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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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傲慢の代償

 紀元前502年


 正月、魯の定公ていこうは斉を侵して陽州の城門を攻撃した。

 

 魯の顔高がんこうは大弓を持っていた。

 

 魯の陣営で並んで座っていた士卒達が、大弓を手にして珍しそうにして、


「顔高様の弓は六鈞(当時の百八十斤)もある」


 と言いながら、次々に隣の士卒に弓をまわしていった。顔高から弓が遠く離れた時、陽州の兵が出撃してきた。

 

 顔高は自分の弓がないため、他の兵から弱弓を奪った。しかし斉の籍丘子鉏が射た矢が中り、顔高ともう一人の兵が一緒に倒れた。

 

 顔高は地面に倒れたまま弱弓を射て、矢は籍丘子鉏の頰に命中し、彼を殺した。


「弓は無くとも我が腕は本物である」


 そう呟いて顔高は死んだ。

 

 魯の顔息がんそく(顔高の一族?)が射た矢が斉人の眉に中った。顔息は陣に戻ってから肩を落とし、


「私は無勇(武勇がない。射術に優れていない)である。私が狙ったのは目であった。しかし眉に中ってしまった」

 

 魯軍は陽州の兵たちの急襲を前に引き上げることになった。冉猛ぜんもうは先に帰りたいため足を負傷しているふりをして前を走った。

 

 それを見た兄が叫び、


「猛は殿しんがりとなれ」


 と命じた。

 

 これは冉猛が足を負傷したふりをして先に引き上げて、行軍の列に弟の姿がないことに気づいた兄は、弟が逃げるために前に行ったと知った。しかし、それを偽って、


「猛は殿になった」


 と大声で話し、弟がいないことをごまかしたとも言われている。

 

 二月、魯と斉の対立は言わば、晋と斉の対立でもある。そのことを理解している晋の趙鞅ちょうおうは晋の定公ていこうに進言した。


「諸侯の中で宋だけが晋に仕えているのです。宋の使者を優待してもまだ足りないと心配しなければならないのに、我々は逆に使者を捕えてしまっております。このままでは諸侯との関係を失うことになりましょう」


 ただでさえ衛が斉との好を通じようとしている状況なのだ。宋までも離れれば、晋は盟主としての立場が危うくなる。

 

 定公はこの進言を受け、楽祁がくきを帰国させようとした。

 

 しかし士鞅しおうは、


「足掛け、三年も拘留しておきながら理由もなく帰らせれば、逆に宋は晋に背くだろう」


 と考え、秘かに楽祁にこう伝えた。


「我が君は宋君に仕えることができないことを恐れ、あなたを留めております。あなたはとりあえず溷(楽祁の子)に命じてあなたと交代させるべきではないでしょうか」

 

 楽祁は陳寅にこの事を話すと、陳寅は首を振って止めた。


「宋はもうすぐ晋に背きますので、溷と交代させれば、溷を棄てることになります。あなたが留まるべきです」

 

 楽祁は楽溷を招くことはなかったが、自分自身は宋に帰ることにした。しかし晋東南の大行(太行山)で亡くなった。

 

 士鞅は、


「宋は必ず背くだろう。この死体を晋に置いて、講和に使うべきである」

 

 楽祁の死体は州(晋の地名)に置かれた。


「無能めが……」


 趙鞅はそう呟いた。


(生者にも死者にも礼儀の無い男だ)


 彼は士鞅がろくな目に合わないだろうと思った。

 

 

 




 魯の定公は再び斉を侵し、廩丘の郛(外城)を攻めた。

 

 廩丘の主人(守将)が衝車(攻城兵器)を焼いて、抵抗するが、魯は馬褐(麻の短衣。貧しい人の服)を濡らして火を消し、攻撃を続ける。

 

 ついに廩丘の外城が崩壊した。ところが廩丘の主人が出撃すると、魯軍は逃走し始めた。

 

 陽虎の近くに冉猛がいた。


 陽虎は彼が見えないふりをして、


「猛がここにいれば必ずや、敵を打ち取ることができようが」


 と言った。

 

 それを聞いた冉猛は発憤して廩丘の兵を駆逐し始めた。しかし後ろを見ると魯兵が彼の後に続こうとしなかった。


 すると冉猛はわざと転倒して追撃を止めた。

 

 それを見た陽虎は吐き捨てるように、


「皆、客気(嘘。偽り)であるなあ」


 と言った。

 

 陽虎が見えないふりをして冉猛を奮い立たせたことも偽り、冉猛が転倒したのも偽り。冉猛の勇そのものが偽りだと言ったのである。


 ある意味、嘘だらけの戦と言えるかもしれない。

 

 

 

 二月、周の単武公が穀城を攻め、劉桓公が儀栗(儋翩)を攻めた。続いて、簡城、盂を攻めて四城とも陥落し、周王室が安定させることに成功した。

 

 儋翩は殺された。


 夏、斉の国夏こくか高張こうちょうが魯の西境を侵した。しかし、斉は晋が周のことを気にしなくとも良い状況であることが意識の外に置いてしまっていた。

 

 晋の士鞅、趙鞅、荀寅が魯を援けるため、進軍したのである。

 

 晋軍が至る前に斉軍は兵を還した。流石に晋と真っ向から戦えるほど、斉に度胸はなかった。

 

 魯の定公が瓦で晋軍と会し、士鞅が羔(子羊)を、趙鞅と荀寅が雁を礼物にして定公に会った。魯はこの時から羔を貴い物とし、上卿だけが使えるようになる。

 

 瓦から引き上げた晋軍が鄟沢(衛地)で衛の霊公れいこうと盟を結ぶことにした。趙鞅が主導したことである。


 彼は以前の魯の無断での衛国内の通過を晋が咎めなかったことで、心が離れていることを感じていた。それにより、晋との関係を修正するため、衛と盟を結ぼうと考えたのである。


「群臣の中で衛君と盟を結べる者がいるか?」

 

 と、趙鞅が言うと、大夫の渉佗と成何が進み出た。


「我々なら盟を結べます」

 

 会盟が始まると、霊公は渉佗と成何に犠牲の牛耳を切るように命じた。会盟の礼では、身分の低い者が牛耳を切り、身分が高い者がその場に臨むのが決まりで、衛は小国であるが、晋の代表は大夫なので身分は霊公が上になる。

 

 ところが成何は、


「衛の地は晋の温や原の地(どちらも晋の県)と変わらないから諸侯とみなす必要はない」


 とした。

 

 霊公が歃血の儀式を行おうとした時、渉佗が霊公の手を払いのけたため、犠牲の血が霊公の腕にかかった。

 

 晋の無礼に対して霊公は激怒した。それを知った衛の大夫・王孫賈おうそんか(または「王孫商」。王孫牟の後代)が小走りで進み出た。


「今回の盟は、晋が衛君と誓い、礼を伸ばすことが目的であるはずです。礼を行うことがないにも関わらず、この盟を受けるというのでしょうか」

 

 霊公は晋から離反することにしたが、諸大夫の反対を恐れた。


 そこで王孫賈は霊公を衛の郊外に住ませた。大夫がなぜ帰国しないのかと問うと、霊公は晋の無礼を語った。


「私は社稷を辱めてしまった。改めて後嗣を卜え私はそれに従うだろう」


 自分は社稷を辱めてしまったから帰国できない。そのため別の国君を立てろということである。諸大夫は彼の帰国を願い言った。


「これは衛の禍です。国君の過ちではございません」

 

 霊公が更に言った。


「他にも憂患がある。晋は私に『汝の子と大夫の子を質(人質)に出せ』と要求された」

 

 諸大夫は、


「もしも質を出すことに益があり、公子が晋に行くというのであれば、群臣の子も馬を牽いて従いましょう」

 

 諸大夫は晋と対立したくないため人質を送る準備を始めた。

 

 王孫賈が霊公に進言した。


「衛に難があっても工商がまだ患憂としておりません。彼等を全て動かさなければなりません」


 工商からも質を出させなければならないという意見である。国君や卿大夫に難があっても工人や商人等には関係ないため、国人全てに晋を憎ませる必要があるという意味がある。

 

 霊公がこれを諸大夫に告げ、工商業等に従事する国人も人質を送ることになった。人質が衛を発つ日が決められた。

 

 当日、霊公が国人に朝見させました。国人が集まると、王孫賈を派遣してこう問わせた。


「もし衛が晋に叛したとて、晋が五回我が国を攻めれば、どれくらい危険だろうか?」

 

 国人が答えた。


「五回攻撃を受けようとも我々はまだ戦えます」

 

「それならば、先に叛して危険になってから質を送っても遅いことはないではないのか」

 

 国人は同意し、人質を中止して晋から離反した。


 晋は改めて盟を結ぼうとしたが、衛は拒否した。

 

 趙鞅の努力は無碍に扱う晋の傲慢さが生んだ結果と言えた。



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