生」


「おお子貢か。どうしてここがわかったのだ?」


「実は……」

 

 孔丘と合流した子貢が先ほどの話を告げると、孔丘は喜んで笑い、こう言った。


「容貌については完全ではないものの。家を失った犬というのは、全くその通りだ。その通りだ」


 その後、他の弟子たちとも無事、合流して一行は陳に向かった。



 




地味に弟子たちを危機に追い込むところがある孔子さん。

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