斉の襄公
雪が降り積もる大地を兎が駆ける。その兎に向かって矢が放たれ、兎を射抜いた。
「お見事でございます」
矢を放った斉の襄公を付き添いの臣下たちが讃える。
そんな彼らの言葉に襄公は微笑を浮かべる。
「糾、お前もやれ」
襄公は糾に自分の持っていた弓を投げ渡した。
「はい」
糾は矢を構え、走り回っている兎に狙いを定めた。兎が止まると、矢を放った。
矢は真っ直ぐ兎に向かうと兎を射抜いた。それを見て、周りの者を感嘆の声を上げる。
「ほう、お前がこれほど弓の腕を上げているとは思わなかったぞ」
襄公は珍しく糾を褒めた。
「ありがとうございます。実はここに居ります我が傅である管仲より習いました」
糾は近くの管仲を指し、紹介した。
「そうか、以後も励め」
襄公は管仲に何ら興味を抱かず、狩りを続けた。
「糾様が褒められたのはお前のおかげだな」
召忽はそう言う。
「斉君がこの後も安泰であればな」
(しかし、斉君は少し変わられたか)
襄公という人は鞘から抜かれた剣のような者で誰彼構わず、傷つける人であると管仲は思っていた。だがここにいる襄公はそのような部分を出してはいなかった。
(この方は感情の人だ。良くも悪くも他者に対し自分の感情を現わにする)
ある意味襄公という人は純粋な人なのである。だが国君として純粋過ぎるのが彼の最大の欠点なのだろう。
そのように彼が考えていると召忽が言った。
「しかし、行きは何の問題も無かったな」
襄公に対し、不穏な動きがあるという情報があったと斉の上卿である高傒に伝えられ、参加することになった公子・糾らはそれに対し警戒しており、動きがあるのは狩りに向かう途中か帰る途中と考えていた。
(情報源である高傒殿が来ていないことが気になるが)
彼は斉の上卿たる高傒がこの場で指示を出さず、首都にいることを気がかりに思いつつ、召忽とこの後のことを話し合った。
その後も狩りが続き、襄公は狩りの結果に満足していた。
「流石でございます」
周りの者たちは讃える。
「糾、この先は分かれて進もう」
調子を良くした襄公はそう提案した。
「分かりました。ならば我らは右に」
「よかろう」
襄公と糾らは分かれて狩りを続けた。
襄公が狩りを続ける中、草むらから彼の元に近づくものがいた。
「なんだあれは」
襄公は草むらが動くのを見て、指を指すと、草むらから人間ほどの大きさの猪が現れた。
「なんという大きさか」
襄公を始め皆、驚く中ある者がこれを見て叫んだ。
「あれは公子・彭生です」
「彭生だと、何を言っているのだ」
叫んだ者を睨みつけると彼は猪に向かって弓を構え、矢を放った。すると猪は人のように立ち上がり、鳴き叫んだ。
車に乗っていた襄公はこれに驚き、車から落ち、靴が脱げた。
周りの従者たちは襄公を立ち上がらせ、車に乗せた。
車に乗せられた彼は姑棼の公宮に帰ると言い出し、車の従者に馬を出すよう命じた。
襄公ら数名が姑棼の公宮に戻ることを別行動をしていた糾らや守備に就いている者たちが誰も知らずにいる中、そのことを知った者たちがいる。公孫無知らである。
「何、君が姑棼の公宮に向かっているだと」
「どうなさいますか」
予想よりも早く襄公が戻ってしまったので管至父が動揺するが
「君に従っている者は少数とのことです」
連称はそう公孫無知に報告した。
彼の報告を聞き、公孫無知は笑みを浮かべた。
「これ以上ない好機である。このまま公宮に乗り込むとしよう」
彼らは兵を率いて公宮に向かった。
公宮に戻った襄公は自分の靴が無いことに気づいた。そのため寺人(宦官)の費にこれを探させたが見つからなかった。
「主君。見つかりません」
「貴様、靴が見つかならないとはどういう事だ」
かっと怒りを表わにした襄公は費の背中を鞭で何度も血が出るまで打った。
背中が血だらけになり、ふらふらになりながら費は公宮を出るとそこには公孫無知らの兵がやって来ていた。
兵らは彼を見つけると縄で捕らえた。
「私は抵抗しない」
費はそう言うと自分の血だらけの背中を兵たちに見せた。
「私も主君に対し、恨みがある。私が先導しよう。だから縄を解いて欲しい」
兵たちはこれを信じ、彼の縄を解いた。
「かたじけない」
費は公宮に駆け出した。そして、中に入り、襄公に会うと彼に謀反の事を伝え、戸の間に隠れさせた。彼を隠れさせると費は剣を持って、迫り来る兵たちに向かって行った。
「騙したな」
兵が叫ぶと
「己の主君に剣を向けるよりも騙す方がマシだ」
費はそう叫び返し、剣を振るって兵に殺された。
襄公の臣である石之紛如は階下で槍を振るって戦死。
侍人の孟陽は襄公の振りをして、床の上にいるのを兵によって殺された。
「これは主君では無い」
床の上にいるのが襄公では無いことに気づいた兵たちは襄公は探す中、戸から足が見えた。兵たちはそこに向かって、槍を突き出した。
襄公は死んだ。
襄公がいなくなったことに糾らが気づいたのはその頃であった。
「お前たちは何をしていたのか」
召忽は襄公の兵に怒鳴る。
「いつの間にかご主君が居らず」
(不味い。この事態は他に知られれば不味いぞ)
管仲が浮かない顔をしていると公宮の方から兵がやって来た。
「無知様、御謀反。主君が無知様により殺されました」
「何だと」
召忽は驚き、兵たちは皆、これに動揺する。
(遅かったか)
「管仲殿、早く兵を集め無知を討とう」
「いや、それは無理だ」
管仲は召忽の提案に反対する。
「何故だ」
「ここにいる兵は少数。公孫無知の兵力は不明。士気も上がっておらず、私たちに他に味方する者はいない。この状態で戦っても負ける確率の方が高い」
召忽が管仲に食ってかかると管仲はそう答える。
(特に高傒殿は味方ではない。彼は公孫無知の動きを察していながらこれを止めようとせず、糾様までここで始末するつもりだったのではないか)
たまたま襄公が公宮に戻ってしまったために糾は無事であったが、糾が殺される可能性を管仲はぬぐい去る事ができなかった。では同じ斉の上卿である国氏はというと高傒と同じであろう。糾には味方が居ない。
「ならばどうするのだ管仲」
糾が聞くと管仲は答えた。
「魯に出奔しましょう」
糾の母は魯の人である。
「魯にか」
「はい。魯は糾様の母の国であり、魯と斉は同盟関係。我らを迎え入れてくれるでしょう」
「召忽の考えは」
糾は隣の召忽に聞いた。
「管仲殿の言う通りでよろしいかと」
「わかった。管仲の言う通りにしよう」
「では準備致します」
(魯の方が莒より、近い)
管仲の頭の中には常に鮑叔がいる。
(鮑叔ならここではまだ動かないだろう。動くとすれば公孫無知が乱にあったときだ)
公孫無知も襄公のように乱で死ぬと思っている。そのため公孫無知は怖くない。怖いのは鮑叔である。
(次が勝負だ)
管仲は未だ姿を現さない友に向かってそう思った。
公孫無知は即位し、公子・糾らは魯に出奔した。斉の混乱は未だ続く。