林楚
秋、晋の士鞅が周の卿士・成桓公と共に二年前に鄭が伊闕を攻めた報復のため、鄭を侵し、蟲牢を包囲した。
その後、衛にも侵攻した。
更に晋は魯に要請し、季孫斯と仲孫何忌は要請に答え、衛を攻めた。
それに対し冬に衛の霊公と鄭の献公が曲濮(衛地)で盟を結んだ。
そんな天下の対立が起きている中、魯の季寤(子言)、公鉏極、公山不狃は季孫氏に仕えていたが、どうにもぱっとしなかった。
季寤は季孫意如の子で、季孫斯の弟である。
公鉏極は公彌(公鉏。季孫宿の子)の曾孫である。公彌が頃伯を産み、頃伯が隠侯伯を産み、隠侯伯が公鉏極を産んだという流れで、公鉏は公彌の子孫が用いた氏である。
叔孫氏の庶子・叔孫輒は叔孫氏において寵愛を受けることなく、叔仲志は魯でうだつが上がらなかった。
叔仲志は叔仲帯の孫にあたる。
不満を抱えているこの五人(季寤、公鉏極、公山不狃、叔孫輒、叔仲志)はやがて陽虎を頼るようになった。
そこで、陽虎は三桓(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏)を除き、季寤を季氏(季孫斯)に、叔孫輒を叔孫氏(叔孫州仇。叔孫不敢の子)に代え、自ら孟氏(仲孫何忌)の代わりになろうというとんでもない野心を抱くようになった。
十月、陽虎が先公(閔公・僖公)を祀って祈祷した。
その後、彼は蒲圃で享礼の準備をした。季孫氏を誘い出して暗殺するためである。
陽虎は都車(都邑の車兵)に「癸巳(初四日)に参集せよ」と伝えた。
この陽虎の軍命を知った成邑の宰・公斂処父は仲孫何忌に問うた。
「季孫氏が都車に参集の命を出しておりますが、なぜでしょうか?」
実際は陽虎の命によるものなのだが、陽虎は季孫氏に仕えているため、季孫氏の命になる。
仲孫何忌は首を振り、
「そのような命は聞いていない」
と言うと公斂処父は、
「それならば陽虎が乱を起こすつもりなのでしょう。乱はあなた様にも及ぶことになります。先に備えるべきです」
公斂処父は壬辰(初三日)中に兵を出して孟孫氏を援けることを約束した。
陽虎が蒲圃に入った。享礼に誘われた季孫斯も蒲圃に向かう。
林楚が車を御し、虞人(山川や苑囿を管理する官)が鈹(刃が長い武器)と盾を持って季孫斯を囲み、陽越(陽虎の従弟)が殿になった。
蒲圃に入ろうとした時、季孫斯が突然、林楚に耳打ちした。
「汝の先人は皆、季孫氏において良臣であった。汝もそれを継いでもらいたい」
陽虎の目論見が察知できないほど、彼も感が悪いわけではない。
林楚はため息をつき、
「その命を聞くのが遅すぎました。今は陽虎が政治を行い、国は彼に服しています。陽虎に背けば、死を招くことになり、死ねば主にも益はございません」
季孫斯は、
「遅いことはない。汝は私を孟孫氏の家に送ることができるか?」
と林楚に言うと、彼は頷き言った。
「私は命を惜しむつもりはありません。主が陽虎の誘いを拒否することで、禍から逃れられなくなることを恐れていたのです」
季孫斯は、
「行け」
と命じた。
「承知しました」
林楚は馬車を一気に駆けさせた。
この時、孟孫氏では、圉人(奴隷)の中から壮健な者三百人を選び、門の外に公期(仲孫何忌の子)の家を建てていた。
林楚は馬を駆けさせて衢(大通り)に至り、孟孫氏の門に入った。
季孫斯の後を追っていた陽越が矢を射たが中ることはなく、家を建てていた圉人が門を閉め、中の者が門の間から矢を射て陽越は死んだ。
陽虎は事態が一変したことを理解すると定公と叔孫州仇を擁して孟孫氏討伐の大義名分としようとした。
そこに成の兵を率いた公斂処父が到着し、上東門(魯東城の北門)から入って南門の中で陽虎に挑んだ。
将の力量としては陽虎の方が上で、公斂処父は南門では勝てなかったが、撤退する振りをして、再び棘下(城内の地名)で戦って陽氏勢力を破った。
追い込まれつつ陽虎は甲冑を脱いで公宮に入ると、宝玉(夏后氏の璜)と大弓(封父の繁弱)を奪い、外に出て五父の衢(地名)に逃れた。
そこで彼は一眠りしてから部下に食事の準備をさせようとした。その時、徒(徒党)が言った。
「追手が参ります」
陽虎は軽く笑い、
「魯人(季孫氏)は私が出て行ったと知り、自分の死を遅らせることができたと喜んでいるだけだ。追手を差し向ける余裕はなかろうよ」
しかし従者は、
「速く車を出すべきです。公斂処父がおります」
「ならば、逃げねばな。これでも全くしつこい男というものは女でなくとも厄介だ」
流石の公斂処父の執念には敵わないと思い陽虎は逃げた。
一方の公斂処父は陽虎追撃を申し出ていたが、仲孫何忌は許可しようとしなかった。
公斂処父は乱の原因となった季孫斯を殺して孟氏の権力を拡大しようと考ええていた。それを察知している仲孫何忌は季孫斯を季孫氏の家に帰し、これ以上の乱が起きないようにした。
季寤は、季孫氏の廟で酒を注いで祭ってから逃走した。
もはや魯に居場所が無くなっている陽虎は讙と陽関に入って叛した。




