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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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陽虎

 紀元前501年


 春、宋の景公けいこうが桐門右師・楽大心がくたいしんを派遣して晋と盟を結ぼうとした。楽祁がくき(子梁しりょう)の死体を取り戻すためである。


 しかし楽大心は病と称して辞退した。

 

 景公は向巣しょうすうを晋に送り、盟を結んでから楽祁の死体を宋に運んだ。

 

 因みに向巣は向戌しょうじゅつの孫である。向戌は向超しょうちょうを産み、向超は向眇を産んだ。向眇が向巣であると言われているが、向巣の父であるという説もある。

 

 楽祁の霊柩が国境まで来たが、楽溷(子明。楽祁の子)は喪中のため、国外に出ることができない。そこで楽溷は楽大心に霊柩を迎え入れさせようとし、こう言った。


「私が衰絰(喪服)を着ているにも関わらず、あなたが鐘を撃っているのはなぜでしょうか」

 

 鐘を撃つというのは遊んでいるという意味である。


 病と称して晋に行くことを拒否した楽大心を非難し、霊柩を迎えに行くように促している。

 

 楽大心はこう答えた。


「喪(霊柩)がここにないからだ」


 死体が晋にあるから喪に服していないという理屈である。

 

 後に楽大心が知人にこう言った。


「彼自身は衰絰を着ながら(喪中でありながら)子を産んでいる(この頃、楽溷に子ができたようである)。それなのになぜ私が鐘を捨てなければならないのか」


 楽祁の子の楽溷であっても喪中に子を作ったというのに、親戚の自分が遊んでいてなぜ悪いのかという開き直りとも取れる言動である。

 

 これをどこからか聞いた楽溷は怒って景公にこう言った。


「右師(楽大心)は宋に対して不利をもたらそうとしておりますので、晋への使いを拒否したのです。もうすぐ乱を起こすはずです。そうでなければ病と称する必要はないと思われます」

 

 この話しを聞いた景公は翌年、楽大心を放逐することになる。

 

 鄭は子太叔したいしゅく亡き後、鄭の政治を担ったのは、駟歂(子然)である。


 その彼は鄧析を殺したが、鄧析が作った『竹刑(竹簡に記された刑律)』を採用した。

 

 君子(知識人)たちは、


「子然は不忠である。国に対して利をもたらす者には、その者の邪の部分を棄てるべきだ。子然は賢能の人材を励ますことができない」


 と批難した。


 有能な人間を使うのであれば、その人物短所に対して寛大であるべきであり、殺しておいてその人物の作ったものは活用するのは、偽善である。


 四月、鄭の献公が死に、子の声公せいこうが継いた。

 











 魯は陽関で乱を起こしている陽虎ようこの討伐軍を派遣した。

 

 陽虎は討伐軍を前にして戦い続けるも、数の差は絶大であった。


 しかし、彼はその数を前にしても諦めようとはしなかった。


(私は生きる。生きるぞ)


 陽虎は萊門(邑門)に火を放った。驚いた魯軍に隙が生まれた。その機に乗じて陽虎は包囲を突破し、斉に奔った。

 

(魯め。復讐してやる)


 そう考えた陽虎は斉の景公けいこうに魯攻撃を求めて、


「三回魯を攻めれば、必ず取ることができましょう」


 と言った。

 

 景公は同意したが、老臣の鮑国ほうこくが諫めた。


「私はかつて施氏(魯の大夫)に仕えておりましたので、魯はまだ取れないということを知っております。上下が和し、衆庶(民衆)が睦み、大国(晋)によく仕え、天菑(天災)もございません。なぜ取ることができるのでしょうか。陽虎は我が軍を動かしたいだけです。我が軍が疲弊し、多くの大臣が死ねば、彼はここで詐謀(陰謀)を成すことができます。それに陽虎は季孫氏に寵信されていたにも関わらず、季孫氏を殺して魯に不利益をもたらそうと企んでいるために、他者の歓心が必要なのです。彼は富を愛して仁を愛しません。国君は彼をどう用いるおつもりですか。国君は季孫氏よりも富み、斉は魯より大きいため、陽虎は傾覆(斉の乗っ取り)を考えることでしょう。魯は既に陽虎の禍から免れたのです。主公が彼を収めれば、必ず主公の害になります」

 

 納得した景公は陽虎を捕えて斉の東部に拘留しようとした。


(ちっ、斉の腰抜け目が、まあ良い晋に行く方が良いか)

 

 陽虎は晋に逃げることを考え、わざと逆の東方に拘留されることを願い出た。景公は陽虎に企みがあると思い、その希望を退けて西境に送った。


(甘いな斉めが

 

 陽虎は邑人から全ての車を借りると、車軸に深い溝を彫り、麻布を巻きつけて返した。陽虎が逃走したら斉人は邑の車を使って陽虎を追うことになる。そのため車軸に溝を彫ったのは、折れやすくして追撃を止めさせるためである。

 

 彼は葱霊(衣服を運ぶ車)に潜り込み、衣服で姿を隠して逃走を図った。しかし斉の追手に捕まり、斉都に幽閉された。


(まだだ。諦めんぞ)

 

 陽虎は再び脱出し、葱霊に乗って宋に奔り、その後、晋に行った。


 さて、どうしたものかと晋に着いた陽虎は考えているとそこに兵がやって来た。


「陽虎様ですね。我々は、趙家の者です」


「趙家、ほうそうか」


 陽虎は笑みを浮かべながらそれを受け入れた。

 

 趙鞅ちょうおうが陽虎を招くと言ったことに臣下たちは止めたが、聞くことはなく。更には陽虎を歓迎し、趙氏の相に任命した。流石に優遇し過ぎだと近臣たちは諫言した。


「陽虎は人から国政を奪う能力に長けております。なぜ相にするのですか?」

 

 趙鞅は、


「陽虎が権力を取ることに努めるというのならば、私はそれを守ることに努めるまでである」


 と言ったため皆、黙ってしまった。


 それを聞いた陽虎は、


「主が賢明ならば私は心を尽くして仕えるが、不肖ならば奸を飾って試すものである」


 と言って笑った。嘘にしか見えない言動であった。


 趙鞅はこの危険人物を権術によって御した。やがて彼を使って、己の権威を高めていくことになる。

 

 後に孔丘こうきゅうはこの話しを聞くと、


「趙氏は代々乱を招くことになるだろう」


 と言った。


 しかしながらいくら趙鞅と言っても陽虎の使おうとしたのは、何故だろうか。


 もしかすれば、彼は自分に匹敵する才覚の持ち主を相手することに飢えていたのかもしれない。右を見ても左を見ても彼からすれば、無能ばかりであると考えている。


 そんな相手することよりもどうせならば、自分に刃を向けるかもしれない危険人物を配下にいる方が、彼にとっては、好ましかった。


 彼の願いは自分と肩を並べる。それ以上の能力の者と戦いたい。競いたいというものである。


 しかし、彼の前にそういった人物はただ一人を除いて現れることがなかった。そして、そのただ一人が自分の息子であったことが彼にとって最大の不幸であったかもしれない。


 この年、趙無恤ちょうむじゅつが産まれた。


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