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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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夾谷の会

 紀元前500年


 三月、魯と斉が講和を行うことになった。斉と晋の対立が深まっている中、これ以上の対立を避けようと考えた晏嬰あんえいが動いたことで、相成ったことである。

 

 一方、魯では孔丘こうきゅうの治世が認められるようになっていた。定公は孔丘に問うた。


「汝の施政の方法を学び、国を治めたらどうだろうか?」

 

 孔丘は政治を行い、上手く言っていることで自信ができているのか、


「天下を治めることもできましょう。魯一国ならば、なおさらでございます」


 と言った。

 

 定公は孔丘を司空に任命した。

 

 司空になると孔丘は各地を土地の性質に応じて山林・川沢・丘陵・高地・沼沢の五土(五種類の地形)に分け、各種の植物をそれぞれに合った土地で育てさせた。そのおかげで植物が繁茂するようになった。

 

 以前、季孫氏は昭公しょうこうを墓道の南に埋葬し、先公の墳墓と分けたことがあった。孔丘は昭公の墓と他の墓を全て大きな溝で囲み、昭公の墓も諸墓の敷地内に入れてから、季孫斯きそんきに進言した。


「国君を貶め、自らの罪を明らかにすることは非礼でございます。今、墓陵の土地を一つにしましたので、あなたの不臣の罪を覆い隠すことができました」


 季孫斯は彼の言葉を聞くと喜んだ。父の悪名を被りたくはなかったということと、父が陽虎を使っていたために面倒な目にあったために父への反感が彼にはあったためであろう。


 彼は孔丘の功績を認めさせ、魯は孔丘を司空から大司寇に抜擢した。


 これはあまり仲孫何忌ちゅうそんかきにとってはあまり面白くはなかった。


「何故、先生は季孫氏に近づくのだ。あの者は決して先生が好まれる人物ではないのだぞ」


 季孫氏が師である孔丘が用いられて、利用されるのではないかという思いと、自分に力を貸して欲しいと思いが彼にはある。


 そんな彼を左丘明はなだめた。


「孔丘は、決して季孫氏に近づいたわけではございません。彼は自分の行ったことを認めさせるために季孫氏を説得しただけです。以前にも申した通り、彼は党を作ることを好みません。あまりお気になさらずとも大丈夫です」


 その言葉に仲孫何忌は納得した。


(だが、確かに季孫氏に利用される可能性はある。そのことを孔丘がわかっていると良いのだが……)


 左丘明はそう思った。

 









 大司寇となった孔丘は刑法を作っても用いる必要が無く、国に姦民がいなくなったと言われるほどの善政を行う中、夏に定公と斉の景公けいこうが祝其で会すことになった。祝其は夾谷(または「頬谷」)ともいう。

 

 孔丘は定公の相(国君の補佐)を務めることになった。


 魯の相は本来、卿が務めるものであったが、陽虎の乱がきっかけで孔丘が破格の抜擢を受けることになり、彼が勤めることになったのである。

 

 斉の犁彌(または「犂鉏」)が景公に進言した。


「孔丘は礼を理解しておりますが、勇はございません。萊人に武器を持たせて魯君を脅迫させれば、志を得ることができましょう」


 外交問題に発展しかねない進言であるが、景公はこれに従った。


 会盟の日になると孔丘は斉の動きを察した。


 定公を連れて会盟の場所から退出すると、魯兵に向かって言った。


「士よ、武器を持て。両君が好(友好)を交わらせる場所でありながら、裔夷(辺境の夷。東夷)の俘(捕虜。莱は斉に滅ぼされたため、俘と称した)が武器を持って乱そうとしている。これは斉君が諸侯に命を下す態度ではない。裔(辺境)は夏(中原)を謀らず(侵さず)、夷は華を乱さず、俘は盟を侵さず、兵(武器)は好(友好)を脅かさないものである。これらのことは天に対して不祥であり、徳においても義を失い、人に対しても礼を失う行為であり、国君がやるべきことではない」

 

 景公はこれを聞いて莱人を退かせた。

 

 その後、盟を結ぶ時になって、斉側が載書(盟書)にこう書き加えた。


「斉軍が国境を出る時(斉が戦をする時)、魯が甲車(兵車)三百乗で従うことをこの盟で誓わん」

 

 これに対し、孔丘が魯の大夫・茲無還じむかん(茲が姓、無還が名。または「茲無」が姓。「茲毋」という姓もある)に返礼の揖(両手を胸の前で組んで上半身を傾ける礼)をさせてから、こう誓わせた。


「斉が我が汶陽の田(地)を返還しないまま、我が国がこの命に従えば、咎を受けることを誓わん」


 逆に言えば、斉が汶陽の田を返還すれば、我が国はそれによって斉の命に応じることを誓うということである。

 

 斉は汶陽の田の返還を望まず、この盟の内容は書き直された。

 

 その後、景公が定公のために享礼(宴の一種)を設けてもてなそうとした。しかし孔丘は梁丘據に迫り言った。


「斉と魯の旧典をあなたは聞いたことがないのでしょうか。既に事が成立したにも関わらず、また享礼を設ければ、執事(執政者)を煩わせることになります。そもそも、犧・象(どちらも酒器)は門(国の門)を出ず、嘉楽(鐘・磬)は野で合奏しないものであり、饗礼(享礼)を設けてこれらをそろえれば、礼を棄てたことになります。しかし逆にこれらがそろっていなければ、秕・稗(実が成らない穀物や穀物に似た草)と同じことです。酒器も楽器もそろっていない享礼は秕・稗のように中身がないも同然ではありませんか。秕・稗を用いるのは(そのような享礼を行うのは)、国君を辱めることであり、礼を棄てれば、名声を悪くすることになります。なぜあなたはこれらの事を考えないのでしょうか。享礼とは徳を明らかにするために行うのです。徳を明らかにできないのなら中止するべきではありませんか」

 

 梁丘據が定公に進言したため、享礼は中止になった。

 

 こうして孔丘が歴史上で始めて輝きを魅せた夾谷の会は終わった。

 

 

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