墮三都
大変遅れました
紀元前498年
衛の公孟彄(孟縶に子がいなかったため、霊公が自分の子・彄に後を継がせた。孟縶は字を公孟といったため、子孫は公孟を氏にした)が曹を攻めて郊(地名)を攻略した。
帰還する時、大夫・滑羅が殿を命じられたが、行軍の列から離れようとしなかった。
御者はそれを咎めた。
「殿になりながら後ろに行かず、列にいるというのは、無勇というものではございませんか?」
滑羅は、
「素厲(徒猛。意味のない勇猛)であるくらいならば、無勇であったほうが良かろう」
と言った。
殿は敵の追撃を防ぐ任務があるが、滑羅は曹が追撃することはないと判断していた。それなのにわざわざ殿になって中身のない勇を見せることに反対したのである。
武人としての矜持と言うべきだろうか。
当時の魯では公室よりも三桓が権力を握っていたが、三桓の内部でもそれぞれの食邑の宰が大きな力を持ち、脅威になっていた。
かつては南蒯が費で叛して季叔氏を苦しめ、最近は侯犯が郈で叛した。
孔丘はこの上下の秩序が乱れた状況を強く憂いていた。だが、同時に公室の権力を取り戻す良い機会でもあると考えていた。
(本来、国君の地位を臣下が犯すことはあってはならないのだ)
彼は臣下の地位を抑えるために動き始め、魯の定公に進言した。
「家(大夫)は甲冑を保管せず、邑(卿大夫の邑)は百雉の城(雉は高さと長さの単位。一雉は長さ三百丈、高さ一丈。百雉の城は国君の城の規模)をもたないというのが古からの制度です。今の三家(三桓)は制度を越えておりますので、全て取り壊すべきです」
孔丘の弟子である仲由(字は子路)は季孫氏の宰を勤めていた。
そのため孔丘は彼を通じて三都(三桓の采邑。季孫氏の費、叔孫氏の郈、孟叔氏の成)を取り毀すように命じることにした。
この出来事を「墮三都」という。
先ず、叔孫州仇が兵を指揮して郈城の取り壊しを実行した。
季孫氏も費邑を取り潰そうとし、季孫斯と仲孫何忌が費邑に兵を出した。
当時の三桓は邑を宰に任せ、自分自身は国都で政治を行っている。叔孫氏と季孫氏が自邑の取り壊しに積極的であったのは、自分がいない間に宰に邑を乗っ取られることを恐れたためである。
費邑の取り壊しに起きると費邑の宰・公山不狃と叔孫輒が費人を率いて逆に魯の都城を攻撃した。
定公と三子(季孫斯、叔孫州仇、仲叔何忌)は季孫氏の宮室に入り、武子の台に登った。費人たちは台を攻撃したが、なかなか攻略できない。
費人が台下に迫って矢を射ると矢は定公の近くを飛び、刺さった。
「ひいぃ」
「主公、落ち着いてくださいませ」
これに対して司寇・孔丘は申句須と楽頎に反撃を命じた。二人は台から降りると、費人を攻撃し、費人は敗れて逃走し始めた。
国人が追撃して姑蔑で費人を破り、公山不狃と叔孫輒は斉に奔った。
その後、予定通り、費城は取り潰された。
さて、ここで問題が起きた。成城を取り毀そうといた時、成の宰・公斂処父が仲孫何忌に訴えたのである。
「成を潰せば、斉人が北門に至り、孟孫氏の守備が薄くなってしまいます。成が無くなれば孟孫氏も存在できません。あなた様は知らないふりをしてください。私は取り潰しを実行しません」
公斂処父は斉からの侵入を防ぐ意味でも、同意できない旨を魯に伝えた。
「ならば、そのようなことがないようになさればよろしいのです」
孔丘はこの主張に対し、定公にこう勧めた。
十月、定公が斉の景公と黄で盟を結んだ。
「斉への侵入はこれで無くなった。直ぐ様取り壊しを行うように」
と、成に伝えたが、成の公斂処父はこれに同意しなかった。
十二月、定公は従わない成を孔丘の進言により、包囲したが、勝つことはできず、引き上げた。
「仲孫何忌よ。汝が命じ、成の取り壊しを行え」
孔丘はそう命じた。
仲孫何忌は悩んだ。孔丘に師事してきただけに彼の行おうとする理屈は理解できる。しかし、成の取り壊しは仲孫氏にとって問題があることも事実である。
彼は悩み抜いて、成を取ることにした。しかしそれには孔丘の考えを考えなければならない。そこで彼が頼ったのは、
「左丘明殿、お願いがあって参りました」
左丘明であった。彼は孔丘の友人であることは周知の事実であるからである。
「仲孫様、お顔をお上げください」
「いえ、私の願いをお聞きになっていただきたのですからそういうわけにはいきません」
「願いとは?」
「師の成の取り壊しを取り消すことを左丘明殿から願ってもらいたいのです」
左丘明はその言葉に思わず渋い顔をした。
(孔丘が許すわけがない)
彼の頑固さは自分が誰よりも理解している。
「仲孫様もご理解していると思いますが……」
「わかっております。されど、それでもお力をお貸しください」
「しかし」
「もう左丘明殿だけが頼りなのだ」
今、目の前で高貴な身分の者が苦しみ、身分の低い者に頭を下げ、乞うている姿に左丘明は胸が苦しくなる。
「私も師匠の弟子の一人なはずです。それなのに何故、師匠は私を苦しめられるのでしょうか」
「孔丘は仲孫様を苦しめているわけではないのです」
仲孫何忌を落ち着かせ、左丘明は答えた。
「わかりました。今は亡き父はあなた様のお父上にお仕えいたしました。この御恩は返さねばなりません。本来、私は史官としては政治に口出すべきではないと思いますが、孔丘に進言してみます」
「感謝します」
仲孫何忌は涙を流して喜んだ。
「先生、左丘明殿が参られました」
「おお、左丘明殿がか」
孔丘の屋敷はどっと沸いた。孔丘は喜び、直ぐにここに連れてくるよう言った。
「左丘明殿とは?」
そう子路に訪ねたのは、子貢である。
「ああ、お前は知らなかったな。左丘明殿は先生のご友人だ」
「ほう」
そこに左丘明がやって来た。
「よく来てくれたな」
「久しぶりだな」
「今日は何の用で参ったのだ?」
孔丘がそう聞くと、左丘明は答えた。
「成についてです」
「そうか……皆、下がれ私は彼と二人で話す」
「わかりました」
孔丘の弟子たちが下がると彼は口を開いた。
「仲孫何忌からか」
「ええ」
「私は考えを変えるつもりはない」
「相も変わらず頑固なことだ」
やれやれと左丘明は首を振る。
「成は礼のあり方から反している。反している以上は取り壊せねばならない」
「斉からの侵攻に備えるために必要ではないのか」
「だからこそ、斉との関係修復に尽くしたのではないか」
「斉に信義はあると言えるか」
「信義を求め、努力することが我らが役目だ」
どちらも主張を曲げようとしない。
「三桓のうち、季孫氏、叔孫氏の両氏は既に取り壊しを行っているのだ。それなのに仲孫だけ許すというのは、政治の公平さが失われてしまう」
「汝が取り壊しを行おうとした三邑のうち、季孫氏、叔孫氏とそれぞれの邑は仲が悪かったために離反の可能性があった。しかし、仲孫氏の成は仲孫様と仲がよく、国を重んじる者が邑を治めている他の二邑とは状況が違うではないか」
「それは詭弁であろう。礼に反しているから取り壊しを行うということであり、離反の可能性を持って、行うわけではない」
孔丘は論点のすり替えだと批難した。
「多少、礼に反しようとも妥協は行えないのか」
「妥協を重ねれば、災いとなる。妥協など許されることではない」
「何故?」
「何故と申すのか。左丘明とあろうものが、妥協によって礼に反するなど、君子のすることではない」
左丘明はこの言葉を待っていた。
「私も汝も貧しい暮らしの出である」
「ああ」
「そして、仲孫様は富家の出であり、汝の弟子の一人である子貢もそうだな」
孔丘は静かに頷いた。
「富があることが当たり前の者は中々、それを捨てて、貧しき者にはなれないものだ。それなのに汝はそれを捨てろと申している。それは理不尽というものではないのか」
「理不尽ではない。君子とは富に甘えない者のことだ」
「それを君子であることを強要だと申しているのだ。君子であることを他者に強要するのは、君子と言えるか」
「そんなことはしていない」
「誰もが君子になりたいと願おうとも君子になれるわけではない」
「私はなれると信じている」
(これが孔丘という男だ)
理想と現実を見ながらもそれでも理想を選ぶことができる人である。
(この男を納得させることはできない。だが……)
「仲孫様はこう私に申された。師は何故、私を苦しめるのかと」
「何を言って」
ここで始めて孔丘は動揺した。
「仲孫様は汝の弟子であることを忘れたことはない。しかし、汝は仲孫様を手助けするどころか。不利益を被らせている。汝は弟子を思いやっていない」
「左丘明、それは侮辱か」
「侮辱ではない。事実を申しているのだ」
左丘明の言葉に孔丘は始めて怒りを見せた。
「それを侮辱だと申しているのだ」
「ならば何故、ここまで言わせるほど、ほっといたのだ。汝が誰よりも弟子を思いやる男であることは私が知っている。だからこそ、私は汝に言いたい。何故、仲孫様がここまで言うほど汝はほっといたのだ」
「ほっといたなど……そんなことは……」
孔丘は静かに言葉を零す。
「話しはここまでだ」
左丘明はそれだけ言って、部屋を出た。
(誰よりも弟子たちを思いやる男だ。そのことを私は誰よりも知っているはずなのに……)
「左丘明殿、口論なさっていたようですが……何かあったのでしょう」
孔丘の弟子たちは部屋から出てきた左丘明の前に並んだ。
「私は皆の師が大切にしているものを踏みにじってしまったのだ」
弟子たちは思わず、顔を見合わせる。
「どういう意味でしょうか」
「私の言えることはただ一つだ。私のようになるな。誰かの大切にしているものを踏みにじってはいけない。それだけは皆、わかってくれ」
そう言うと左丘明は孔丘の屋敷を出た。
その後、成城の取り潰しは中止された。季孫斯が一変孔丘を批難し始めたことも大きかったが、孔丘自身も自ら中止を言った。
こうして三桓の勢力を削って魯の国君の地位を向上させる動きは失敗に終わったのであった。




