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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十一章 崩壊する秩序

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越王・允常

最初は范蠡は周公旦のような性格にしようと思っていました。


周公旦については外伝の『女兵』を見てもらえるとわかりやすいと思います。

 范蠡はある屋敷に出向いていた。


 屋敷に住んでいる男の名は計然けいぜんという。


 彼は葵丘濮上の人で、姓は辛氏、名は研、字は文子という。その先祖は晋から亡命した公子であると言われ、今は見聞を広めるため至るところを歩き回り、遊説している人物である。


 遊説家の走りと言える人から知れない。


 そんな人物を招くよう范蠡は越王・允常いんじょうに命じられていた。


(しかし苦労した)


 何せ相手は至るところを移動し、一つのところに留まるということをあまりしない人物であり、今回は自身の屋敷に戻っていることを知り、慌ててやって来たのである。


「范蠡です。越王の命令によって参りました」


 そう言うと屋敷の住人が彼を部屋に案内した。


「おお范蠡殿、このようなところにわざわざ来て頂き感謝致しますぞ」


 范蠡を迎え入れたのは、白く長い髭を生やした老人であった。


「あなたが計然先生でしょうか」


「先生などとは、私はしがない老人でございますぞ」


 計然はそう言って笑った。


「先生、私が参った理由はお解りかと思いますが、私が此度参りましたのは、先生を迎えに参ったのです」


「ふむ、越王がか」


「はい」


 計然は少し考え込みながら答えた。


「このようにわざわざ迎えまでよこされた越王の思いは理解した。されど越王の病が重いのだろう?」


 確かに今、越王・允常は病に倒れていた。


(それを知っていたのか……ならば隠し事をするのは難しいか)


「ええ越王は今、病に伏しております」


「左様であろう。そのため私が今、仕える上で次代の王がどのようなものであるかと知りたいのだ」


 もうすぐ死のうとしている越王・允常の実力は計然も理解してはいるものの、太子である勾践こうせんの実力は未だ未知数である。


「わかりました。太子と謁見ができるようにしましょう」


「そうか。感謝する」









 数日後、計然は勾践に謁見した。


 しばらくして、計然が勾践の部屋から出てきた。


「どうですか」


「うむ、太子は素晴らしい才覚をお持ちであろう。政治能力も策略を巡らす能力もある」


 彼は勾践の才覚を認めた。


「左様ですか。ならば」


「だが、同時に難しい人でもある。策謀の才を有しながら頑固なところがある。仕えるのは、中々に難しい人と言えような」


「それでも太子ほどの能力を有している君主は中々いないのではないでしょうか」


「それもそうだが、汝も理解しているだろう有能な者が君主になることが最上なのではない。有能な人間を使える者こそが君主になるべきなのだと」


 ある意味、国君という人の上に立つ存在であり、組織の長として組織の秩序を保つ以上は人を使う才覚が無ければならないものである。それは個人的な武勇などと言った才覚ではないのである。


 計然は勾践の才覚を策略家と評している。本来、その才覚は国君の補佐するべき者が有するべきものであり、国君の才覚とは言えない。


「汝も難儀なものですなあ」


 しかし、勾践以上の人物は越にはいない。それにも関わらず、范蠡はその勾践に嫌われている。


「仕方ありません」


「まあ取り敢えず、越に私は仕えるとしよう」


 計然はため息をつきながら言った。


「有り難きお言葉です」


 范蠡が礼を言うと計然は首を振った。


「何、私が太子に仕え汝との間を取り持ってやる」


「勿体無きお言葉です」


「汝は何度も私の元に出向いて下さったのだ。それに報いねばならぬ」


 計然は范蠡という男に好意を持っている。


「ですが、無理はなさらないでください。太子は先生が申した通り頑固な部分があります。そう簡単に考えを変えることはできません」


 范蠡は笑みを浮かべる。


「私のことは私が何とかします。先生は越のために才覚をお見せください」


「わかった。汝の言うとおりにしよう。だが、頼る時はしっかりと頼ることだ」


「はい」


 その数日後、越王・允常の命がもうあと少しという知らせが范蠡にもたらされた。


「范蠡様、王がお呼びです」


 范蠡は允常に呼ばれ、彼の横たわる床の隣に立った。


「范蠡が王に拝謁致します」


「表を上げてくれ范蠡よ」


「感謝します」


 范蠡が顔を上げると弱った姿の允常が見えた。


「私の代で呉を討つことは叶わず、志半ばで世を去ることになる。范蠡よ。どうか息子を補佐し、志を果たされよ」


「王、有難い言葉でございます。しかし……」


 范蠡には疑問があった。


「何故、王は私のようなものをそこまでお信じになられるのですか」


 允常は少し黙っていたが、しばらくして口を開いた。


「最初は汝を利用できると考えて、越に招いた」


 允常は懐かしそうに目を細める。最初は范蠡のことを利用できるぐらいのことしか考えてなかった。


「だが、汝と話してみて、一つわかったことがある。それは汝が呉を滅ぼそうとした際、滅ぼせなかった理由を他者のせいにすることはなかった。そこに汝の誠実さを見たのだ」


 允常は続ける。


「だから汝を信じることにしたのだ。人を信じることはそれだけで良いでしょう」


「勿体無きお言葉でございます」


 范蠡はこれほど允常が自分を信じていることを彼は知った。


(王が私を使うのは、利用できるからだと思っていた。私は呉への復讐を果たすために、それでも構わないと思っていた。されど……王はこれほど信じて下さっていたとは……)


「范蠡よ。後は頼む」


「仰せのままに」


 いつぶりだろうか。范蠡は目からは大粒の涙が流れるのを感じた。


 越は禹王うおう(夏王朝の創始者)の苗裔(後裔)であり、夏の少康しょうこうの庶子が会稽(越都)に封じられて禹の祭祀を守ったのが越の始めであると言われている。


 越人は身体に刺青をし、髪を切って短くし(冠をかぶらず)、未開の地を開いて邑を造っていたが、その二十余世後に允常が一代で国としてまとめ上げた。


 その越王・允常が死んだ。



 

 



范蠡は史書にはほぼ人格、能力共にほぼ完成された状態で出てくるので、成長過程を書くのが難しい人物です。

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